東京の高級住宅地、杉並区にあるサイトウケイコさんの自宅近くに、プラスチック廃棄物圧縮工場ができた時、彼女の心に不安がよぎることはなかった。なんといっても、区そのものが、美しく緑化されたその施設が周辺に危険を及ぼすことなどはまったくないと言って住民を安心させていたからだ。だがその工場が4年前に操業を開始するとまもなく、サイトウさんの胸が、まるで妊娠したように膨らみ始めた。そしてテストステロン(男性ホルモン)値が異常なまでに跳ね上がり、彼女の顎にはヒゲが生え、63才になって彼女はそのヒゲを剃らなければならなくなった。彼女の髪の毛を検査したところ、ヒ素、鉛、水銀が、いずれも高いレベルで検出された。彼女は現在、集中しなければ言葉を明瞭に話すことができない。時には、物事をはっきりと考えることが困難なことすらある。「まるで」と彼女はゆっくりとこう話す。「霧の真っただ中に立っているようです。」
市民グループ「杉並病をなくす会」によると、この杉並(廃棄物)中継所が操業を開始して以来、近くに住む400名以上もの住民が恐ろしい症状を訴えているという。地元の医者は首を傾げるばかりだが、勝木渥教授(高千穂大学環境科学)は、その原因を大量の化学物質を浴びすぎたせいだと考えている。そして、疑うべき犯人として、この杉並中継所の名を挙げる。「この中継所は今すぐ閉鎖すべきです」と彼は言う。東京都が行った一連の調査でも、この現場の周囲からは90種類以上の有毒物質が見つかっており、そこには、人類が知りうる最も有毒な物質の一つであるダイオキシンも含まれていたのだ。だが、区の役人から日本の環境庁のトップにいたるまで、その閉鎖を提案するものは誰一人いない。清水嘉与子環境庁長官はこう述べている。「その原因が正確に特定できなければ、環境庁としても公式に動くことはできない。」
ここは、日本の有毒廃棄物戦争のゼロ地点なのである。この国は過去にも、この爆心地に立つという悲劇を経験している。水銀汚染の恐ろしさというものを世界に目覚めさせたのは、神経を破壊された水俣湾の子供たちの、見る者の身を焦がすような姿であった。今日、環境保護論者や科学者の中には、さらにひどい危機的な状態になる可能性があると警告する者もいる。数十年間、有毒化学物質や有害廃棄物の危険性を見て見ぬ振りをしてきた結果、有害物質の漏れ出す生ゴミ捨て場や有毒物質がこっそり捨てられる廃棄場から、ダイオキシンを吐き出す老朽化した焼却炉にいたるまで、今や日本には、有害廃棄物戦争のホットスポットともいうべき危険な場所が、あばたのように数千ケ所も広がっているのだ。昨年出された国連環境計画の報告書によると、日本の焼却炉から大量に放出されるダイオキシン及びそれと同族の汚染物質であるフランは、全世界の放出量のほぼ40%にも及ぶという。今月(先月5月:訳者)初めには、4人のグリーピース活動家が東京のゴミ焼却施設に隣接するビルによじ登り、「ダイオキシンの首都、東京」と訴える抗議の横断幕を掲げた。日本の焼却炉が吐き出すダイオキシンを吸い込んでいるのは日本国民ばかりではない。アメリカの国民も吸い込んでいるのだ。ある焼却施設の吐き出す高濃度のダイオキシンを含む排煙が、東京南部の在日米海軍基地の敷地に流れ込み、それが日米関係の摩擦へと発展した。適切な措置を講じない日本政府に怒ったアメリカは、最近になってこの施設の操業停止を求めて、横浜地裁に提訴した。
ダイオキシンやその他多くの有毒物質は検出するのが困難で、健康に対するその影響を明確に突き止めるのは、さらに難しい。だが水俣病の場合と著しく違い、問題なのは、有毒物質が一つの物質に、そしてまた、その場所が一ケ所に限定されないことである。沖縄大学の教授であり公害の専門家である宇井純氏はこう言う。「日本人の健康にとって、このことが非常に恐ろしい危険なのです。」
この危険性を象徴的に表しているのが杉並なのだ。問題を起こしている他の有毒な場所は、たとえば人里離れた山中の巨大ゴミ集積場や、きわめて有毒な排煙で山の斜面の樹木を枯らしてしまう焼却施設などの場合のように、乱雑で汚く悪臭がしたりするものである。だが、杉並のこのゴミ処理施設は、半ば地下に建設され、その表面のほとんどを芝生の公園が覆っていて、そこで若者たちがギターをひいたり、犬を連れた家族が散歩するような場所となっている。見た目はきれいに整備され、一見、なんの害もなさそうな施設なのである。短い排煙筒が公園の地面から突き出ているが、煙も出ていない。しかし、東京から南に数百キロ離れた場所に位置する水俣とは違い、この杉並は日本の首都の心臓部に位置するのである。
