息をのむほど美しく、摩訶不思議な精神の崇高さを持ち、そして解くことの出来ない政治の難題に苦しむ地、チベット。こういった、チベットに対する世界のイメージは、実際には二つのチベットに基づいている。一方は、中華人民共和国の統制、しかも非常に厳しい統制を受ける広大な地域を指し、もう一方は、その中国支配を敢然と拒否し、幅広く国外に逃れたチベット人集団を指す。この離散した種族が中心とする場所は、インドの山岳都市ダラムサラ、そこにチベット臨時政府が打ち建てられた。1959年、中国から亡命し、それ以来このダラムサラを住居とするチベットの法王ダライ・ラマとの謁見のために、えんじ色の法衣に身を包み、頭を丸めた僧たちが、険しい坂道を登る。住居や寺院の頭上には、祈りの旗がはためく。チベットの伝統では、山から吹く風にはためく旗が、恵みをもたらしてくれるのだ。
だが、この50年間、どちらのチベットの民にも恵みがもたらさることはなかった。中国内のチベット人は、民族主義的な発言を口にするだけで投獄され、ダライ・ラマの写真を掲げることも禁止され、まさにチベット文化の絶滅の危機に瀕している。亡命した者たちもまた、楽な境遇にいるとはいえない。彼らは、はれて故国に戻り、いくばくかの自由が保証される奇跡の日を40年間も待ち続けた。だが、その願いも、そして時間さえも、今や尽きようとしている。一般的にはダライ・ラマこそが、中国を相手に、チベットの民にとって好ましい取り決めを結ぶことのできる唯一の存在だと目されている。そのダライ・ラマも先週、65才を迎えた。万一彼が死ぬようなことがあれば、彼とともに自分たちの運動も潰え去ってしまうだろうという思いを、多くのチベット人は抱いている。
ところが昨年暮れ、二つのチベットの間に、非常に興味深い橋がかけられた。14才の一人の僧が(中国チベット自治区内)ラサの80キロ北にあるツルプ寺の寝室の窓から抜け出し、徒歩と車でこっそりとネパールに向かい、それからダラムサラに入ったのである。彼の名はウゲン・ティンレー・ドジェ。だが、その地位はカルマパといい、チベット仏教カギュ派の最高位のラマ僧なのである。ダライ・ラマ同様、カルマパは仏の化身であり、彼は17代の転生霊(活仏である先代高僧の生まれ変わり)なのだ。現在15才の彼は、やっと幼少期を脱したばかりの年齢であるが、驚くほど背が高く、そして威厳に満ちた声で話す。中国側は、この事態に困惑した様子を見せている。というのも、これまで中国は彼の権威を正式に認めてきたからである。中国は今のところ、彼の出国を表立って非難していない。中国のチベット自治区内では、カルマパの写真を掲げることは、今でも合法だ。今年に入って、それは飛ぶように売れている。
宗派的に見れば、カルマパはダライ・ラマの後継者ではない。(彼はまったく別の宗派に属する。(ダライ・ラマはチベット仏教最大の宗派であるゲルク派の最高位であり、かつ、チベット政教の最高指導者でもある:訳者))だが、このどうしようもなく行き詰まった状態に心を痛めるチベット人にとって、この少年は、闘いを継続させ、そして、なんとかして解決させることができるのでは、という新たな希望の星なのだ。かつて、カルマパは中国の無力な捕われの身とみなされていた。だが、その大胆な脱出は彼を一夜にして英雄に仕立て上げた。ダライ・ラマは、少なくとも現在のところ、カルマパは後継者ではないと主張している。「そのようには(考えて)いない」彼はTIME誌にこう語った。だが、カルマパが重要な指導者となるであろうことは認めている。「これは彼にも語り、また公けにもしたことだが、私の世代の者は年老いてきている。そして、次の世代の精神的指導者を用意する時代が来たのだ。」
はたして、良い方向にせよ悪い方向にせよ、半世紀にも及ぶ政治的な行き詰まりを覆すことなど、15才の少年に出来るのであろうか?インドで受けている待遇を考えると、ことによるとそうなのかもしれない。ダライ・ラマの亡命政府は、住人のいないダラムサラの学問寺を住居としてカルマパに提供している。そこで彼は、身の回りの世話をする数名の者たちや、彼を先導して一緒に亡命した姉、そして30名以上の護衛とともに暮らしている。彼はあまり外に出ることはなく、出歩く際も毎回、前もって十分に予定を組まなければならない。近くには彼の宗派の燦然とした寺院があり、またインドのシッキム州には支部もある。だが彼の公人としての生活は、多数の西洋人旅行客を含めて、熱心な信者や物見高い者たちに許される毎日の謁見に限られている。その生活は仏教僧の基準に照らしても単調なもので、亡命中の現在の方が中国にいた時よりも孤独だ、と側近の者たちは言う。自由のない故国を離れ、亡命という地獄の辺土へと、二つのチベットの間を渡った者すべてにおなじみの道を、彼もまた渡って来たのだ。
この行き詰まったチベット問題に容易な解決策はない。対立している両陣営の議論は、この40年間ほとんど進展していない。それは、あたかもチベットというものが、永遠に繰り返さなければならない謎めいた禅問答か何かのようでもある。だが時代は変わった。この地域周辺の緊張緩和に目を向けてみるがよい。中国政府は今や、驚くほど寛大な姿勢で、香港に大きな自治権を与え、それを管理している。また台湾の新総統・陳水扁は、台湾海峡をまたぎ中台両国が首脳会談を開くことを、中国共産党指導者層に呼びかけた。先月には、頑なに社会主義路線を歩むもう一つの最後の国家・北朝鮮、その指導者・金正日が愛嬌を振りまくのが見られ、ここにきて突然、南北和解の可能性が出てきたようだ。チベットにも希望はあるのだろうか?
