内観療法体験記








 洗面用具と着替え。シ−ツと枕カバ−。
 それが持ち物のすべてだった。
 2泊3日の出張のわりにはやけに軽い荷物を下げて、ぼくは西武池袋線の特急レッドアロ−号に乗った。意外と早く45分で到着した飯能駅から国際興業バスに乗り換えて1時間。あたりにはほとんど民家もないような山の奥だ。バス停からさらに曲がりくねった道を車で10分。目指す「名栗の里内観研修所」はあった。
 出迎えた中年の女性から簡単な説明を受けたあと、8畳の和室に案内された。薄暗い角には屏風が立っていて、1メートル四方の空間を形成している。
「では、このなかに座ってください」
 笑顔だが、うむを言わさぬ雰囲気である。心の準備をする間もなく、座布団の上に腰を下ろす。目に入るものは屏風だけ。時折鶯の声が聞こえてくるくらい。こうなると、自分の内面に目を向ける以外、することがない。どうやらぼくは、すでに内観のペースに巻き込まれているようだ。


内観は根治療法

 1時間ほどして、応接間に集まってくださいという放送があり、所長の本山陽一さんが内観について説明してくれた。
 内観とは大正5年生まれの吉本伊信という人物が創始した精神修養法だ。刑務所の受刑者の更生のために利用されたこともあったが、アルコール中毒の克服や精神疾患にも効果があることが分かり精神科医からも注目され、内観療法と呼称されることもある。日本オリジナルの心理療法としては森田療法とこの内観が世界的にも有名だが、森田療法は禅の、内観は浄土真宗の伝統のなかから生まれてきた。
 内観に訪れるケースは大きくふたつに分けられる。まず自己啓発のために、教師や企業研修につかったり、少年院などの施設、医者やカウンセラーが来ることもある。ふたつめにはさまざまな悩みを持ってくるケース。会社での人間関係、夫婦の問題、子どもの非行や不登校、病気の治療など。ここしばらくは摂食異常の患者も多いという。年齢は下は小学生から上は80歳代までその範囲は広い。
 今回一緒に内観したのは高校2年生の男の子、それから20代と思われる女性、40代くらいの女性。全部で4人だった。あとで聞いてことだが、高2の男の子は学校から送り込まれていた。喧嘩をして同級生を殴ってしまったのが原因だ。20代の女性は精神科医の紹介、40代の女性は家庭の問題を解決したくて来たという。
 動機は千差万別だが、やることは、まったく同じである。
「まずお母さんについて、してもらったこと・して返したこと・迷惑をかけたこと」
 という3つのテーマについて一番古い記憶から3年きざみで具体的な事実を思い出すのだ。それもただ単に、「世話になったなあ」と雰囲気に浸るのではなく、事実を細かく、念入りに思い出す。
 なぜ母親なのか。生まれて以来もっとも世話になっているひとだから、思い出しやすいこと。一番身近なひとだけに、飾らないほんとうの自分の姿が見つめられるから。
「誰だって、生まれて一年くらいはひとりでは何にもできないわけでしょう。泣けば、すべてをお母さんがやってくれたはず。そういう、自分が愛されてきたんだと言う事実を確認することが大切です。それが分かれば自信ややる気が生まれ、創造力が育つんです」
 小学校低学年が終わったら、小学校高学年、中学校と進んでいく。母親について現在まで思い出したら、次は父親、祖父母、配偶者、兄弟姉妹、友人、会社の上司、部下へと進む。一週間では2回りか3回りする計算になる。
「内観とは、しあわせになる能力を、繰り返しによって養成すすること」だという。同じひとのことを何度も繰り返し調べるのは、知識によって理解するのではなくこころの奥深いところで実感するためだ。子どもが同じ絵本を何度も何度も読むように、してもらったことを何度も思いだし味わうことによって気がつかないうちに内面が変化してくるのだ。「内観は対症療法ではなく根治療法です。表に現れている問題は枝葉であって、人格そのものを向上させることによって癒されていくのです」


