San Francisco Zen Centerphoto/Hirofumi Nagano text/Kotaro Inaba
サンフランシスコの朝5時は暗くて寒い。人も車もほとんど通らない。そんな住宅地の一角、ヴィクトリア朝風のレンガ造りの建物に、外套にくるまった人影がぽつぽつと集まってくる。 無言で着替えをすませると、無言で明かりのついていない部屋に入り、無言で黒いクッションの上に足を組んで座る。背筋を伸ばし、目を閉じて、呼吸に意識を集めているのだろう。じっと動かない。 ここはサンフランシスコ禅センターのゼンドー(禅堂)。およそ30坪の板張りの部屋のなかで、30人ほどの白人の男女が物音も立てずに坐禅をしている。頭を剃り、黒い袈裟に身を包んだ僧も何人かいるが、普段着の人も多い。空気は冷たく、ピンとはりつめている。それでいてみんながひとつのことに集中しているときの、不思議な熱気のようなものを感じる。 30分の坐禅のあとは、10分間のキンヒン(経行)だ。ここでも人々は無言で、ゆっくりと、一歩一歩、右足を、次に左足を、前に出していく……「わたし」という人格などとうに消えさり、その一歩に成りきってしまっているかのように。 ふたたび坐禅。35分間。ほんのときおり近づいては去っていく車の音が、ここがインドの山奥の僧院などではなく、現代のアメリカの大都市なんだと思い出させてくれる。 坐禅が終わり、6時40分からはティーチング・ルームに移動してサービス(法要)の時間。仏像を前にして合掌礼拝、いくつかのお経を唱える。『般若心経』は英語に翻訳したものをそのまま棒読みにする。
色即是空 のところは、
form is emptiness となる。なんだか違和感があるけれど、漢訳経典をそのまま音読するのとは違い、意味がストレートに伝わってくるのも確かだ。
ぼくがアメリカの禅センターに興味をもったのは、それほど最近のことではない。1995年、ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンに同行して来日したリチャード・ベイカー老師とじっくり話をする機会があり、自由闊達でユーモアにあふれ、それでいて根元的な仏教のあり方を追求する姿に感銘を受けた。 「日本の仏教はサービス中心の、文化仏教になってしまっている。自分自身の問題に真剣に取り組む人たちには物足りないかもしれないね」 1972年から83年までサンフランシスコ禅センターの2代目堂頭(Abbot)として、その発展に貢献した老師の言葉は、そのころ何冊かの仏教雑誌にかけもちで記事を書きつつも日本の仏教にはがゆさを感じていたぼくにとって、とても共感できるものだった。いつかは禅センターに足を運んでみたい。その実践的な活動を日本に紹介すれば、オウム真理教事件以来、人々の信頼を失ったまま新しい方向性を打ち出せていない日本の仏教にも刺激になるのではないか。
だいたいにおいて英語で書かれた仏教書は、日本語のものより分かりやすい。大学の印度哲学教室で多少の勉強をした、ぼくのような人間にとってさえ、そうなのである。仏教用語のなかにはサンスクリット語あるいはパーリ語を音写したものも多く、その日本語からはまったくもとの意味が伝わらないものものもある(たとえば「般若」は深い仏教的な智慧をあらわすパンニャ・プラジュニャーの音写)。あるいは長い時間をへて、インドから中国、日本へと仏教が伝わるなかで、現在では意味が変わってしまっている言葉もある(念仏の念satiはもともとは口に出すのではなく心に気づくことだった)。そうした言葉も日本では仏教の権威のもとに、あいまいなまま、そのままのかたちで使用されている。ぼくなど、そのほんらいの意味を分かっているようで、実は分かっていなかったりする。 英語による仏教典籍の翻訳や研究が始まったのは19世紀の末のこと。だから日本と同じようにはいかない。元々の意味、深いところでなにを言おうとしているのか、それを理解していなければ、意味の通る文章にすることはできない。鈴木俊隆老師はほんの2、3人の生徒に話すときにも、たいへんな努力で翻訳と資料作りをしていた。奥さんがみかねて声をかけても、「生徒が3人でも1000人でも、わたしにとっては一緒なんだ」と答えたという。こうした人たちの努力のすえ、よくかみ砕かれた、分かりやすい英語のテキストができているのだ。
そしてサンフランシスコ禅センターは、こうしたムーブメントの最も重要な発生源であり、大いなる担い手であった。翻訳書では分からない、そのナマの姿に触れてみたい、と思った。(WHO ARE YOU?18号 より抜粋) |