子飼いの狼に噛まれたムシャラフ・・パキスタンの苦悩


 モハメド・ジャミルの死の間際の30分はたいそうせわしないものだった。C4プラスチック爆弾を満載した軽トラックの運転席で彼は携帯電話で109回ものやり取りを繰り返し、少なくともそのうち幾つかのものは、パキスタン大統領を亡きものにするための共犯者との交信であった。ジャミル(23)は、今まさに自分が残している証拠など、パキスタン大統領ペルベズ・ムシャラフ暗殺のために計画した爆発の中でバラバラになってしまうと思っていたかもしれない。だが、もしそうなら彼は間違っていたことになる。ジャミルと彼に続く二台目の自爆犯の二人は大統領の暗殺をしくじったばかりか、捜査員たちによってその携帯電話のメモリカードが爆発の破片の山から無傷で発見されてしまい、それによりパキスタン当局は事件の共犯者らしき数十人に辿り着くことに成功したからである。その多くはパキスタンの凶暴な過激派集団ジャイシェ・ムハンマドのメンバーであった。この集団は、かつてムシャラフ政権と繋がっていたのであるが、現在はアル・カイーダと密接な関係を持っている。そのアル・カイーダの指導者オサマ・ビンラディンは、つい最近出されたオーディオテープでムシャラフ政権の打倒を呼びかけていたのである。

 その携帯電話の交信で特に一つ捜査員たちを動揺させたのは、ジャミルとムシャラフの身辺警護にあたる巡回警察官とのものだった。ある捜査員がTIMEに語ったところでは、逮捕され現在尋問中のその警察官は、おとりのリムジンを数台使うムシャラフがどのリムジンに乗っているかをジャミルに伝えていたという。また、12月14日にも大統領がある橋を渡った直後にその橋が爆発するという事件が発生していて、アメリカおよびパキスタンの捜査員たちは、その事件にも大統領の警護隊内部の者が関与しており、未遂に終わったとはいえ、暗殺者が大統領の通る橋の下に五個の爆薬をしかけるのをその内通者が可能にしたのではないかと述べている。その大統領危機一髪の事件にはジャイシェ・ムハンマドの関与も疑われている。新たな指令がくだされ、大統領の車の列を護衛する警察官は、その職務中、携帯電話を携行することを禁止されてしまった。彼らが携帯電話によって連係し大統領を襲撃することを恐れてのことである。

 ことによると内部の者の助力を得ながらであるが、大統領に対してこのような手の込んだ攻撃をしかける能力がジャイシェ・ムハンマドにあるとすれば、それはある程度ムシャラフ大統領自らが作り出した状況でもある。これまで長い間パキスタン政府は戦闘的なイスラム集団を甘やかし大事に育ててきた。まず最初は隣国アフガニスタンからソビエトを追い出すのに手を貸すよう彼らを促し、その後は、現在インド支配下にあり、その領有を争っているカシミールのインド軍を苦しめるよう彼らを鼓舞してきたのである。ジャイシェ・ムハンマドが傾倒したのは、この後者の対インド・イスラム運動であった。こういったイスラム過激派集団に対するパキスタン政府当局の黙認の姿勢、そして時には援助は、1999年ムシャラフがクーデターにより政権の座に就いた後も続いた。彼はジャイシェ・ムハンマドの指導者であり戦闘的なイスラム聖職者モーラナ・マスード・アズハルに対しては特に協力的であった。2000年12月の囚人の引き渡し*でアズハルがインド刑務所から釈放された際、ムシャラフは、武装したアズハル支持者の集まる集会をカラチで大々的に開くことを、パキスタンに戻ったアズハルに許可している。また2001年には、失敗したものの、カシミールの様々なゲリラ集団に対してアズハルの下に結集するよう説得工作すらしている。

(*1994年、極秘にインド国内に渡りカシミールのイスラム過激派指導者たちと秘密会談をした後、アズハルはインド当局に発見され投獄されてしまう。イスラム過激派はアズハルを取り戻そうと凶悪な誘拐事件を繰り返し、そして1999年12月にインディアン航空814便をハイジャックし、人質乗客と交換にアズハル釈放をインド政府に要求するという事件を起こす。このハイジャックは一週間にも及び、インド政府はついに犯人側の要求に屈し、1999年12月31日彼を釈放することになる。英文中の「a prisoner exchange」はこのことを指すと思われる。ただし文中では2000年となっており、これは記者の勘違いか?:訳者)

 だが、そのパキスタン政府のイスラム過激派との協力関係は、9/11後、ブッシュ政権のイスラム過激派との闘いにおいてムシャラフがブッシュの側に立った時、厳しい試練を迎えることになった。とはいうものの、初めのうちムシャラフはパキスタン国内の過激派に対して慎重な態度を取っていた。ブッシュ政権の圧力により、彼は2002年1月に多くの様々な武装組織を非合法にするのだが、たいていの場合その指導者を拘束することはなく、新たな別の名で組織が再編成されるに任せていた。ジャイシェ・ムハンマドに関しては、彼は可愛がっているお気に入りの息子が非行に走り、それを見て見ぬ振りをし現実から目をそらそうとする親のような態度を取っていた。かつてジャイシェ・ムハンマドが勢力を拡大し、戦士をインド支配下のカシミールに潜入させるのに手を貸してきたパキスタンの諜報機関は、そのジャイシェ・ムハンマドがパキスタン国内で無差別宗教テロを開始してもなお、その取り締まりに消極的であった。11名のフランス人造船技師を死亡させた2002年5月のカラチでの爆破事件、およびパキスタン人12名の命を奪った同年6月カラチのアメリカ領事館前爆破事件は、ジャイシェ・ムハンマドおよびその傘下集団の犯行であると当局は断定している。ムシャラフがイスラム過激派に対して強硬な態度に出たがらなかった理由の一つに、そのほとんどがムシャラフ政権を支えるために必要な宗教政党と密接な繋がりを持っているためだとイスラマバードの外交官は述べる。