返したことの少なさに愕然となる

 部屋に帰って、実際にやってみる。まず、母親について小学校低学年でしてもらったことにトライしてみるが、これがなかなか思い出せない。まず過去のことに集中するというのが難しいし、そのころというのは自分と母親はほとんど一体の関係である。母親を対象として考えることが困難なのだ。それでも目を閉じて集中して思い出そうとすると、今度は眠くなってくる。「これを一週間続けるのは、けっこう大変かもしれんぞ」
 何十分たっただろうか、ふと、自分が4歳のとき、はしかにかかったときの情景が目に浮かんだ。そのとき母は今では見かけなくなったゴム製の氷枕に氷をたくさんいれて、熱を冷やしてくれた。そのときの部屋の様子、病院の風景も思い出してきた。
 大人になってからはほとんど思い出したことがない出来事だ。いかに大切にしてくれたかがじわーっと分かってきた。
 それに対して「して返したこと」は、いくら考えてもひとつも思い出さなかった。こちらは子どもなのだから当たり前なのだが、もしこれを一般の人間関係に置き換えたら、とんでもないことを自分はしていたのが分かる。「迷惑をかけたこと」はたくさんありすぎる。朝から姉と喧嘩したこと、野球のユニフォ−ムを買ってもらったのに、1回しか練習に行かなかったこと。
 1時間ほど経っただろうか。本山さんが面接にやってきた。
 向かい合って正座し、合掌したあと、静かな声でいう。
「この時間は、なにについて調べていただけましたか」
 自分が思い出したことを語ると、それについてコメントするでもなく、
「次はいつを調べていただけますか」「よろしくお願いします」
 という言葉を残して去っていった。ああしろこうしろという説教めいたことは一切言わないし、アドバイスもしない。内観とはあくまで自分との対話であり、本山さんのような面接者はそれをサポートするだけなのだ。


1メートル四方の非日常的空間

 しばらくすると夕食が運ばれてきた。屏風のなかで食べるのだ。これにはちょっとうんざりしたが、集中をとぎれさせないための方法なのだろう。食事の内容(多分奥さんの手作り)は以外と充実しているのにもびっくりした。内観の前身である浄土真宗の「身調べ」では飲まず食わず眠らずでやっていたという。それはないにしても、食事は一汁一菜だと覚悟していたから、うれしかった。あとでわかったことだが吉本さんができるだけ内観者がいい環境で集中できるようにとの配慮として薦めたのだという。
 食事がすんで、次は母親との関係で、小学校高学年のことを思い出す。屏風で区切られた空間は風も入ってこないし、同じ姿勢をしているのも疲れる。胡座をかいたり、正座したり、立て膝になってみたりするが、なかなか決まらない。この姿勢の不安定さは、ぼくのこころの定まらなさを表しているようにも思う。
 しかし、よく考えてみると、この状況は自分が選んだものなのだ。最初はかなり窮屈な感じもしたが、それは強制されたものではない。高さ1メートル80センチほどの屏風は動かそうとすればいつでも動くもの。出るのはいつでもできる。実際、トイレに立つのも自由だし、喉が乾いたらお茶を飲んでもいい。
 そう思いつくと、やってやろうじゃん、という気になるから、不思議である。
 その後も面接が二回。中学校のときまで終わった。就寝は9時。こんな時間に寝ることなどないが、緊張したせいか意外とぐっすり眠れた。窓から入ってくる夜の空気が心地よかった。
 朝は5時起床。布団をたたみ、部屋を掃除したあとすぐに屏風のなかに入る。昨日の続きで高校生の3年間、母親にしてもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことを思い出す。模擬試験のとき、朝早く起きて朝食の用意をしてくれたこと。このくらいになってもいかに母親に世話になっていたかが分かる。それに対して、自分が返したことはまったくないということに気付いて愕然としてしまう。隣の子は肩をもんであげたとか、母の日に花を贈ったといっているのが聞こえる。俺は一体なんなのだろうか。
 母親について終わったところで、今度は父親について思い出す。幼稚園のころ、布団のなかで本を読んでもらったこと。空き地でキャッチボールをしたこと。日曜日、湘南の海まで自転車をこいだこと。
 それに対してぼくがして返したことは、やっとここ数年、ボーナスのときにいくらかの仕送りをしたことくらい。あまりにもバランスを欠いている。  2日目の夜、父についての現在まで調べたあと、なんともいえない感じがあった。父と母からどれほどのものを受け取ってきたか。それに対して、自分はなにも返していない。
 こんな自分でも彼らは無条件に愛してくれた。それは自分自身を受け入れるということだ。
 9時就寝。隣の高校生が話しかけてくる。内観道場ではほんとうは同室のもの同士が話をしてはいけないのだが、彼が話したそうにしているしこちらは明日には帰ってしまうのだから、少し励ましてやろうと思った。彼はひょろりと背が高いけれど優しそうな、女の子みたいな顔をした少年だ。こんな子がひとを殴るなんて信じられない気がする。聞いてみると内観の間中、いやでいやでたまらないという。彼はまだ若いので、内観の年代の区切りが2年から1年ごとなのだ。とても、してもらったこと、して返したことなど、思い浮かばないので、いつもどうやって嘘をつこうかと考えているという。屏風のなかではほとんど寝ているそうだ。
 それはそうだろうなと思う。高校生で、しかも自分から内観をやりたいと言って来たのではなく、問題を起こしたから学校から無理矢理送り込まれてきたのだ。帰りたいと思って当然だ。
 本山さんの話でも、企業の研修など、自分の意志ではなく来た人の場合はなかなか難しいという。ただ、最初の3日目くらいまでは必死に抵抗しているが、それを過ぎると次第に集中力がついてきて、気もちも乗ってきて、とてもいい体験になることがあるという。
 三日目の午前中。母親に対する小学校高学年のことを調べた時点で時間切れ。やっと乗ってきたところである。どうせなら、一週間続けたいなあと思った。


