ボルネオ島北東部のプナン族の者たちは、標高2,000メートルの純然たる石灰岩の高峰バツラウィ山には悪魔が棲んでいて、そこが、どんなことをしてでも避けるべき場所であることを知っている。だが、ブルーノ・マンサーにとって、そのバツラウィは、彼の愛する手つかずの森のあらゆるものがつまった象徴的な意味を持っていた。1998年、彼はその頂上を目指し、命を落としかけたことがある。彼が友人に語ったところでは、岩の壁面に手が届かず、ロープに宙づりになったまま24時間過ごしたのだという。必死になって体を揺らし、やっとの思いで岩を掴んだのだ。

 14ヶ月前、マンサーはこのバツラウィに戻ってきた。それは、彼を我が子として迎え入れたプナン族を助け、貨幣、コカコーラ、テレビなどというあらゆる現代の害悪から、そして何よりも、彼らの暮らす森を丸裸にしてしまう森林伐採から、彼らの住む自然とその生活を守るという、12年にも及ぶたった一人の闘いの、その最後の旅であった。もし彼が、その頂上に辿り着いているとすれば、その闘いが失敗に終わったということを示す紛れもない証拠を、眼前に突き付けられたであろう。緑に覆われた森は、材木搬出道に切り刻まれ、そのむき出しとなった赤い泥の網の目は、あたかも大地が血を流す無数の傷となり、動物はそのほとんどが消えてしまった。かつてマンサーは、6年間プナン族とともに、彼らのジャングルで暮らしたことがある。そして、その後、地球上でもっとも平和的な人々と彼が考えるこの部族の擁護を公然と叫ぶようになっていく。彼は、プナン族を救うと言い、そして、その努力にあらん限りの情熱を傾けた。だが、その闘いも、完全に失敗に終わったのだ。

 マンサーは一人で山に登ると言い、バツラウィのふもと近くで、二人のプナン族の知人と別れた。ほんの数日歩いた後、彼はプナン族の最も親しい友人たちと再会するはずであった。だが、それを果たすことは決してなかった。バツラウィの近くで知人が彼を後にして以来、再び彼の姿を目にした者は誰もいなかった。

 何がブルーノ・マンサーの身に起こったのだろうか?もし生きていれば現在46才になる、冒険家から保護活動家に転じたこのスイス人の身は、プナン族やヨーロッパの友人たちの度重なる捜索にもかかわらず、いまだ発見されていない。彼の30kgのリュックサックの痕跡すら、まったく見つかっていない。彼が姿を消した時、何らかの犯罪を疑う者もいた。時として非常に冷酷にもなるボルネオの伐採業者グループの裏の世界に足を踏み入れたというのだ。彼の首に懸賞金がかけられ、彼が失踪した頃、その地域の警察と伐採業者が何やらうさん臭い重苦しい動きを見せていたという噂が流れた。マレーシアの政治家たちは、この厄介な外国人にうんざりしていた。マハティール首相は「我々が国の運営の仕方も分かっていないと思っている白人たち」のことを公然と嘆いていた。

 友人の中でも楽観的な者たちは、マンサーがまた別のスタントを演じているのだと願っていた。非常に厳しい条件下で長年鍛え上げられた、この背が低く屈強な活動家は、どこかで、どうにかして生きていて、彼の失踪を取り巻いている謎の渦を楽しんでいるのでは、というのだ。なにしろ、このマンサーという男は、自分の運動を世に知らしめるためなら、ほとんど何でもする男だった。1996年には、スイスの、半ば凍り付いたケーブルカーのケーブルをほぼ3kmにもわたって滑り降りた。その3年後には、マレーシア・サラワク州の州都の上空を、モーター付きハンググライダーで飛び回った。1980年代半ば、マンサーと一緒になり、プナン族の生活基盤であるサラワク州の森林伐採を阻止しようとしたロジャー・グラフによれば、確かなのは、マンサーがサラワクやプナンの友人たちにほとんど見切りをつけようとしていた、ということだけだという。「これが自分の最後の旅だ、と彼は言いました」1996年に闘いを断念し、今はチューリッヒ動物園で働き、管理と広報を担当しているグラフはこう述べる。「彼は私にこう言ったのです。もし今回、これをやらなかったら、この闘いは負ける、と。」

