Sea of Orca








Deepecology report


 この文章は1991年の夏、カナダの無人島でオルカの研究をするポール・スポング博士を訪ねたときの記録です。単行本『コンビニエンス・マインド』(大蔵出版)として発表したものの一部ですが、WHO ARE YOU?のホームページにぜひアップしてほしいというリクエストがあったので、ここに再掲載します。

 なおこの取材に同行してくれたカメラマンの宮地岩根がオルカや博士の素晴らしい写真を撮っています。そちらのほうも、そのうち紹介できたらと思っています。


 みんな思っているはずなのに、口に出せないことがある。エコロジー・ブームに対する批判も、そのひとつだろう。

 エコロジーとか自然保護という言葉を聞いて、なんとなく釈然としない気持ちをいだくのは、ぼくだけだろうか。もちろん、自然破壊が緊急に対処しなければいけない問題だというのはわかるし、自分をとりまく環境について気にすることは、生き物として当たりまえのことである。それでも、正面から「自然保護」を口に出せない。なぜなのだろうか。いつかは環境問題の専門家に会って、原因を考えてもらいたい。そんなふうに思っていた矢先のことだ。

 カナダの無人島に住むオルカ(シャチ)の研究者に会って、取材をしろという依頼が来た。研究者の名前はポール・スポング博士。オルカの研究では、世界的に有名な人物という。

 この話は、友人の「セント・ギガ」のスタッフから持ち込まれた。すでに耳にしたひとも多いだろうが、セント・ギガとは人工衛星を利用した音楽放送。クラシックからニューエイジまでさまざまな音楽に、動物の鳴き声や波の音などの自然音を重ねた比類なく美しい音の世界を放送する、まったく新しいメディアである。決められたタイム・テーブルというものを持たず、潮の満ち引きや月の満ち欠けを示した「タイド・テーブル」によってその日の選曲がなされるという点では、まさに自然と人間の「メディア=媒介」ともいえる。一九九一年四月の開局に際し、スポング博士からメッセージが寄せられた。

 約2分間の、幻想的なオルカの鳴き声のあと、おだやかな、それでいて力のこもった声が語り始めた。

「この星で上手に生きていくことについて、オルカはなにかを教えてくれているように思います……。彼らはもうずっと長いあいだ、ワタシハココニイマス、アナタガソコニイテヨカッタと呼びかけながら、この星に生きてきました。何千年どころか、何百万年ものあいだ、おたがいに仲むつまじく暮らしてきました」

 スポング博士は、オルカの生き方、自然や他の生物との調和の上に成り立つ生活が、人間の未来になんらかの示唆をあたえてくれるはずだという。この考えは、ちょっと意外だった。

 オルカは、日本ではシャチと呼ばれる動物だ。成熟した雄の体長は九・五メートル、体重八トン以上。鋭い牙を持ち、世界中の海に生息する。この地球上でもっとも強大な動物といってもいいこの動物を、ひとびとは古来恐れた。その名を漢字で書けば鯱。魚偏に虎とくれば、その性格として思い浮かぶのは獰猛さだ。英語圏ではさらにイメージが悪く、キラー・ホエールと呼ばれている。映画「オルカ」を持ち出すまでもなく、この動物を平和的な生き物と考える人は少ない。

 その殺し屋クジラが築くのはどんな社会なのか。彼らは人間の未来について、なにを教えてくれるのだろうか。

 そして、もうひとつ。スポング博士がオルカの呼びかけという「ワタシハココニイマス、アナタガソコニイテヨカッタ」という言葉は、アメリカの小説家カート・ヴォネガットの最初期の作品『タイタンの妖女』に出てくるセリフだ。金星にハーモニウムという生物が棲んでいて、彼らの言葉というのは、この"I'm here, I'm glad you are there."しかないのだという。これをオルカが話すというのは、どういうことなのだろうか。


裸足のドクター

 スポング博士が住むハンソン島は、カナダの西端ブリティッシュ・コロンビア州にあるバンクーバー島の、北の端に位置する。東西六キロほどの、ごく小さな無人島だ。島のある一帯はジョンストン海峡と呼ばれ、アメリカ本土とアラスカとを結ぶ航路の要所である。同時に、世界でも有数のオルカの生息地でもある。有名な動物写真家、水口博也さんの写真集『オルカ』(早川書房)や『オルカ アゲイン』(風樹社)は、このジョンストン海峡のオルカを題材にしたものだ。