こころの自然治癒力

 さて、ここまで内観のやり方とその効果について書いてきたが、では内観がなぜ効果的なのか。この名栗の里だけでも11年間に1500人以上のひとが訪れ、癒されていったという。そのメカニズムはどういうものなのだろう。
 本山さんによれば、内観の意味は、まずはひとつのテーマについてじっくりと考えることによって集中力が養われる。また、具体的事実を思い出すことにより感謝の気持ちが生まれる。
「ふだん我々は物事を主観的に見ているでしょう。それを、客観的に見るんです」
 と本山さんは言う。事実をありのままに見るのは勇気がいる作業だ。そのときに愛情というものを媒介にすることによって、無理なく進んでいけるのだ。「確かにお父さんやお母さんを恨んでいるひともいるでしょう。でも、そのままだったら、自分も同じ道を歩んでしまうことになる。乗り越えていくためには、愛情という視点から見て、お父さんお母さんを一回受け入れてみることが大事です。受け入れて初めていろんな問題が処理されるんです」
 さらには本人に自覚がなくても、無意識の部分に効いているという場合もある。
 西洋の心理療法との比較では、精神分析などはただ思い出しなさいというだけで、取り組むのが難しいし、それだけカウンセラーあるいはセラピストに依存する部分が大きい。一方内観は愛情を確認する作業だ。まずいい部分を見ようとする。その点では調和的というか、やわらかいアプローチだといえよう。またセラピストへの依存が少ないという意味で、精神の自己治癒力を高める方法である。無理してやらせることはないし、本人のやる気次第。その点、副作用の心配が少ない。内観を体験したことによるマイナスの事例は今までにないそうだ。
 マインド・コントロールとの違いはなんだろうか。そう聞くと本山さんは、
「それは本人の自主性の問題でしょう」
 という。宗教のマインド・コントロールが無理やりすすめられて、しかも回りからがんがん強制されるのに対し、内観は自分が主人。
 またマインド・コントロールは暗示をかけるのだが、内観はあくまでも事実を見つめること。本人の身に起こったことを、そのまま掘り起こすこと。
 その分、本人の必然性が熟していない場合、時間がかかることもあるだろう。でも、ひとたび気づきが得られれば、それは自力で勝ち取ったものだけに本人にとっての価値はぜんぜん違うのだ。
 さて、内観から帰って一週間。この原稿を書いている時点で、ぼくはなにか変わったのだろうか。たしかに帰ってから2、3日はつねにこころの中で手を合わせているような感覚があったが、それも夏休み進行の激務のなかで薄れてしまった。ひとにしてあげたことはいつまでも覚えているくせに、してもらったことは忘れてしまう。人間とはかくもコンビニエンスなシステムなのだ。
 それでも内観2日目の夜の、あのような境地があると分かり、そこに至る方法論を知ることができただけでも収穫だと思う。なにかあれば、あそこに戻ればいい。そう思うと、なにか安心なのである。


本山陽一さんは高知県生まれの42歳。5歳の時に母親の実家に預けられ、心理的な不安を体験する。その後母が再婚するが養父とうまく行かず、悩む。心理療法の本などを読み漁るが、言っていることは分かるけどそれと同じ気持ちになれないという感じを抱く。20代のときに夫人のお母さんに勧められて内観と出会う。三日目くらいから景色が変わってくるのに気づき、四日目五日目に内面からははじけるような体験があった。32歳から内観研修所を主宰する。3人の子どもの父。
 昼は野鳥の、夜は虫の声が応援してくれる「名栗の里内観研修所」。連絡先は、

名栗の里内観研修所
 埼玉県入間郡名栗村上名栗1688-3 
電話 0429-79-1002

吉本伊信さんは大正5年生まれ。若くして事業に成功し、昭和12年から内観普及に勤める。昭和63年逝去。
 内観はもともとは「身調べ」という浄土真宗の一派に伝わる修行法を、現代風にアレンジしたもの。「身調べ」が断食・断水・断眠という厳しい条件で「今死んだら、自分の魂はどこへいくのか」と問い詰めていくものだったのに対し、内観は3食きちんと出るし、睡眠も十分にとれる。考える方向性もきちんと筋道を立ててくれる。非常に懇切丁寧な修行法だといえよう。
 最初は刑務所の受刑者を更生させるための方法として有名になったが、しだいに学校の教師、精神科医などに注目されるようになった。内観学会では内観の治癒のメカニズムを解明中だ。奈良の内観研修所は未亡人のキヌ子さんが守っている。

内観研修所
 奈良県大和郡山師高田口町9-2 
電話 07435-2-2579


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