はたして本当に国のためか?それとも民主主義の死か?

ネパール国王の権力奪取


 ネパール国立トリブバン大学の教師や級友たちによれば、クンダル・カムレの特徴を決定づけるものはずばり、不正に対するその情け容赦のない意識だという。人文科の学生で、学生組合のリーダーである彼は、多大な時間を費やし、メガフォンを手に通行人に向かい大声でがなりたて、キャンパス外の幹線道路を横断幕や燃やしたタイヤで封鎖し、政治に対する怒りを煽り立てる。彼の運動の対象は、人権問題からガソリンの価格にいたるまであらゆる領域にわたった。「彼に好感を抱くこともあったし、彼の言っていることが正しいと思う時もあった」人類学の講師のケシャブ・クマル・シュレスタ氏はこう言う。「だが、そうでない時は、彼にはイライラさせられたものだ。ほんとに手に負えないヤツだった。わかるだろ?」

 だが先週の火曜日(2月1日:訳者)の午前9時半には、カムレは抗議活動を行ってはいなかった。シュレスタ氏が言うには、15名の武装警官を乗せた一台のトラックが門の前に止まった時、22才の彼はプシャパティ・キャンパスの25周年記念に集まった大勢の人とお喋りをしていただけだった。ショットガンを手にした私服警官の一人が彼のもとに歩み寄った。二言三言、言葉が交わされた。そして突然カムレは両手を上げ、シュレスタ氏の方を見てこう叫んだ。「先生!先生!彼らは僕を連れ去ろうとしている!これはネパールの民主主義の死だ!」カムレはその私服警官にトラックまで引っ立てられ、そしてそのまま連れ去られた。同様の光景が、カトマンズやその他主要な都市のいたるところで繰り広げられた。警察や軍によると、その日、数百名の学生が逮捕された。刑務所はすでにマオイスト(毛沢東主義派)の反乱分子やそのシンパと疑わしき者たちで満杯であり、その日逮捕された学生たちは、軍の兵舎や接収体育館に連れて行かれた。狙われたのは学生たちだけではなかった。兵士は、洞窟のような白い漆喰塗りの政府の官舎にも踏み込み、閣僚たちを連行した。その中には首相のシェール・バハドゥール・デウパも含まれ、彼のみならずネパールのその他すべての政界の要人が自宅軟禁下に置かれた。

 その日、ネパール国民がテレビをつけると、そこには啓蒙的な内容のショーが映し出され、愛国歌が流されていた。午前10時になると、両脇をネパール国旗と王旗で固めたギャネンドラ国王が現れ「歴史的な決断」を告げた。そして、彼は次のように宣言した。「これまで数年間のネパールの苦い経験は、民主主義と進歩が相反することを示す傾向にある。自由主義を追求する中で、我々は重要な側面を見落とすべきではない。つまり、規律である。」彼の演説のさなか、ネパール全土の電話とインターネットの通信が途絶え、空港が閉鎖された。そして、装甲車と暴徒鎮圧用盾を持った兵士たちがカトマンズの狭い路地をパトロールし始め、検問バリケードを築き、学生運動家から人権活動家にいたるまであらゆる者を含む長大な逮捕者リストに名前の挙がる者たちを片っ端から捕えた。その後その日のうちに、国王自らが任命した内相により非常事態宣言が出され、表現・集会・情報・財産・プライバシー・報道と出版などの自由、組合と結社を結成する権利、そして理由なくまたは裁判を受けずに拘留されることのない権利が停止された。

 こうして、国王により、ネパールの14年に及ぶ民主主義の試みは終わりを告げられることとなった。少なくとも現在のところはだが。(国王は、3年を上限として、内閣とともに自らが統治すると述べている。)確かに、民主主義の実験が失敗であることは広く認められていることであった。この14年間にネパールでは14回政府が変わり、大衆の政治家に対する軽蔑はマオイストのゲリラ活動を勢いづかせ、1996年以来そのゲリラ活動により11000名もの命が奪われてきた。マオイストの運動が、みすぼらしい反政府活動家の一集団から、ネパールのほぼ3分の2を掌握する1万から1万5千もの勢力に変貌するのを目の当たりにし、紛争を終わらせる政治家の能力を信頼できなくなってしまったと国王は述べた。「流血、暴力、破壊によってこの国が破滅の崖っぷちにまで追い詰められてもなお、政治に関わる者たちは、、、目を閉ざし続け、、、そして権力争いに明け暮れている。」