 彼は単に、人生に見切りをつけたのかもしれない。「私は、ブルーノがどんな人間か分かっているし、彼が何を考えていたかが私には分かります」とグラフは言う。「彼は、プナン族の何人かが自分たちの土地を伐採業者に売っているのを知っていた。プナンの親友の何人かが伝統の衣服を捨て、初めてTシャツを身につけ靴を履くのも目にしてきた。どこに行っても、彼が目にしたものは伐採だったのです。」マンサーは理想主義者で、人を居心地悪い思いにさせ、極端に走るタイプの熱烈な運動家であった。あるスイスの友人には、「半分は子供、半分は英雄」と評されるような男で、自分の友人のための闘いをけっして諦めない男であった。だが、時として、英雄でさえギブアップをすることもある。「ブルーノはいつか再び安らぎを見い出すことがあるのだろうかと、私は長い間ずっと思っていました」とグラフは言う。「彼の失望感は非常に深いものでした。だから私は、もし彼が死を選ぶとしたら、それはバツラウィのどこか近くだろうと確信しています。」そしてグラフはこう続ける。「死ぬ方法はたくさんありますからね。」


 マンサーの話は、まさにそのまま、時代に取り残された、アジアで最後の狩猟採集種族であるプナン族の物語りでもある。かつては、ボルネオを覆い一見果てしなく続くような熱帯雨林の主であったプナンは、今、かつての9000名のほとんど全員が、あまりにも馬鹿げていて絶対に起こり得ることなどないとかつては思えたような事に対しての闘いを捨ててしまった。絶対に起こり得ないとかつては思えたに違いない事、それは、サラワクのほんの僅かな部分を除き、ほとんどすべての森林が伐採業者になぎ倒され、川が汚染され、動物たちが追い払われ、何世紀もの間プナン族の薬箱、道具箱、食料庫の役割を果たしてきた草や木が、ブルドーザーで踏みつぶされていくことであった。一ケ所に定住しない、完全に遊動性のプナン族は、かろうじて200名ばかり残っているにすぎない。それは、二家族か三家族からなるいくつかの小さな集団で、彼らは、永住地の建設、耕作、政府の身分証明書発行の申請を拒否している。その中の一人にアロン・セガルがいる。彼はブルーノ・マンサーの最大の親友であった。

 サラワク州東側のインドネシアとの国境近くでリンバン川とアダン川が合流する。アロンは、その合流地点あたりで生活する共同体の中では、遊動性プナン族の最後の一人なのだ。彼は、もうすでに一年以上も同じ地帯にとどまっている。一年といえば、遊動性種族のプナンにとって、測り知れないほど長時間だ。だが彼は、同じ部族の者たちが居住する新しい村の一つに移り住むことを、かたくなに拒んでいる。彼の願いは、マンサーが姿を表すこと。アロンがとどまっているその場所は、スイス人のその友が、最後の言葉の中で再会を約した地なのである。

 森の中でアロンが木を使い新たな住居を作り、草で屋根をふくのは、数週間ごとであったり、あるいは数カ月ごとであったりする。それは、どの程度獲物を手に入れられるかに依る。彼が身にまとうのは、伝統的なプナンの装いで、性器を覆い臀部をさらしたふんどし姿である。靴を履いたことのないその足は、不釣り合いなほど大きく、偏平だ。首には籐と色鮮やかなビーズで作り上げたネックレスを巻いている。撚り合わせたブレスレットの太い束の下には、不似合いな金メッキの腕時計の、ガラスの斜面がキラキラ光って見える。(時計は、3時50分を指して止まったままだ。)彼の耳たぶは若い頃、耳飾りの重さで伸びてしまった。今では、大きく穴が開き、8cmの肉の輪となり、ほとんど肩に触れんばかりにまで垂れ下がっている。その耳は、リスやサルや鳥などを狩るのに使う吹き矢と並んで、彼の自慢のたねなのだ。