 だが彼の命を狙った(12月の)二件の襲撃事件以降、ムシャラフ大統領はこれまでにない考えを持ったようである。ジャミルの携帯電話から収集された情報に基づき、パンジャブ州中央地区警察は先週、モスクや神学校を捜索し35名以上の容疑者を拘束した。そのほとんどはジャイシェ・ムハンマドと繋がりがあると考えられている者たちである。数は特に明らかにされなかったものの、釈放されてしまった者もいる。だが、それでも、ついにムシャラフがジャイシェ・ムハンマドの追求に真剣になったようだとアメリカの当局者たちは勢いづく。それはワシントンが長年の間パキスタン政府につきつけ、ほとんど効果を得られなかった要求なのである。「彼は本気のようだ」アメリカ国務省の職員の一人はそう語る。「彼は12月25日に生まれ変わったのだ。」

 その先週の逮捕者の中には一人、2002年1月に起きたアメリカ人ジャーナリスト、ダニエル・パール氏誘拐殺人事件での共犯者として指名手配されている男もいた。パキスタン当局はすでにダニエル・パール誘拐事件において、ジャイシェ・ムハンマドとも関係の深い活動家アーマド・オマール・サイード・シークに有罪判決を下し死刑を宣告している。実際にダニエル・パールを殺害したのはアル・カイーダ指揮官ハリド・シェイク・モハメドであると語る証言者もいる。そのハリド・シェイク・モハメドは2003年3月1日アメリカにより逮捕された後、今もなおアメリカ国内で拘留されている。パキスタン対テロリズム担当政府高官によると、彼はディエゴ・ガルシア米軍基地に現在拘留中であるという。パキスタン内務大臣ファイサル・サレハ・ハヤトはTIMEに次のように語った。「12月25日の暗殺計画を画策した者たちがアル・カイーダとも関わっていた可能性が強くある。」

 ジャイシェ・ムハンマドとアル・カイーダが懇意な関係にあることは確かである。1990年代を通してジャイシェ・ムハンマドの戦士たちは、インド軍と戦うためカシミールに入る前には、アフガニスタンに渡りアル・カイーダの軍事訓練キャンプに参加していた。パキスタンの諜報機関は素知らぬ振りをしていた。最近ではジャイシェ・ムハンマドの活動家がアル・カイーダの戦闘員に隠れ家を提供し、そして、アル・カイーダはジャイシェ・ムハンマドを資金援助し指導しているのだとパキスタン当局者は語る。そして、おそらくは殺しの仕事をジャイシェ・ムハンマドに下請けに出しているのであろうと。パキスタン軍の退役将官で現在はイスラマバードで警備コンサルタントをしているタラト・マスードは次のように言う。「パキスタン軍はこういったジハード集団と協力関係にあったのだが、やつらはまったく手に負えない存在になってしまったんだ。」

 自爆犯ジャミルはパキスタンの諜報当局には知られた存在であった。インドとの国境近くのヒマラヤ山麓のラワラコットの村に生まれた、このひょろっとした青年は、アメリカを相手にタリバンとともに戦った。そしてカブールの陥落時に負傷し、パキスタンに帰国することを許される。ペシャワールに到着してすぐに彼はパキンスタンの諜報機関に尋問されるのだが、特に害のない存在として2002年4月に簡単に放免されてしまう。ラワラコットの親戚によれば、多くのイスラム過激派同様、彼もまたムシャラフ大統領をあまりに親欧米的すぎると見ていたようだ。イスラム戦士たちはムシャラフがタリバンを裏切ったと不満を抱いているのである。そして1月初めにムシャラフがインドに対し平和交渉を申し入れたことを知り、今やカシミールのイスラム教徒をも敵に売ったとムシャラフを責め立てる。アメリカとムシャラフに対するジャミルの罵声があまりにもひっきりなしに続くので、家族が彼を家から追い出してしまったのだと近所の者は言う。だがジャミルが12月25日の暗殺計画の首謀者だったのであろうか?「もちろん違う」内務大臣ハヤトは一笑に付す。「ドンは自分を吹っ飛ばしたりはしない。子分にさせるものだ。」

 今やムシャラフがパキスタンの過激派を刈り取るのにどれほど懸命になっても、その作業は道のりが長く危険を伴うものとなろう。木曜日には(1月15日:訳者)カラチのテロリストたちによってキリスト教スタディー・センターが爆破され、14名が負傷した。「彼らの触手は至る所に広がりを見せている」内務大臣ハヤトは言う。こういった集団は警察の目を逃れる間にも、これまで以上に危険なものとなっているかもしれないのだ。ラホールに住み、かつてこういったテロを指揮していたある一人の男はこう言う。「どんな声もやつらの耳には入らないよ。命も惜しくない連中だからね。ジハードの時代は終わったなどと言っても彼らには通用しないさ。」