 だが2001年、王宮内で起こった大量殺人事件以来、君主に対する国民の信頼もまた落ちるところまで落ちてしまった。この事件は、ディペンドラ皇太子がギャネンドラの兄であるビレンドラ国王とその他8名の王族を射殺し、最後に銃口を自らに向け自殺をするというものであった。国民の間でのギャネンドラの人気は、前任者ビレンドラ国王の足下にも及ばない。そして、権力を掌握することによって、マオイストたちの思う壷となってしまうかもしれない。彼らは君主制を転覆し、共産主義による共和国家の成立を願っているのだ。反政府勢力の反応は素早かった。マオイストの指導者プラチャンダは「大量虐殺者、堕落した売国奴、ギャネンドラ」と糾弾した。

 今回の国王による権力掌握には、世界もまた猛烈な反対の声を上げた。アメリカ合衆国とコフィー・アナン国連事務総長の双方は即座に民主主義が回復されるよう要求した。イギリス大使キース・ブルームフィールド氏はこの政権委譲をクーデターと呼び、英国政府はネパールに対するすべての援助の打ち切りを考えていると述べた。これは、国民の年平均所得がわずか240ドルで、国民の42%が最低貧困線下で暮らす国にとってぞっとするほど恐ろしい脅威だ。罪なき人々に対するネパール軍の拷問と虐殺を告発している国連人権高等弁務官ルイーズ・アルブール氏は、ネパールを訪れた際、ギャネンドラ国王自身が「明確な言葉で人権、民主主義、複数政党制に対する固い誓い」を彼女に約束したばかりなのに、と激怒をあらわにした。彼女のネパール訪問は、ギャネンドラ国王の権力奪取のわずか1週間前のことで、その時すでに彼はそれを計画していたのである。

 まばらな国王支持集会への参加を王室が必死に呼びかける一方、自宅軟禁下に置かれた政治指導者たちはひそかに記者たちに恐ろしいメモ書きを手渡した。「もしギャネンドラに十分な圧力をかけなければ、彼は暴走し、政党や政治指導者、国民に対して独裁的な手段をとるようになるかもしれない」次期首相候補と広く目されていたネパール共産党(統一派)の党首マダブ・ネパール氏はこう書く。しかし彼ですら、ネパールの政治指導者たちがこの国の民主主義運動の威信を傷つけてきたことに同意する。「政党の実績も発言の中身も、特に権力の座にある時は、感心できるものではなかった」TIMEへの短信に彼はこう書いた。

 一方、ネパール人のみならず外国人をも仰天させたのは、これまでの政府の無能ぶりと見事な対照をなす王室のクーデターの手際の良さであった。カトマンズでは抗議行動一つなく、交通渋滞さえ起こらなかった。国王同様、自分たちの記念すべき日のために、ヒンズー歴で縁起の良い日として2月1日を選んでいた数千組の結婚予定のカップルが予定通り結婚式を挙行した。正装したブラスバンドを先頭に、オレンジ色のカーネーションと銀色のリボンで飾り立てた車が通りを行進し、その婚礼の行列の音がカトマンズ中に鳴り響いた。

 今や多くの人々の心によぎる疑問はまさに次のことだ。国王が権力を握ったのはこの国を救うためなのか?それとも単に権力のためだけなのか?「ネパールの政党はあまりに無能だった」国王支持派の一人はこう言う。「彼らはこの国をまともに統治することがまったく出来なかった。その一方で反乱の勢いは増すばかり。それゆえ国王は自らが行動せねばならないと思ったのだ。独裁政治の方がより良い結果を得られると国王は感じているのだ。」王室の官吏の一人は、武力にせよ和平交渉によるものにせよ、マオイストの脅威がなくなり次第、複数政党による民主主義を回復する予定だと言う。「これが大きな冒険であることを国王は理解している。彼はあらゆるものを賭けている。国王の地位、家族、自分の命すら、この国とこの国の国民のために、賭けているのだ。」現在、政権内で国王に次ぐ重要人物と見なされている新外務大臣ラメス・ナス・パンディは、民主主義を回復すると言う国王の誓約などはもはや信用できないという考えを言下に否定して、次のように言う。「これは自らの臣民に対する国王自身の誓いなのだ。国王が複数政党制を誓約したからには、それにほんの少しでも疑いを抱くなど一体誰にできようか?」