今、有毒物質に対する恐怖が、日本の環境運動を活気づかせている。小規模で資金も少ないが闘志溢れるいくつもの市民グループが、自力で大気の成分検査や水質検査を行い、その上で、適切な措置を講ずるよう官僚に迫っている。だが政府は聞く耳を持たないようだ。環境や国民の健康などというものは、経済成長という緊急の至上命題に比べて、まだまだ小さな問題にすぎないようだ。外に対して表向きには、日本の政府は、環境保護を口にするようになってきている。官僚や政治家は口々に、将来に向けた「リサイクル社会」の展望を訴える。そして、どの企業も、にわかに「地球を愛し」始めたようである。だが今まで長い間やってきたやり方が、容易に滅ぶことはない。2005年の万博開催のため、愛知県下の手つかずの美しい森を切り開き、そこに数千戸の住宅を建設するという政府計画に対して、最近激しい怒りの声が噴出した。市民グループやパリの博覧会国際事務局の圧力を受け、政府は3月にそれまでの計画を撤回し、縮小計画を発表した。この万博のテーマが、聞いてあきれる。なんと「自然との共生」だというのだ。
経済成長を促進させるための諸権限を持つ巨大省庁は、どこの国でも、慢性的な予算不足である環境省の縄張りを踏みにじるものである。日本の場合、河川を担当しているのは、あらゆるものをコンクリートで固めたがる建設省である。その建設省が、河川を管理し、そしてダムを建設するために得ている予算は、日本の環境庁の全予算よりも多いのである。だが、このシステムを変えようとする官僚はほとんどいないようだ。水俣で水銀中毒が数十名もの命を奪った時、日本の政府官僚は、ただおろおろと狼狽えるばかりであった。まさにそれと同じように、今の日本政府は、現在の問題が目の前から消えることをただ願っているだけのように見える。「新たな汚染の問題が持ち上がった時、その恐ろしい可能性に対して日本の政府がとる自動的な反応は、それを否認することなのです」こう語るのは、一橋大学教授(環境経済)寺西俊一氏。彼はこうも付け加える。「問題が危機的な状況になって初めて役人は反応を示すのです。」
杉並区の住民たちは、詐欺にあったような気持ちに違いない。処理施設が操業を開始して5ヶ月後、市民グループがその閉鎖を要求した。だが、その請願は無視された。この問題に取り組むことを公約に、昨年区長となった山田宏氏は、住民側に同情的である。だが彼は、処理場を閉鎖すれば、さらに年間1800万円以上のコストを杉並区は出費しなければならなくなる、と言う。この工場はトラック10台分のゴミを小さく一つに圧縮している。そのため、その閉鎖となると、区はさらに多くの輸送車両のコストを強いられることになるからだ。東京都の、現実的で実務的な石原慎太郎都知事は、排ガスで大気を汚染するディーゼルトラックに対する規制に関しては、強い姿勢を崩さないが、この杉並区の問題に対しては調査委員会を設置しただけである。3月に出された報告書で都の委員会は、工場廃水中に含まれた硫化水素と、近くの樹木を保護するために使用されたクレオソートが住民の病を引き起こしたと述べている。だが、その問題は3年前に解決済みであると委員会は述べる。「これでは住民の症状は説明できない」杉並区の元住民であり、「杉並病をなくす会」のメンバーの森上展安さんは、こう言う。「人がじわじわと死にかけているのです。」
しかし、それほどの問題を引き起こしているにもかかわらず、この杉並の施設は一つの中継点にすぎない。東京の各家庭や企業から出されるゴミは、ここを通って、たいていの場合地方に位置する最終的な処分場へと流れる。ゴミの処分地が慢性的に不足している東京やその他の大都市は、自分達の出したゴミの多くを周辺の市町村に積み出しているのである。そして、日本のゴミ戦争がほんとうに嫌な臭いを放ちはじめるのは、そういった場所なのである。
