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 みなさま、たいへん、たいへんお待たせいたしました。WHO ARE YOU?18号ができあがりました。17号をつくってからもう2年近く……。ときたま「WAYはどうなってるの?」なんて聞かれることもあったりして、エンセン井上じゃないけどココロイタイ思いをしておりました。

 ここ2年くらい、20歳半ばくらいの、初めて原稿用紙というものを目にするようなライターたちに教わったことのひとつが、なにが「イケてる」のか、なにが「おしゃれ」で「かっこいい」のかということ。彼らはどんなモノでも、ヒトでも、この価値基準で即座に判断します。でもこれって、すごく奥が深いと思うのです。

 「かっこいい」って、別に顔とかスタイルがいいとか、流行の高い服を着ているとか、そういうことじゃないんです。その調和とはずし、深さと浅さ、流行と不易、そういうものの微妙なバランスの上に成り立っている概念で、昨日かっこよかったものが今日はもう「終わってる」というのはざら。


 「かっこう」の大事さは、たとえば道元禅師の只管打坐にも通じる。座っている姿がそのまま仏の姿だということは、足を組んで手を組んで背中を伸ばしたあの姿勢に、とても大事ななにかがふくまれているということ。長い修行をへた禅僧の座る姿は、ほんとうにかっこいい。それは内側と外側が一致しているかっこよさだ。

 今回取材したサンフランシスコ禅センターには、イケてるお坊さんが何人もいた。堂頭のブランチ・ハートマンさんの迫力とやさしさは、日本の仏教者のなかでもついぞ感じたことのないものだった。中庭にすくっと立ったブランチさんを撮りながら、カメラマンの長野さんが「熟練のサーファーみたいにバランスがいい」とうなっていた。タサハラから降りてきたばかりのデイヴィッド君の、すっと伸びた背中は、一本の若木のようだった。彼らは別に見た目を気にしているわけではないのに、なぜか顔も、姿勢も、着ているものも、しゃべることも、住んでいるところも(?)、ファッショナブルであった。彼らの純粋さ、真剣さが、外面にあらわれているような気がした。あんまり書くと西洋コンプレックスなんて言われかねないけど、ね。

 そういえばティク・ナット・ハンだってかっこよかったなあ。茶色いローブとサンダルだけなのに、パリコレの舞台に立ってもおかしくないほどのセンスのよさ。藤田一照さんはティク・ナット・ハン来日のときにお会いし、個人的にお話を聞くことができた曹洞宗のお坊さん。そのころはぼくもあんまり知識がなかったけど、澤木興道というえらいお坊さんの弟子の内山興正というえらいお坊さんのお弟子さんだったのだ。そして藤田さんも、家族とアメリカに渡り、ヴァレー禅堂という小さな修行集団を教えるイケてるお坊さんだ。


 一方で日本の精神世界はというと、ずいぶんかっこ悪いように思える。言いたいことも言えない状況なのか、言いたいことがないのか?

 五木寛之の『他力』が売れているらしいけど、なんでみんな黙っているんだろう。とくに浄土真宗の宗門その他関係者の方々。他力って意味が違うじゃない。他力って自分以外の誰かの力とかっていう漠然としたものじゃなくて、ズバリ(A猪木)阿弥陀如来の力ってことでしょ。それよりひどいのは、本願。この本では(世間一般でもそうだけど)、我々が他力を頼りにするみたいな意味につかっているけど、本願の主体っていうのは阿弥陀如来、法蔵菩薩なわけでしょう。

 法蔵菩薩が世の中の生きとし生けるものたちが、南無阿弥陀仏と三べん唱えてそれで浄土に生まれなかったら、自分は涅槃に入らないっていう宣言。そんでもって法蔵菩薩は今は阿弥陀如来になっているわけだから、誰でも阿弥陀さまの名号と唱えれば浄土に生まれることができるっていう信仰。

 だから他力って、とてつもなく宗教的な言葉ですよね。なんで浄土真宗のひとたちが怒らないのか? 不思議でしょうがない。以前、蓮如賞をとった新妻香織さんに「日本の仏教はマゾ」って話したことがあるんです。新妻さんはそのことを蓮如賞の授賞式のスピーチで言ったらしいんだけど、あとで「浄土真宗がマゾなんですよ」と言われたらしい。いや、確かに歴史的なものをみてもそうかも。笑えないけど。

 もっとひとつ理解できないのは、相田みつを。誰でもああいうことを言ったり書いたりしたい時期ってあると思うんだけど、それってせいぜい大学生まででしょう。なにかがおかしい。なんかへんだ。


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