 だが、60数才になるアロンには(ほとんどのプナン人同様、彼の年齢もはっきりしない)、近頃、その吹き矢を使う機会があまりない。「狩りは、伐採のため、ここではもうほとんど出来なくなった」とアロンは言う。「だが、我々には他に行く所がない。ここが、我々に残された最後の場所なのだ。我々の部族の子供の二人、その内の一人は私の末息子だったが、その二人が、1月と2月に、有毒な川の水を飲んで死んだ。材木業者たちは、川に毒を流して魚を捕るのだ。息子のアヤンは、まだ18才だった。」

 おそらく実際のところ、自分の祖先の土地に対するいかなる権利も、アロンにはないのである。弁護士で保護活動家のハリソン・ヌガウによれば、マレーシアでは州政府がほとんどすべて、その土地の権利を管理しているのだという。アロンの場合、バツラウィ山を取り囲む広範囲な面積の土地が、1997年に「保護林」と公示された。これは、政府が決定すればいつでも伐採林に指定することのできる土地に対する適切な名称とは言えない。昨年、伐採業は、住民が僅か200万人にすぎない州に、10億ドルの収入を生み出した。そのような莫大な額が絡むと、激しい抗争や、時には流血沙汰も避けられないものになってくる。1997年には、代々受け継いできた土地がやし油会社に割り当てられたことに抗議したダヤク族の一人を、警察が射殺、その他15名を負傷させるという事件が起こった。1999年には、激昂した村人が、プランテーション会社の雇った4人の用心棒を殺害するという事件も発生している。アロンは今なお深く考え込んでいる。どうしたらいいのか。その思いは幾度もマンサーに戻っていってしまう。「ブルーノは我々に代わって、会社や政府に手紙を書いてくれた。そして、この場所を離れてからも、外から我々を助けてくれた。彼はいつも言っていた。決して手を上げるな、誰も傷つけるな、と。だが、その彼も、もう我々のもとにはいない。私にはもう分からない。そうすべきでないのかどうか。」

 だが一日たつと、アロンの心の中の疑念は小さくなっていた。彼の仮住まいの小屋から1時間ほどの距離の、ブルドーザーとチェーンソーが完全になぎ倒してしまったばかりの荒れ果てた森を歩き回り、アロンは、かつて100mもあったメランチの木の、雨に濡れて光る赤い切り株にずぶりと槍を突き刺した。そして、誰もいないジャングルに向かい、こう叫んだ。「次にここで一本でも木を切ったヤツは、俺が殺してやる。」


 1984年にマンサーがこの森に入った時は、サラワクの原生林の45%ほどが、まだ手つかずのまま残されていた。彼の失踪時には、それは5%になっていた。「彼は戻りたくはなかったのです。」44才になる弟のピーター・マンサーはこう語る。「ブルーノには、他にやりたい事がたくさんありました。会ってみたい人、探検してみたい場所がたくさんありました。シベリアや南アメリカなど。でも、彼は戻るより仕方なかったのです。状況が絶望的で、そしてプナン族にとって時間が急速になくなっていることは、彼には分かっていたのです。」

 それはマンサーにとって、まさに逆説的な状況だった。彼は、プナン族のような、純粋で、「自分たちを生み出した源のすぐ傍らに寄り添うように」(と彼はかつて書いた)生きる人たちと共に自然の中で暮らすための準備に、ほとんど全生涯を費やしてきたのだ。少年の頃、「ブルーノは木の枝やシダの葉でバルコニーにベッドを作り、秋でも冬でもその中で眠ったものです」妹のモニカは言う。「それが普通でした。ブルーノはそんな風だったのです。私の両親も家族もみんな、それに慣れっこでした。」彼女は、家族の故郷の街バーゼルの郊外に、小さなアパートを借りて暮らす。そのバルコニーに、ゼラニウムとコーヒーカップと上品なチョコレートケーキに囲まれて座る彼女は、両手首に、黒い籐のプナンのブレスレットを巻いている。それだけが、彼女が普通のスイス人主婦とは違う存在である事を示す唯一のものだった。

