Japanese religion in Paris











宗教とは自分の内側に深く深く入っていくものだけど、同時に
布教の名の下に、外へ外へと広がっていくという性質も持っている。
パリというヨーロッパの中心において、日本から来た宗教たちは、
どんな活動をしているのか。リポートしてみました。


 今回はフランス・パリにおける日本生まれの宗教の活動状況をリポートしたい。

 パリといえば文化的にはもちろん政治的にも経済的にもヨーロッパで最も重要な都市のひとつである。日本人の滞在者も多く、平成三年十月の時点でフランス全土に一万六千百六十四人、パリ市内に七千七十三人の長期滞在者がいる。当然、日本の宗教の支部もたくさんあるのだろうと思っていた。ところが、実際いくつかの教団を取材させてもらった結果、その勢力分布というか存在の仕方が当初予想していたのとはずいぶん違っていた。

 ぼくが現地で確認できた限りでは、曹洞宗・日本山妙法寺・創価学会・天理教・PL教・世界救世教・晴明教・真如苑 以上八つの教団がパリに支部を持っている。 仏教ということで付け加えるならば、これ以外にチベット仏教の寺、ベトナムの仏教の寺がある。また「SANGHA MAGAZINE 」という立派な仏教雑誌が売られている。 この中で既成仏教の教団は曹洞宗ただひとつだということに注目したい。日本国内における仏教の立場を考えるとこれはさびしい数字だ。曹洞宗以外はいわゆる新宗教の教団だが、その活動もまた日本での規模とはかならずしも一致しない。日本ではほとんど知られていない晴明教という教団が、凱旋門のすぐ近く(日本で言えば銀座四丁目か)で活動しているのには驚いた。

 もちろん教団の勢力をうんぬんするのはこの原稿の目的ではないのだが、単に資金力では計れない宗教の面白さを見るような気がする。


禅は宗教を超えたもの

 では各教団について順番に書いていこう。まずは曹洞宗の仏国禅寺Paris Zan Fu Koku Zenji。この寺はパリ十一区ケラー通りにあり、国際禅協会Association Zen Internationaleの本部もかねている。もよりの地下鉄の駅はバスチーユ駅。

 寺と言っても、外見的には日本のそれとはまるっきり違う。コンクリート作りのビルの一階部分を改造して禅関係のグッズ売り場と事務所があり、その奥に七十平方メートルほどの道場がある。境内はなく、荘重な伽藍もない。だからはじめは「こんな場所でちゃんとした座禅ができるのか」と思ったのだが、すぐにそれはまったくの思い違いだと分かった。

 ぼくが出かけた日は土曜日。午前十一時から座禅が始まるのだが、その三十分ほど前からぞくぞくと人が集まってきた。白人もいれば黒人もいるが、日本人はひとりもいない。みな無言で黒い袈裟に着替え、丸い座布団を抱えて道場へ向かう。

 十一時ぴったり、道場の入口の暖簾が降ろされた。それぞれ壁に向かって結跏趺座の姿勢をとる人たちは全部で五十人ほど。年齢は二十代から五十代くらい。男女は半々くらいだろうか。遅れた人は廊下で座禅を組んでいる。

 入口から右側に剃髪のフランス人の僧侶が三人座り、道場の中にも何人か剃髪の男がいる。最初の三十分の座禅のあいだ、動く者は誰もいない。みごとな姿勢だ。その後は経行、さらに座禅、フランス語の説法、読経(フランスなまり?の迫力ある般若心経)と続く。すべてが終わったのは十二時三十分だった。

 この日は土曜日だったので場所を移して昼食会があった。二十ほどの男女が集まりワインの栓が抜かれた。

 仏国禅寺の代表レイモン・レッシュさんによれば、この寺はもともと曹洞宗の弟子丸泰仙師が開いたもの。弟子丸師は朝比奈宗源師や沢木興道師の教えをうけたのち一九六五年単身パリに渡り、禅の普及に努め、一九八二年亡くなった。レッシュさんは二十年前に弟子丸師に出会い、現在まで座禅一筋に取り組んできた。道場では月曜日を除く毎日座禅が行われ、火曜日から金曜日までは一日三回、土曜日は二回、日曜は一回座禅会が開かれる。会員は五百人ほど(日本人はひとりもいない)。仏教徒もいるが、クリスチャンもいる。

「なぜなら、禅は宗教を超えたものですから」

 レッシュさんはいう。

「禅とは宗教の根源です。あらゆる哲学の、英知の根源にあるものです。エゴを忘れ、ほんとうの宗教のこころを思い出す道なのです」


みんな何かを求めてる

 先ほど迫力ある般若心経と書いたが、レッシュさん自身も迫力のあるお坊さんだ。西洋人が丸坊主にすると、凄味が出る。さらに彼の言葉もまた、凄味のあるものだった。パリの片隅でこのような迫力ある座禅に出会ったのは驚きだった。現在ヨーロッパ全体では二百の道場があり、約五千人が座禅をしているという。

 なぜこんなにも禅が広まったのだろう。もともと鈴木大拙師らの著書を通じて禅に関する知識はあった。しかしそれはどちらかというと文化、あるいは教養としての禅だった。ここでの禅はもっと生活と密着しているように見える。

 この点を同席していた僧侶のニコラス・リシューさんは説明してくれた。

「このフランスで多くの人は、人生に満足していません。おいしいものを食べたり、きれいな洋服を買ったり、物質的には満たされていても、心の中では何かを求めています」

 キリスト教は解決を与えてくれなかった。禅に出会う前はチベット仏教の修行をしていたが、どこかで不満を感じていた。それが座禅をしたとたん、変わった。

「釣りをしていて、魚が針にかかったときの感覚って分かりますか。あんな感じでしたね」

 それまでの自分は狂っていた、と彼はいう。武器の輸出の仕事をし、普段の生活でも怒りやすく、セックスに貪欲だった。それが完全に変わった。今では禅は生活そのもの。生活のすべての局面において、禅が生きていると話す。ところでこれだけの規模の道場に日本人がひとりもいない、フランス滞在者で顔を出す者もいなければ、日本の禅寺から教えにあるいは修行に来るものもいないというのは、どう考えたらいいのだろうか。日本での禅の現状についてレッシュさんに聞くと、

「日本の禅はそのルーツを忘れて、セレモニーと化している。禅が、生きている者、修行する者のためではなく、死者のものになっている」

 と手厳しい。まだ若いリシューさんに日本から先生に来てほしくないかと尋ても、

「先生?もちろん来てほしい。火星からでも来てほしい。それが、本当の法を伝えてくれる先生ならば、ね」。

 たしかに今の日本の仏教は葬式中心。ぼくらも仏教にそれ以上のことは期待していないし、お坊さんたちも雑事に忙しくてぼくらの生活に口出しする余裕もないだろう。仏教が形だけのものになっていくのも当然だ。しかしこんな純度の高い禅がパリに残っているなら、これを逆輸入するというのも面白いと思う。

「ところで」

 グラスを手にリシューさんはいった。

「ぼくのカミさんはギャラリー・ラファイエットというデパートで働いているんだけど、セールの季節だから日本人がたくさんやって来て、メチャメチャ買いまくっているといっていた。それこそ、新しい宗教みたいだね」

WHO ARE YOU?18号より抜粋)


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