 国王自身、TIMEのインタビューの中で次のように断言している。「国王は、姿はすれど声は聞こえず、という時代は終わった。もし私が一部の人間の領分を侵したのだとしたら、それは申し訳ない。だが、これだけは約束できる。この国の君主制は、国民の基本的な権利を奪うことを何人にも許すものではない。」しかし、その権利こそが今や無きものにされてしまったのだ。先週、政治家や学生が一斉に検挙されていくのと時を同じくして、テレビ、ラジオ、新聞社に軍の兵士たちが踏み込み、国と軍と国王に対する批判は非合法であると宣言した。その威嚇は効果てきめんだった。翌日カトマンズ・ポストがその社説で論じたのは天気とバグマチ川の汚染レベルのことであった。

 ネパールにおける人権を取り巻く環境が悪化するのはほぼ確かなことだろう。国連人権高等弁務官アルブール氏が言うように、すでに状況は「危機」的なものとなっていて、残虐行為は双方に見られる。マオイストはネパール中西部から極西部の山奥の谷間を恐怖政治によって支配し、好きなように人を処刑し、教師や医者などのような、彼らに取って代わる権威を持つ可能性のある人々に拷問を加えている。その一方、ネパール警察と軍は、人口2700万のこの国を、コロンビアを抜き世界一の「失踪」大国に押しやったとして、その責任を人権団体などによって問われている。伝えられるところでは、拘留後に行方不明となった人の数は、過去4年間に1200名以上にも上るというのだ。ヨーロッパ人外交官の一人は、非常事態権限にともない、軍がいっそう攻撃的になる危険があると言う。それはインドとアメリカにとって、特に憂慮すべき見通しである。というのも、彼らは、自動装填式ライフルやM16などのような武器をネパール軍に再び供与しているからである。この外交官は言う。「大きく危ぶまれているのは人権なのであり」、政府の障害となる者が「裁判もなく権利も与えられないまま」殺害されたり投獄される危険がますます高まってきている。

 ネパール軍スポークスマン、ディーパク・グルング准将は、人権は優先事項の一つであると述べる。そして、規律に反した将校たちによる「過ち」が過去において数例あったことは認めるが、そのような申し立てのほとんどは虚偽であったと言う。さらに彼は、政治指導者や活動家の拘留は「日々の円滑な運営」を保障するための単なる「予防的」な措置にすぎないものだったと主張し、こうも付け加える。「この国に逆らう行動を起こしたのはマオイストたちなのである。治安部隊は平和と安全を守るために戦っているのだ。人権団体は我々を同じように言うが、それは正しくない。」

 一方、外交官やアナリストたちは、実権を握ることで取り返しのつかない過ちを犯してしまったかもしれないことを、ギャネンドラ自身が気付き始めているのでは、と考えている。王室内で国王と非常に親しい者たちは、彼の権力奪取を国際社会は認めないだろうという忠告を国王は無視したと言う。また、国内での支持を過大評価していたかもしれないとも言う。先週末までに、観光地であるポカラを含む数都市で抗議活動が行われたという噂が出始め、ポカラではデモ参加者に対して警察が催涙ガスを発砲したとも言われた。先のヨーロッパ人外交官はこう語る。「国王は大きな間違いをしでかした。筋書きを読み違えたのだ。そして、マオイストたちに、事実上の勝利をものにし、完全な国の乗っ取りに向かって進む絶好のチャンスを手渡してしまったのだ。国王にとって、今回の政権掌握は実質上、最後の一手に等しい。もし、これがうまく行かなければ、我々はネパールの君主制の終焉をこの目で見ることになる。」

 紛争管理研究所(ニューデリー)のアジャイ・サーニ氏は、国王軍の戦略にも欠陥があると言う。彼の議論によると、軍はすでに完全に配備され切っている状態で、山中に潜むマオイストのゲリラを破るだけの動員可能数に欠けるという。彼は、現在はマオイストたちの方に分があると語る。「彼らは単に隠れ潜んで、国が内部から割れるのを見守っているだけでよいのだ。そのような事態が起こった時、その時こそ、ジ・エンドだ。しかもそれは目を背けたくなるようなものになるだろう。革命の祝賀記念は、敗れた者たちの首を街灯に吊るしたまま祝う傾向があるからだ。」賭け金はこれ以上ないほどに高いものになるだろう。ギャネンドラ国王が賭けているのは自らの王冠だけではない。彼は、自らの国の未来をも今まさに賭けているのだ。


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