 高校を出たのは、家族の中でマンサーだけだった。(かつて学校では、「生徒としての僕に与えられた食べ物を、ただ反芻しているだけの・・・牛になったような」気分だ、と彼は言ったという。)卒業後、彼は、羊飼いや農民から学ぶために山に入った。彼は、その送られてきた卒業証書を鉄製のだるまストーブにくべて、燃やしてしまった。

 マンサーは、牛飼いをしたりチーズを作ったりしながら、山に12年とどまり、古い時代のやり方の仕事や知識を探究した。木や革はどのように加工すればよいのか、皮はどのようになめすのか、そして服はどのように縫うのか。モニカは兄を訪ね、溝に落ち足を骨折した牛に偶然出くわした時のことを思い出す。彼はその牛の喉を切り、モニカの助けを借りながら、その場で屠殺し皮をはいでみせた。1984年、マンサーはある大学の図書館におもむき、熱帯雨林の住民のことを調べあげた。彼は後にこう書いている。「プナン族という遊動性の狩猟採集種族の社会のことを知ったのは偶然だった。それから、ある日のこと、僕はそこに行き2年か3年暮らしてみようと決心した。」出だしで何度もつまづいたり、何度も森の中で死ぬような目に会いながら(ある時は、道に迷い食料が尽きてしまったり、また、ある時は、毒のあるヤシの芯を食べて、猛烈に苦しんだりした)、彼はようやく、二人のペナン人に出会った。彼らは出来るだけ彼のことを無視しようとした。だが、友人で同僚のジョン・クエンズリが言うように、「ブルーノは誰よりも面の皮が厚かった。」彼は、捨てられた子犬のように、そのプナン人のグループの後について回った。そうやって数週間が過ぎた頃、マンサーは彼らに受け入れられたのだ。

 それはマンサーの夢だった。蝉の羽の模様、死んだテナガザルを運ぶ際の手足の縛り方、プナン族の吹き矢筒の穴の開け方など、彼はあらゆるものを記録しながら時を過ごした。

 そこで過ごした丸6年の歳月を思い出し、彼は後にこう述べている。「二人のプナン人が喧嘩するのを、僕は一度も見たことがなかった。一人が別の一人に怒鳴っているのを目にすることすらなかった。喋っている時、誰かが遮ることすらなかった。」

 もちろん、彼があまり大きな声では言わない事もある。プナン族の推定平均余命は働き盛りの30代そこそこでしかなかったし、最もよい時を除いて、常に空腹が満たされることがなく、栄養不良や病気が間近にあった。つまり子供を育てるには最悪の場所であった。マンサー自身も二度死にかけている。1度目はマラリアで、そして2度目はヘビに噛まれた時だ。それでもマンサーは、彼が「楽園」と呼ぶこの地で、やっと「母親の子宮に抱かれた子供のように」くつろいだ気持ちになる場所を見つけたのだった。

 しかし、ほとんどの楽園がそうであるように、サラワクにも悪魔がいた。伐採業者が我が物顔で襲いかかり、プナン族はマンサーに助けを求めてきた。彼は気が進まなかった。「僕は、プナン族と一緒に狩りをしたり、愛らしい動物たちの絵を描いたりしたかっただけなんだ」と、1999年に彼は書いている。「もし関わりあいになれば、非常に嫌な思いをすることは分かっていた。」マンサーは、自分のことを「彼らの秘書官」と呼び、プナン族の不満や要求を手紙にしたため、伐採業者の重役や政府の役人に向けて送った。

 当然のことながら、この「白人ターザン」は、困った様子のマレーシア政府はもちろんのこと、報道機関の注目も集め始めた。サラワク内陸部のいくつかの少数民族グループが、伐採業者の進入を阻止するため道路をバリケード封鎖し始めてから、マレーシア政府は彼を、国内事情に干渉する無知な外国人と激しく非難し、警察に捕まえさせようとした。マンサーは、ほとんど常に警察に追われ、捕まったことが二度ある。だが、その二度とも何とか警察の手を逃れた。二度目などは、警察のランド・ローバーから跳び降り、川に跳び込んでのことであった。警察は彼に発砲してきたとマンサーは言う。またその時、それまで4年間記録してきたノートやスケッチを、彼はすべて失ってしまった。