 バンクーバーから飛行機で北へ向かって一時間、さらに車で四十分、フェリーに乗り換えて四十分。アラートベイという釣り客が集まる小さな島に着く。夏とはいえ、セーターが必要なくらい寒い。そこからハンソン島までは船で二十分ほどの距離なのだが、もちろん定期便などない。セント・ギガの録音スタッフとぼくは、トゥアンという優雅な名前(TUANとはマレーシアで男性に対する尊称としてつかわれる言葉)のホエール・ウォッチング・ボートに乗ってオルカと対面し、そのあとハンソン島まで送ってもらうことになった。

 このオルカ・ウォッチングは、忘れられない体験となった。

 ジョンストン海峡には約百九十頭のオルカが生息しているといわれている。とはいえ、この広い海に百九十頭である。はたして実際にオルカに会えるものかどうか、不安もあった。ところがそんなのは、まったくのとりこし苦労だった。

 遠くの波間に黒い三角形が見える。それはあっという間に近づいてきて、人間の背丈ほどもある背びれだと分かる。海面の下にある体は、いったいどれくらいの大きさなのか。そう思っているうちに、巨体はTUANの船体の真下をくぐって通り過ぎていった。そのときオルカの横顔が見えた。目のすぐ後ろにある白い楕円形の模様が、まるで悪魔の目のようにジロリとこちらを見たような気がした。

 顔を上げると、何頭ものオルカがいる。背びれの小ぶりなのは、雌。ときおり飛び跳ねているのは、子供のオルカだ。オルカの泳ぎはゆったりとしていて、それでいてリズムがある。そのリズムがなんとも心地よい。最初に小さな三角形が見え、それからスーッという感じで背びれの全体があらわれて、オルカの丸い背中がつるんと出てくる。オルカ・ウオッチングは絶対クセになる。

 数時間のクルーズで、何十頭のオルカを見ただろうか。あとで聞くと、この日のオルカは大サービスで、こんなにたくさん見ることができるのは十日に一回もないという。

 とりあえずオルカには歓迎されたのかな、と話しているうちに博士の研究所と家のあるハンソン島についた。

 スポング博士の研究施設である「オルカ・ラボ」は島の北側、ブラックフィッシュ湾に面した岩場の上に建てられている。トゥアンを近くまで寄せると、博士がみずから小さなボートで迎えに来てくれた。

 西洋人としては小柄で、スマート。身のこなしも軽やかで、とても五十二歳とは思えない。ざっくりした白いセーターを着て、足は裸足だ。

 岸に着くと、笑顔でスタッフひとりひとりの手を握った。秀でた額、その下の優しそうな目が印象的な顔。

「科学者というより、アーティストみたい」

 取材スタッフのひとりが言ったが、たしかにそう思う。

 荷物を解く間もなく、さっそく「オルカ・ラボ」とその周辺を案内してもらう。ぼくがラボラトリー=研究所という言葉から想像していたのは、コンクリートの建物、最先端のコンピュータ設備、室内プールには何頭ものオルカが泳いでいる……。まあ、それは大袈裟にしても、実際のラボを見てアレレと思った。

 オルカ・ラボといってもいかにも手作りの、木造の小さな小屋だ。湾に面して大きなガラス窓がついている研究室は六畳もないかもしれない。室内にはソニーのカセット・テープレコーダーやラジオが置かれ、おびただしい数のカセット・テープが雑然と積まれている。

「この近くの海中に、水中マイクが設置されています。オルカが近づいてくると、鳴き声が研究所のスピーカーから流れる仕組みです。マイクは四カ所に配置されていて、オルカがどの方向からどの方向へ移動しているか、わかるようになっています」

 博士が説明してくれた。オルカの声はテープに記録され、鳴き声による個体識別のための研究資料となる。とはいえ厳密な分析作業は将来のことで、現在はひたすらサンプルを収集することが主な仕事だ。

 驚いたことに、ラボには日本人の若者が三人もボランティアとして博士を助けていた。スポング博士の評判を聞き、テントと食料を持参して、夏の間の数カ月をここで過ごすのだという。彼らはオルカが大好きのようだった。

「オルカが全然見えない日もあるし、一日に四回も五回も来る日もあります。オルカが近づいてきたのがわかると、オルカ! って大声で叫ぶんです。そうするとみんな飛んできて、ベランダから手を振るんですよ」

