死が癒す








死が残したもの

 ……そのころになると、彼は自分の意志にかかわらず、尿や便の失禁をしてしまうようになっていた。尿道には、いやおうなく留置カテーテルが挿入され、尻には一日じゅう紙おむつがあてられていた。また褥瘡予防のためにと、身体の向きすら、機械的に左右に動かされた。気管切開されているからしかたがないのだが、彼のうめきさえ声にならないのだ。
 彼はまさに、物言わぬ物体でしかなかった。

 引用したのは、『病院で死ぬということ』(山崎章郎著 主婦の友社刊)のひとコマ、七十八歳で食道癌のために入院した患者の、五週目の様子を描いた部分だ。この延命治療は結局は妻の意志によって中止され、彼は二週間後に息を引き取ることになるのだが、自分を表現することもできずされるがままに扱われるその過程は、目を背けたくなるほど哀しい。
 そして、この患者が息を引き取ったあと妻に残されたものは、医師たちに対する怒りでしかなかった。
 著者によれば、病院ではこのような悲惨な死は「決して、珍しいものではない」という。これが現代の日本の、死の典型なのだろうか。私たちの人生は、このような形で終わるしかないのだろうか。だとしたら、残された者は哀しみと怒りとともに生きていくしかない。しかし、それが死の自然な姿と言えるだろうか。
 もちろん人間の死に優劣をつけるようなことはしたくない。でも、死にゆく本人にとって安らぎであるような、さらに残された者にとっても癒しとなるような、そんな死のあり方が存在しうるのかどうか。可能性を探ってみたい。
 まずは本誌でも度々紹介したC+Fワークショップを運営する、高岡よし子さんの体験を語ってもらおう。


死に顔に救われる

 昨年の春のこと、高岡さんは友人のAさんが癌だという知らせを受けた。かなり進行した肝臓癌で、その晩もつかどうかさえ危ういという。
「彼は吉福伸逸さんと一緒にC+Fを創設したメンバーのひとり。精神的にも結びつきが強かっただけに、そのときはショックで泣きだしてしまいました」
 葛藤が始まったのはそれからだった。Aさんは自分の病名をまだ知らない。夫人が告知を希望しなかったからだ。心理学やセラピーなど人間のこころの問題にずっと係わってきたひとだから、Aさん本人の価値観からすれば、当然告知を望むだろう。しかし告知したあとのケアをするのはAさんの夫人である。ふたりの関係に、周囲の人間が口出ししていいものだろうか。
 そんなことを考えながら見舞いに行くと、病床には苦しそうなAさんがいる。しかし病気のことは話題にできないから、世間話でもするしかない。
「今晩がヤマですね」
 医師からは、そんな台詞を何回聞かされたか分からない。その度に今度こそだめかと、みんなが覚悟する、ということが続いた。
 友だちみんなの意識が、Aさんの命の行方に集中していた。Aさんの事務所が家賃の支払いが苦しくなって引っ越しするとき、荷物の整理を手伝ったり、みんなで金銭的なバックアップをしたり。まるでなにか大きなプロジェクトに参加しているかのようだった。
 窓から差し込む日差しのちょっとした変化で、みんながはっとするような、そんな特殊な意識状態だった。
 入院して三カ月、Aさんは亡くなった。
「駆けつけて死に顔に接したとき、それまでの複雑な気持ちが溶けていくような気がしたんです」
 と高岡さんはいう。笑うような、柔らかな、安らかな顔だった。
「さすがだよね」
 誰かの口から、そんな言葉が出た。
 人間のこころとか成長の問題にずっと係わってきたひとだから、口で言っていたことを実行したんだ、と言うひともいた。
 病気が苦しくなかったはずはない。にもかかわらず笑顔で往くことができたのは、ただ運がよかったからではない。生きているときの価値観があったからこそだろう。
 安らかな死に顔に、夫人も救われたようだった。
 死に顔ということに関して、高岡さんはもうひとつエピソードを話してくれた。高岡さんの友人が男の子を産んだのだが、生後わずか十日で突然亡くなってしまったのだ。
「そのときも死に顔を見せてもらって、なんてきれいなんだろうとびっくりしました。なんて言うか、生きているとか死んでいるとかいうのを越えた、強烈な存在感があるんです。あの感じは、今でも残っています」
 もちろん悲しいことは悲しい。だけど、それを越えて、語りかけてくるものがあったと言う。