 1990年には、自分の悪名がますます高まっていくことがマレーシア政府に都合のいい口実を与えることに、彼は気づいていた。(プナン族は「外国人がぽかんと見とれるような人類学の標本にされることを許されてもよいのか」と、マハティール首相はかつて激しく非難した。)環境保護活動をする友人たちの言葉により、ヨーロッパでの運動が大きな力を持つことを確信した彼は、髪型を変えパスポートを偽造し、サラワクを飛び出て、その森林の破壊を阻止するキャンペーン活動を始めた。1993年に、彼は友人で医者のマルティン・ヴォッサーとともに、ベルンのスイス議会の前でハンガーストライキを行なう。ヴォッサーは40日でリタイアしたが、マンサーは続けると言い張った。そして母親の頼みで60日後にやっと中止に同意し、ヴォッサーは言うには「もう少しで死ぬところだった」。

 そのハンガーストライキは、熱帯産の硬材の輸入をスイスで完全に禁止するという、当初の目的を達成することは出来なかったが、宣伝効果は確実に得られたとヴォッサーは述べる。マンサーの名はプナン族とともに広まり、特に有名となったスイスとフランスでは熱帯産硬材の使用が減少し始めた。アル・ゴアは、サラワクの森林伐採を非難する決議を米国議会に提出し、イギリスではチャールズ皇太子が、マレーシアのプナン族に対する扱いを「民族の大量虐殺」だと評した。マンサーは以前にも増してマレーシアから目をつけられるようになっていた。マンサーに送った書簡でマハティール首相はこう述べている。「その傲慢な振る舞いと、我々を見下したようなヨーロッパ人の我慢ならない態度は、もうそろそろ止めるべきだ。君はプナン同然ではないか。」

 そのような打ち上げ花火にも似た華々しい活動にもかかわらず、マンサーは、自分の努力の成果が重要な意味を持つべき場所、すなわちサラワク自体で、その努力の成果が「ゼロにも満たない」ことを分かっていた(自分自身でそう述べている)。伐採は、1990年代を通して凄まじい勢いで続き、90年代末のアジア経済危機の時期になって、ようやくそのペースを緩めたにすぎなかった。自分の活動が失敗したことを知り、マンサーは絶えずそのことに悩まされた。スイス国内にいても、延々と繰り返される国際会議の会議場にいても、決して彼の心は安らぐことがなかった。そして、サラワクの森に戻りたい気持ちと、恐くて戻れない気持ちに絶えず揺れ動きながら、運動の重責を忘れようと、アフリカの遊牧民ピグミー族に会う旅に出たり、アルプスを何週間も歩き続けたりして毎年の半分をすごした。その彼は、インドネシアかブルネイとの国境を越え、ほとんど毎年サラワクに戻ってきた。あるいは、戻るよう努力をした。そして、サラワクの状況がますます悪化し、国際的な注目が、特にアジアの経済危機の時期、サラワクから離れていくにつれ、彼の戦術と冒す危険はますます命がけのものとなっていくのだった。

 1997年、マンサーは友人の一人とシンガポールからマレーシアに入国しようとする。その年クアラルンプールで開かれていたコモンウェルス競技大会の上空を、モーター付きハンググライダーで飛び回ることを計画していたのだ。だが国境で、その身元がばれてしまい、引き返すこととなる。二人はジョホール海峡を泳いで渡ることも考えたが、そうするには沼地を通り25kmも泳がねばならないことに気づき、その計画を諦めたと、その時一緒にいたジャック・クリスティヌは語る。その後、インドネシアの島の一つから小型ボートを漕いでサラワクに入ることも企てた。だが彼の活動事務所であるバーゼル本部のブルーノマンサー財団のもとにマレーシア大使館から、その計画を中止するよう警告の電話が入り、それも諦めねばならなかった。「どういうわけか彼らは、私たちが計画していたことを正確に知っていたのです」現在はスイスのスキーリゾート地ツェルマットでガイドをしているクリスティヌは、そのように語る。