 ボランティアのひとりが言った。同じ研究でも、こういう自然のなかでの研究というのは、のどかで楽しそうだ。

 研究だけでなく、博士の生活も自然そのものだ。飲み水も、シャワーの水も、すべて雨水を利用している。電気は太陽電池から得ているが、研究機材のためのもの。ここは日が沈むのが極端に遅く、午後十時くらいまでは明かりがいらない。暗くなったら寝ればいいのである。暖房やサウナの燃料は流れ着いた流木だ。

 博士の家族は妻のヘレナさん、娘のアナちゃんの三人。彼らが住んでいる母家と「オルカ・ラボ」、そしてぼくらが泊めてもらった「ヤシの家」は、自然の木で作ったもので、どれも大きなガラス窓があって太陽の光をたっぷりと取り入れている。(ヤシというは、今はバンクーバーにいる彼の長男ヤシャ君のニック・ネーム)

 家の裏はうっそうとしたアメリカ杉の原生林だ。こういうほんとうの原始のままの森というのは、その中に踏み入るなんとも厳粛な気持ちになるものだ。腐葉土の堆積した地面は分厚い絨毯のようで、歩くとふかふかと気持ちよい。そこにはさまざまな動物たちが棲んでいる。ハチドリ、カワセミ、キツツキ、リス、白頭ワシ、鹿の声もする。地面には十センチはありそうな巨大ナメクジがはっている。

 こうした自然のなかを、博士はゆっくりと裸足で歩く。まるで、地球を土足で踏むことを、ためらっているかのように。

 夜は、博士の妻ヘレナさんの手料理を御馳走になった。彼女は元教師で、アラート・ベイの学校に赴任してきて、博士と出会ったという。きさくな人柄で、とにかく料理がうまいのが有り難かった。メニューは魚と野菜を中心にしたものだが、レパートリーが豊富で飽きることはなかった。忘れてならないのは、朝、焼いてくれるマフィン。絶品である。チョコレートの入ったものが最高で、あれを食べるためだけでも、もう一度ハンソン島に行きたいと思うほどだ。

 だがここで疑問が湧いてくる。自然の中での研究というのはいい。だがおせじにも整っているとは言えない設備でどんな成果が期待できるというのだろう。オルカについてどんな新しい発見ができるのだろう。もちろんフィールドワークは自然科学の重要な要素だが、それを解析する手段がなかったら研究といえるだろうか。スポング博士ははたして「科学者」なのだろうか。

 オルカ・ラボには電灯がない。夜は、暖炉の炎以外は真っ暗闇になる。すべての部屋にとりつけられたスピーカーから、ときおりオルカの鳴き声が聞こえてくる。ときには子どもたちがはしゃいでいるように。ときには女がすすり泣いているように。


音に飢える

 ハンソン島に着いて三日目の午後。博士にゆっくりとインタビューする時間をとってもらった。コーディネーターとして同行したミキ・キャノンさんに通訳をお願いして、まず、博士の子供のころの話を聞くことにした。彼の自然に対する考え方の根本には、幼年時代をすごした場所の記憶があるはずだと思ったのだ。

「わたしが生まれたのは一九三九年、ニュージーランドの北東の海岸沿いにあるワカタネ(WAKATANE)という町。人口三千人ほどの、とても小さな町です」

 多くのひとは牛や羊を育てて生計を立てている。自然のままの川や森林もたくさんあって、遊ぶ場所には困らなかった。また、なにより子供がひとりで行動できる安全な場所だった。

 その町でスポング少年は、どんな子供だったのだろうか。

「テニスとかホッケーの好きな、ふつうの子供でした。スポーツは得意なほうで、ハイ・スクールでは陸上の選手をつとめたこともあります。読書も好きでしたね。冒険コミックやディケンズの小説、ウィリアム・ブレイクの詩もよく読んでいました」

 そういえばブレイクに「虎よ! 虎よ!」という詩があった。

 虎よ! 虎よ!
 ぬばたまの夜の森に燦爛と燃え
 そもいかなる不死の手のまたは目の作りしや
 汝がゆゆしき均整を

 この翻訳は、アメリカのSF作家で寡作の人として知られるアルフレッド・ベスターの『虎よ 虎よ』(中田耕治訳/ハヤカワ文庫)のなかに使われていたもの。ぼくはこの詩の「虎」の部分を、「オルカ」におきかえてもピッタリだと思った。野性の虎の強さ、恐ろしさはそのままオルカに通ずるものがある。なにしろ魚偏に虎と書く動物なのだ。