役割を果して死ぬ

 もうひとり島津義晴さんの体験も紹介しよう。島津さんは一九九〇年から「ナーム」誌のアート・ディレクションを担当しているデザイナー。今年の五月、まったく突然に夫人を亡くした。
「自転車のツーリングの帰りに家に電話したとき、かみさんが病院に運ばれたって聞きました。そのときなぜか直感的に、もう死んでるなって分かったんです」
 実際に島津さんが病院に着いたときには、人工的に心臓を動かしている状態だった。
「葬式、どうするんだ?」
 部屋の隅で義兄が言う。
「好きにさせてくれる?」
 島津さんは答えた。
 手作りの葬儀が始まった。
 島津さんは両親が四十を過ぎてから生まれた子どもだった。だから小学校三、四年のころから、「おふくろが死んだら、おやじが死んだら、どうしよう」という思いがあった。それから数年して身近なひとの死に立て続けに合う。十五歳のときに長兄が死に、十七歳で父親が、十八歳のとき恩師が、二十歳で一緒に暮らしていた友人が事故で死んだ。
「そうしたことを通じて考えたのは、供養ということです。死んでいったひとに、なんとか報いてあげたいということ。もしかしたら自己満足かもしれないけれど、なにかしてあげられないかな、という思いはずっと続きました」
 ある機会に田舎のお坊さんと話したとき、供養はどうするんだとリアルに迫ったのに、お坊さんは学問で答えてきた。がっかりして、身近なひとが死んだときは自分でお経あげようと思ったと言う。
 実際、夫人は葬式というものが嫌いだった。花の類も嫌いだったから、唯一好きだったかすみ草だけを飾った。当日はほんとうに仲の良かったひとだけを呼んだ。彼女が嫌っていたひとは、親戚でも声を掛けなかった。お坊さんも、お経もなし。ただ、お通夜のあいだ、島津さんが彼女のために編集した音楽のテープを古いものから順番にかけた。
 お通夜の日、九時ごろになって、部屋の雰囲気ががらっと変わったのが分かった。それまでは辺りにただよっていた存在感が、ふっとなくなったのだ。
「ああ、往ったな」
 島津さんは、思った。
 翌日はもう、焼き場で焼骨を前にしてもまったくショックはなかった。骨は魂が帰っていったあとの忘れ物ぐらいにしか思わなかった。
 こんなふうに書いていくと、奥さんが死んだにしてはずいぶん淡々としているように見えるかもしれない。でも、ショックが少なかったのには理由がある。
 島津さんには、彼女は死ぬべくして死んだんだ、という思いが強いからだ。上の娘は二十歳になって独立したし、心配だった下の娘も自分が教師をする美術学校へ入れた。親としての役割を果して、やるべきことはすべてやったうえでの死だからだ。


死は解放である

 島津さんの死のイメージはこんなふうだ。おたまじゃくしが一匹、大海原を目指して川を下っていく。水は淡水から塩水へと変わり、次第に苦しくなる。その苦しさのなかでおたまじゃくしは夢を見る。あとは夢の世界、中身は私たちには知りえない。
「ぼくらは常に死に向かって生きている。生きた結果が死なんです。だから死のことをそんなに考える必要はない。あとはどんな夢を見るかだけれど、それは生きているうちにどれだけイメージを持てたかどうかにかかっていると思う」
 死んだらどうなるかなんて永遠に分からないんだから、考えたってしょうがない。死んでから考えればいい、と島津さんは思う。
 高岡さんも、言う。
「心理学やセラピーの世界ではスモール・デスという言葉を使います。つまり肉体の死の前の、小さな死ということです。親の死だったり、離婚だったり、学生が社会に出ていくこともそうでしょう。そういうものは悲しいけれど、どこかで自由とか解放感とつながっているのも確か。サラリーマンが会社を辞めるときなど、考えれば分かるでしょう」
 その連想で言えば、これから迎える大死=肉体の死だって、自由や解放と考えてもいいだろう。それは仏教で身体から離れることを解脱と考えたことに通じてくる。
 死が怖いというのは、ひとつには自分という意識を失ってしまうのが怖いのだ。でも毎日の睡眠を考えれば、自我を越えていくこと、気持ち良さに繋がっていることがイメージできる。
 花や樹木が自分という意識などに惑わされずに、自然のものとして生きていることと同じだと高岡さんは考える。
 さて、島津さんにとっての葬式は、まだ終わっていない。夫人の遺骨をどうするか、という問題が残っている。コンクリートでできた墓には入れる気にならないのだ。
「じゃあ散骨しよう、ということになりました。来年の夏、東京から自転車に遺骨を積んで、カミさんが好きだった北海道の海に撒きに行きます。十日くらいかかるかな」
 すでに友人に頼んで、漁船を用意してもらうことになっているという。


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