 だが、それに挫けることなく、彼らは翌年ブルネイに渡り、真夜中に300mの幅のリンバン川を泳いで渡る。クリスティヌは、漂う丸太にほとんど押し潰されそうになり、脚に深い裂傷を負ってしまう。「肉が見え、多量の血が出ました。」クリスティヌはその時のことをこう語る。「しかし、ブルーノが針と糸でそれを傷口を縫ってくれました。」二人は、ほとんどの時間を警察から身を隠しながら、サラワクで3週間すごした。また、失敗に帰したものの、25cm釘を取り寄せ、それをプナン族に木の幹に打ち込ませるという企てを二人で試みたことがあるとクリスティヌは言う。同じような戦術は1990年代に、森林伐採に反対するアメリカの活動家たちによって使われていた。この戦術は、チェーンソーが、木に埋め込まれた鋼鉄の釘と接触すると、木を切る人間に時として重傷を負わせることもあった。

 クリスティヌは、マンサーの最も空しい、しかも最も危険な“反対活動”の一つ、1996年に行なったツェルマットの2.7kmのケーブルカーのケーブルを滑り降りるという行動の、その中心的な役割も果たしていた。二人は鋼鉄の車輪とボールベアリングで組み立てた自家製の乗り物にしがみついて滑り降り、そのスピードは時速140kmにも達した。当時ブルーノマンサー財団を管理するロジャー・グラフは、その行動には、地球の温暖化と氷河の融解に対する漠然とした抗議という以外に何ら明確な目的はなかったと語っている。しかも、それを取材するために来ていたメディアはルクセンブルクのテレビ局だけで、放映された場面には説明となるコメントはまったくつけられなかった。グラフにとって、それはすでに我慢の限度を越えていた。その後すぐに彼は財団を去った。

 このツェルマットでの行動は、1999年のマンサーの最後の「曲芸」の前兆となるに相応しいものであった。それは、サラワク州の州都クチンの空を、モーター付きハンググライダーで飛ぶというものだ。それは、ますます見放されていく男の、もう一つの、命がけの一手だったのだ。彼は、それとは別に、サラワク州首相タイブ・マームッド宛てに大量の手紙を書き、調停を嘆願したり、プナン族のための移動の歯科診療施設の資金提供を申し出たりしていた。だが、それはすべて無視されていた。

 かくしてマンサーは弟の結婚式用の礼装を身につけ、ブリーフケースを見つけ、再び髪を短く切った。今度ばかりはクチンに何とか潜り込むことが出来た。そして1999年3月29日、サラワク州首相に差し出す和解の贈り物として、彼が編んで作った象徴の小羊を手にかかえ、クチンの上空を舞った。(最初、彼は生きた小羊をスイスから持ってくることを計画していた。だが、シンガポール航空に輸送を拒否され、その計画は失敗。また、彼の友人の中の、動物の権利派の活動家にも反対されていた。)

 地面に降り立ったとたんに彼は逮捕され、国外追放の身となる。メディアの報道もまばらなものでしかなかった。クアラルンプールの拘置所で国外追放を待つ間、自分の編んで作った小羊をいじくって時間をすごすマンサー。看守たちはその彼を見て面白がった。プナン族の権利と暮らしを守る真剣な活動は、ここに物笑いの種に堕してしまっていた。

 だからこそ、マンサーは、プナンの友人に会う最後の旅をしようと決意したのだった。「彼のグッバイは、いつもとはまったく違ったものでした」とヴォッサーは言う。「どれぐらいの間サラワクにとどまらねばならないかは、まったくの未知数でした。疲れ切ったと彼は言っていました。」