 さて少年時代をニュージーランドの田舎町ですごしたスポング少年は、弁護士を目指してオークランドのカンタベリー大学法科に入学。ところがたまたま出席した心理学の授業がおもしろく、方向転換。オークランド大学で心理学の修士号をとる。

 アメリカにわたり、一九六六年カリフォルニア大学ロサンゼルス校で博士号を取得。オルカとの出会いは、職を求めて出向いたバンクーバー大学においてである。

「最初は、単なる仕事だったのです。それまでオルカの聴覚については研究されていましたから、わたしは視覚をテーマにすることにしました」

 実験はそれぞれ一本の線と二本の線を描いた二枚のカードをオルカに見せ、それを識別させるのだ。イルカ同様にオルカはかなりの知能を持っているといわれる。予想どおり、オルカの識別能力はほぼ百パーセントだった。

 ところが同じ実験を三カ月ほど続けたある日、突然、正解率が〇パーセントになった。 なぜか。

「考えられる理由はただひとつ。オルカが実験を拒否している。もう、やりたくないといっていたんです」

 オルカの機嫌をとるため、彼はいろいろ試みたが、結果は思わしくない。そこであるとき、スピーカーをペンキの缶に入れ、プールにつっこんで音を流してみた。

「するとオルカが反応したんです。オルカは音楽が好きだったのです。考えてみれば、自然の音がふんだんに聞こえる場所からコンクリートに囲まれた無音のプールに移されて、オルカは音に飢えていたんです。そのときはじめてオルカに興味がわいてきました。そこで、いろんな種類の音楽を試したところ、クラシックが一番いい、とわかりました」

 ベートーベンのバイオリン・コンチェルトをかけたときは、オルカが噴水のように口から水を吐いて踊ったと、博士は身振りをまじえて話す。

 オルカが生きるうえで、音は不可欠のものだった。だが、それはオルカだけに限らない。「筑波病」というのを知っているだろうか。茨城県筑波研究学園都市の周辺で昭和五八年から六一年にかけて日本人の平均の二倍以上もの高い自殺率が見られた。この自殺の多発と音が、どうも関係があるらしいのだ。

 一九八八年、当時筑波大学応用生物科学系講師だった大橋力さん(現在は放送教育開発センター教授。もうひとつの顔は「芸能山城組」の組頭山城祥二)は、コンクリートの住宅では高い周波数の音が遮断され、人間の生理に望ましくない影響を与えるという実験データを発表。さらに九一年十月、人の耳には聞こえないとされていた二〇キロヘルツ以上の超高周波が、人の脳にアルファ波を出させる働きがあることを証明するデータを発表した。

 コンクリートに囲まれ自然の音から遮断されたプールは、いかに不快な場所だったか。そして、そこに音が持ち込まれたときのオルカの喜びはどれほどもものだったろうか。

「音楽にあわせて踊るオルカを見ていて、なんてスゴイ動物なんだろう、と思いました。同時に、こんな素晴らしい動物が、こんな狭いところに閉じ込められて、なんて可哀相なんだ、と」

 オルカは自由であるべきだ。こう思った博士は、オルカをプールから海へ帰すよう大学に申し入れる。それが大学当局の反感を買い、結局は大学を去らざるをえなくなる。一九七〇年六月、博士はここハンソン島にわたり、オルカを観察する日々がはじまる。水中マイクをいくつも設置し、ほとんど一日中オルカの行動を耳を通じて観察する。十年ほど前までは、ラボの近くをとおるオルカがいると、カヤックで漕ぎだして話かけたり、フルートを吹いて聞かせたこともあった。だが、それも結局はオルカの生活を邪魔することになると思い、いまはベランダから双眼鏡で眺め、あとはひたすらオルカの声を録音する毎日である。オルカと同じように、ただ、耳をすます。いつかはオルカたちのおしゃべりに加われると、信じて。


完全なる受動態

 博士はオルカを調べ、記録して、結局のところなにを見いだそうとしているのだろう。

「オルカの社会とはどんなものか、知りたい。オルカは成功した生き物です。もう百万年もこの形で生活しているのです。それに対して、人間は社会的な問題をたくさん抱えていて、成功しているとはいえません。生き延びるチャンスは少ないのです」