もしチベット文化が生き残りたければ、残された時間が最も重要な鍵となる。中国政府は大量の中国人をチベットに入植させ(チベット人は今や、主要な都市で少数民族となっている)、そして政治活動、チベット仏教の修行、チベット語の教育を厳しく取り締まり弾圧してきた。「中国チベット自治区の内部では、チベット文化を担う世代が、少なくともあともう一世代はいます」1987年、88年の反中国暴動について著したニューファンドランド・メモリアル大学のロン・シュワルツ教授(社会学)は、こう言う。「しかし、その後どうなってしまうかは、難しくて述べられません。」言い換えれば、誰もが帰れるチベットが生まれるためには、政治的な奇跡だけが最後の頼りなのかもしれない。
チベットは今、特に都市部において、近代化の波、中国政府の威嚇、それに急速に流れ込む醜悪さが混ざり合い、ごった返している。古い地区は破壊され姿を消しつつあり、中国人売春婦のいる売春宿がはびこり、寺院の壁には、聖職者はダライ・ラマを糾弾せよという看板が掲げられている。ラサ大学では、チベット研究に関する学科が大規模に打ち切りとなり、わずかに残ったものは、海外からやってくる学生のためのものだけだ。そして、若者たちは、にわかに出現した消費文化に浮かれてしまって、と親は嘆く。しかもダライ・ラマの写真は、近くの住民の中に潜む密告者の目から隠さねばならない。
もう一方のチベットにおいても、その亡命生活はとうてい天国とはいえない。確かにインドにおける宗教教育は素晴らしい。修行のため、インド南部のセラ仏教大学にまで足を運び、その後チベットに戻る僧もいる。だが当初、ダラムサラは一時的な避難の地として考えられていたにすぎず、そこで祖国復帰を待つ時間は、あまりにも長かった。今や年老いた者たちは、祖国に戻るという夢をもう達成できないのではないかと思っている。そして彼らの子や孫たちが関心を示すのは、祖国復帰ではなく、むしろオートバイや西側諸国への移住だ。南インドのチベット人居住区バイラクッペに住む58才のチベット難民タシ・チョエズムさんは、9人の子供を学校にやり卒業させたのは、「彼らがチベットのために戦うために」だと言う。だが、大半は現在、海外に暮らしている。そこに、チベット人共同体のもう一つのほころびを見ることができる。
この数週間はダライ・ラマにとって喜ばしいものであり、もし読者がテレビでご存知なら、チベット解放運動にとっても申し分ないほど素晴らしいものであった。この時期に、ダライ・ラマ法王はビル・クリントンと6度目の会談を行い、それに前後して米議会指導者や米国務長官マデリン・オルブライトとも相次いで会談した。そして米西海岸地区の支持者を前に、感動的な演説を行った。また、先週末(7月上旬:訳者)には、世界銀行が派手な争いの場となる。中国は、青海省の肥沃な土地に多数の漢族農民を移住させる計画を持つ。その中国の事業に対する世銀の融資に、決定を前にして待ったがかけられた。この事業は、チベット人居住地域を「植民化」しようとする中国の計画の一つだとして、海外のチベット支援団体などが批判したのだ。世界銀行が融資を中止するか、あるいは新たな制限を課しそうな様子になると、中国は腹を立て、金など欲しくないと言って融資要請を撤回してしまった。
だが中国政府にとって、そのような争いなど大部分が余興にすぎない。中国にとってチベットは、その観光地としての将来性、豊かな鉱物資源、そしてインドに対する緩衝器の役割を含めて、すでに自分の物なのである。「現実占有は九分の勝ち目
(Possession is nine tenths of the law)」という古い月並みな文句があるが、この場合、それを言い換えるならば、"Possession
is nine tenths of the battle" -- チベットを占有していることで、すでに戦いは決着がついていると言えるだろう。チベット支援団体などは、融資の中止を大勝利だと賛美している。だが中国はなお、国際社会からの融資も受けず、しかも国際社会の監視抜きで、その移住計画を実施する可能性がある。政治的に見て中国共産党は、1997年にイギリスの同意を得て香港返還を勝ち取る際に役立った「一国二制度」のようなやり方を、チベット人の前にちらつかせる必要などないのである。人民解放軍が1950年に侵略して以来、チベットは中国の支配下にあるからだ。だがこれまで、チベットには2度にわたりチベット民族の反乱が大きなうねりとなって発生した(1959年の大規模な反乱と1980年代のラサでの2度の暴動)。そのため中国政府は、ダライ・ラマやカルマパといった、チベット人から崇拝される海外の指導者に特に神経質になっているのだ。