 マンサーは、ブルーノマンサー財団を管理するジョン・クエンズリとともに数カ月かけてカリマンタン北部をとりとめなく旅しながら、サラワクを目指し彼一人が辿ることになるルートに少しずつ近づいていった。マンサーが戻ってきた時、どんなことをマンサーがすれば良いか、様々な行動について二人は話し合ったとクエンズリは語る。だが、何一つ決まらなかった。話し合った計画は、例えば、木材に関する国際的な会議場で、プナン人のグループをマレーシアの政治家と対決させるというようなものであったが、どれ一つとして十分に劇的で効果的に思えるものはなかった。

 そうして結局二人は別れ、マンサーはサラワクに向かう。予定していた最初の停留地、聖なるバツラウィ山。最初に登頂に失敗して以来、彼はその頂上に到達することを決意していると友人に語っていた。

 マンサーの生きた姿を見た二人の人間は、パレウという名のプナン人とその息子であった。三人がバツラウィ山の見える近くまで来ると、マンサーはパレウに、ここで戻ってくださいと頼む。そして、ここから一人でバツラウィを目指すと言った。

 メライ・ベルルクは、その後プナン族がマンサー捜索のために送った5度の探索隊に2度加わった。「私たちは、彼が最後に眠った場所にまで彼を追跡しました。茂った森の木に彼が刻みつけた手斧の跡を追いかけていくと、最後にバツラウィ山のふもとの沼地に達しました。そこで彼は消えたのです。彼は戻らなかった。私たちは、その沼地で彼の痕跡を何一つ見つけることが出来ませんでした。」彼らが見つけることが出来なかったのはマンサーの痕跡だけではない。襲撃者の可能性も含めて、その辺りを通った他の誰の痕跡も見つけることが出来なかったのである。

 ブルーノマンサー財団も独自の捜索隊を組織し、バツラウィ山のふもと深くにまで入っていった。そしてヘリコプターでその岩山の周囲を何度も旋回した。その捜索でも何一つ発見出来なかった。しかし、すべての捜索に抜け落ちている一つの大きな空白部分が、未だに残されている。どの捜索隊もマンサーを追って登っていくことの出来なかった、あるいは、そうしたがらなかった場所。それは、バツラウィ山の頂上をなす純然たる石灰岩の、恐ろしく危険で困難な最後の100mであった。


 アロン・セガルは助けを必要としている。ずっと昔、いつのことだったか彼にははっきりと分からないが、錆びた釘を踏んだことがあった。あまりの痛さに、彼は注射を打ってもらおうと、一番近くの町まで長い旅をしなければならなかった。その痛みが今戻ってきたのだ。そして、それが足から両脇腹へ、胸へ、喉へと走る。

 森を出ることを余儀なくされ、木材搬出道路の焼けつくような太陽の下にほうり出されると、この自信に満ちた戦士は、弱々しく、狼狽した一人の老人に姿を変えていた。彼は紫色のTシャツを着て、青い半ズボンをはいていた。妻のイオットとともにヒッチハイクをして小型トラックに乗せてもらい、医者の助けを得るためだ。いつもは能弁なアロンだが、町に近づくと黙りこくり、その顔が不安にひきつる。時おり、ホテルや医者に払う現金があるのかと大声を上げて尋ねる。アロンはお金というものを持たない。持ったことなど一度もない。それがプナン族なのだ。

 アロンとその妻を乗せたトラックを運転しているのは、先住民ダヤク族の一人で、ジェイクと呼ばれる男だった。その彼が言うには、毎回4、5本の巨大な丸太を積んだ2トントラックが、一日に合計168往復するという。そのトラックの1台が彼らのそばを通り過ぎるたびに、彼らの小型トラックの覆いのない荷台が、息も出来ないほどの黄色い粉塵に包まれる。アロンは妻の白いTシャツに顔を埋める。一台のトラックが通りすぎ、そして、数台がそれに続き通りすぎても、彼は妻イオットの肩にしがみついたまま、目を上げることを拒み、いつまでもイオットのTシャツに顔を押し付けている。たぶんブルーノ・マンサーは消えてしまった方が良かったのかもしれない。今、木材搬出トラックは、プナン族の中で最大の親友を包囲し、そして立ち去ろうとしない。おそらく、それこそが、マンサーがここにいない理由なのかもしれない。