 オルカの社会は、音によるコミュニケーションで成り立っている社会である。オルカは数頭から数十頭からなる集団=ポッドを単位にいつも行動している。ポッドのメンバー同士は非常に結びつきが強い。狩りをするのも、遊ぶのも、つねに一緒である。そして、ポッドはそれぞれ独特な鳴き声のパターン(ダイアレクト=方言)を持っているという。

「彼らはアコースティック・ワールド(音の世界)に住んでいます。永い時間をかけて、音によってコンタクトする方法を進化させてきました。離れた場所にいる仲間とも会話ができるし、多分、相手のコンディションもわかるのでしょう」

 会話の内容についてはくわしいことはまだ分かっていない。ただ言えるのは、声によって自分の存在を相手に知らせること。そして相手がそこに存在することを容認すること。オルカの会話は「ワタシハココニイル。アナタガソコニイテヨカッタ」だと博士が言ったのは、こういう意味だったのだ。

 博士はオルカのことを「アコースティック・アニマル」と呼ぶ。聴覚動物とでも訳したらいいのだろうか。要するに、感覚器官のなかでもとくに聴覚が発達した動物ということだ。このことはもしかしたらすごく重要なことかもしれない。

 耳というのは他の感覚器官と違って、完全に受動的な器官である。たとえば口は、食物を味わうと同時に思想を語ることができる。目も「口ほどにものを言う」し、鼻でさえ「鼻息を荒くする」という表現手段を持っている。ところが耳ときたら、ただひたすら聴くだけ。自分の存在を主張することは一切ない。

 視覚ではなく聴覚を発達させたオルカは、受容ということの大切さをあらわしているように見える。

 オルカの「殺し屋」のイメージは、巨大なクジラを集団で襲うところからきた。だが、それはあくまで食物連鎖の一環であり、人間はどうこう言うことではない。問題はオルカ同士が殺し合うことが、まったくないということだ。

「オルカは肉体的には、この地球上でももっとも強い動物です。人間にすれば核兵器に匹敵するようなものすごい攻撃力をもっています。けれども、その攻撃力を仲間に対し使うことはありません。人間も、生き延びることをのぞむなら、このオルカの生き方に学ばなければ」

 この言葉に、博士の自然観の一端が見えるような気がした。彼は、オルカ=自然を、愛すると同時に恐れている。あとで聞いたことだが、彼が水中にマイクを仕掛けて水面に上がろうとしたとき、ちょうど真上をオルカが通過したことがある。そのとき彼は非常に怖がっていたという。

 もしもオルカを恐れず、ただ一方的に哀れむだけだったら、彼は保護のための研究と称して、ヅカヅカとオルカの生活に踏み込んでいたかもしれない。だが、彼は距離をとった。それは、相手がオルカだったからではないか。このラボが自然のままなのも、予算が無いのはもちろんだろうが、この自然に対する恐れと敬いの気持ちがそうさせているのではないか。ここでの研究は、すぐにも論文で発表できるものではない。自然を切り取り分析するという意味では、博士はすでに科学者ではない。しかし自然と人間とのほんとうの関係を探っているという意味では、彼こそ真の科学者と言ってもいい。

 オルカは自然そのものだ。オルカの黒と白の模様は、強さと優しさ、荒々しさと愛情を象徴している。陰と陽。そういえば、オルカは、タオのシンボル・マーク「太極図」に似ているように思う。

 ぼくたちが自然に対するとき、忘れてならないのは、この自然の二面性だと思う。自然を「保護」することばかり考え、恐れ敬う気持ちを失ってしまえば、しょせんはいつか「利用」するときまでの保護になってしまう。

 人間のエゴイズムから導かれたエコロジーは、人間のための「エゴロジー」でしかありえない。


心の奥深く、自然を感じることができるか

 その日の夜中、午前一時ごろ。うとうとしていると、ぼくらが寝ていた「ヤシの家」のスピーカーから突然オルカの声が流れはじめた。急いで外へでると、オルカの「ブフォオオ」というブロウ(潮吹き)の音が聞こえた。周囲の森が自然のホールのような役目をして、ただでさえ大きな息吹が何倍にも増幅されて聞こえる。こんな夜には夜光虫がオルカのからだにまとわりついて、金色に光るオルカが見られることもあるという。

「オルカ・ラボ」に顔を出すと、博士がヘッドフォンでオルカの声を聞いていた。

「オルカはあらかじめスケジュールを教えてくれないからね。どんなに疲れているときでも、ベッドから飛び起きなけりゃいけない。まるで、いつまでたっても赤ん坊のままの、駄々っ子を抱えているみたいだよ」

 そういいながらも、懐中電灯の明かりで見る博士の顔は、楽しそうだ。

「ここにいると仕事も私生活も一緒。でもね、一日中家族と居られるのは、うれしい」

 娘のアナちゃんは十一歳。マドンナが好きという明るい女の子だが、難しい時期でもある。ここにいては、友達もできないからだ。

「妻と娘をアラートベイに住まわせて、私はここに残ったことがあった。でも、彼らと別れて暮らすのは、ほんとうに辛かった」

 博士にとって、家族はかけがえのないものだ。博士がオルカにこだわるのは、なによりオルカが家族を愛する生き物だからかもしれない。そういえば、こんなことがあった。ハンソン島について二日目の夕方のこと。取材スタッフのひとり、コーディネーター兼通訳のミキさんが、心配そうな顔で部屋に戻ってきた。博士の様子がおかしい。なにやら落ち込んでいるようだという。

 じつはこの日、博士は朝六時から出掛けていた。前妻とその娘に会うために、バンクーバー島に行っていたのだ。前妻たちとのあいだにどんな会話があったのかしらないが、博士はほんとうに疲れた様子で、椅子に体をうずめていた。ヘレナが寄り添うように、すぐ近くに立っていた。

 これは、あくまでプライヴェートな問題かもしれない。でも博士の思想を語るうえで、ぼくはぜひ書いておきたかった。いまの日本のエコロジー・ブームで欠けているものがあるとしたら、こうした人間の喜怒哀楽だと思うから。

 日本ではバブル経済の破綻とともに、企業が自然環境の保護を訴えるテレビ・コマーシャルが完全に姿を消してしまったという。結局この国のエコロジー・ブームは、その場かぎりのコンビニエンスなものでしかなかった。それは欧米から輸入されたものであり、ファッションであり、表面的観念的なものだった。

 一方欧米でのエコロジーの最先端の考え方は、「ディープ・エコロジー」といわれる。深層生態学。自然を対象化してとらえるだけでなく、自分の内面の問題として自然を見つめる。自分自身が自然そのものであることの自覚。それは、人間がほんらいもっているはずの人格やナマの感情を、もっと大事にすることに違いない。このことに気づかずに環境としての自然を論議するだけでは、話は深くなっていかないのではないか。

 ラボの壁には、「オルカ・ラボ・プロジェクト」と題して、将来のオルカと人間のあり方を示したイラストが掲げられている。それによると、現在の水中マイクに加えてビデオカメラを設置し、居ながらにしてオルカの姿を見ることができるようにする。また、ホエール・ウォッチング・ボートは禁止して、陸上からオルカを観察できるようにする。そのためのサイクリング・ロードをつくる……。

 スポング博士のオルカの社会に関する研究は、まだまだ時間がかかるだろう。設備も、資金も、じゅうぶんとはいえない。ハンソン島とその周辺にさえ押し寄せる開発の波もある。でも彼なら、自然と折り合いをつけながら、着実に成果をあげてくれると思う。

 最後に、日本に返ってから気がついたことを書いておきたい。インタビューの終わりにぼくは、なぜ人間はオルカのように平和的になれないのか。人間同士の争いはなぜおこると思うか聞いた。すると博士は、一分近く考えたあとに、自分の手を見ながら、

「この手が原因でしょう」

 といった。

 このときは、ふーんと思っただけなのだが、日本に帰国してからオルカの骨格を調べようと動物図鑑を見ていて、あ、と驚いた。オルカなど水中の哺乳動物の手は、一枚の板のように考えていたが、実は、骨はちゃんと五本の指の分だけあるのだ。生物は海から発生し長い時間ののちに陸に進出した。しかし、陸に上がったもののうちのある部分は、ふたたび海に帰っていった。彼らはいったん手にした文明への足掛かりを、みずから捨てることに成功したと考えられないだろうか。

 一度は我が物にした武器を、捨て去る。

 同じことが、人間にもできるだろうか。


Copyright(c) 1996 BODHI PRESS. All Rights Reserved.