そのゴミ戦争の戦場の一つに日の出町がある。ここは、かつて、都心から西へ電車で1時間ほどの、山間にひっそりと横たわる静かな村であった。その風景があまりにも美しいため、画家の田島征三さんは都会のあわただしさから逃れるため、1969年に奥さんとともにここに移り住み、野菜を栽培し、児童書に載せる野生動物や森の美しい絵を描きはじめた。夏ともなれば、彼の子供たちは家の裏手の水の湧き出る池で泳ぎ、その間、彼は絵筆を走らせたものだ。野生の植物と樅の芳しい匂いが空気を満たしていた。「風は暖かく」彼は思い出して、こう言う。「私は、理想的な場所に移り住んだと思ったものです。」
だが、家の裏手、ほんの200メートルの場所に、最初のゴミ処分場がオープンした時、その至福の時も突然に終わりを告げた。山中に掘られた巨大な穴は、子供たちが泳いでいた池や、周辺の森の巨大な土地を飲み込んだ。この惨たらしい破壊から目を背けたくて、田島さんは家から出る時には、後ろを振り返らないようにした。だが、毎日地響きのような音を立てて東京の住宅地区からやってくるゴミ運搬車は、時として恐ろしい積み荷を運んできた。ダイオキシンの混じった焼却灰である。ダイオキシンは、ある種の殺虫剤や紙の製造過程で発生する副産物であるが、プラスチックを焼却する際にも発生する。これまで癌と関係するとされてきたダイオキシンは、現在、性的発達などのような生物の成長過程を調節するホルモンの働きをかく乱する作用もあると疑われている。日の出町の処理場で、ダンプカーがその積み荷をどさっと降ろすたびに、その灰が舞い上がり、谷間に流れ込んだ。風下の地区では、癌の発生率が国の平均の4倍にも跳ね上がった。市民グループ「日の出の森・水・命の会」の調査によると、10年にも満たない期間に、村の271名の住民のうち18名が癌で死亡したという。(日の出町の町役場は、発生率は上昇していないと言う。)田島さんの思い出の暖かい風は、死を運ぶ風に変わってしまった。彼は2年前、彼自身もまた癌に冒されていることを医者に告げられ、胃の3分の2を切除した。
1991年、ゴミ処分場を運営する町営の組合が二つ目の処分場の建設計画を発表した時、田島さんと近くの数名の住民は、それを阻止するため戦うことを決意した。最初のゴミ処分場周辺で組合が行った水質検査の結果を、開示することを組合に求めて、彼の妻である喜代惠さんが提訴した。裁判所は彼女の訴えを認める判決を下した。そして組合がデータを引き渡すことを拒むと、一日15万円(間接強制金:訳者)を彼女に支払うよう組合に命じた。しかし、その後、高裁はその判決をくつがえし、その金の返還を彼女に命じた。喜代惠さんはそれでもなお、自分の主張を通そうと頑張った。彼女は、その1億5795万円の金を、二つのゴミ袋に入れ、つき返した。
だが、その抗議活動も失敗に終わった。現在、最初のものよりも大規模な、この新しい処分場に、一日百台ものトラックが列を作って流れ込んでいる。ある段階までくると、抗議の声をあげ処理場の拡大を阻止するため、田島さんは日本全国から2800名の賛同者を得て、処理場周縁の林の土地を買い取るということを始めた。だが、東京都は「公共の利益のため」その土地の強制収用を決定した。田島さんは、そのやり方を「傲慢だ」と言う。今後、活動家の抗議の立て看板や彫刻作品は取り壊されることになるだろう。だが、都の役人は、なんら強権的な方法はとっていないと言う。
こういったことは、どれ一つをとっても、日本が世界に提示したがっている姿とは符合しない。日本政府は、公害問題を25年も前に解決し、今や、その経験と技術を全世界に分け与える立場にある、と自らのことを得意げに語りたがる。それには確かに幾ばくかの真実もある。東京湾周辺を製造工場と石油化学工場、そして排ガスをまき散らすディーゼルトラックの一大地区に変えてしまうような、急速な工業化の起こった1960年代及び70年代初頭に、日本は重大な環境危機に直面した。日本全国で、数万人もの国民が喘息やその他の呼吸器疾患で倒れ、そうなってやっと日本政府は腰をあげ、当時としては世界で最も厳しいものの一つである大気汚染防止法を定めた。また、水俣病の被害者が補償を求めて法廷で争うようになると、政府は魚介類に含まれる水銀の安全基準値を定めた。
だが、それ以来、日本の経済は劇的な成長をとげた。今日、日本の道路には7400万台の車がひしめき合っている。それは1960年代後半の5倍もの数だ。大気汚染のレベルは、道路脇の観測地点のほとんどすべての箇所で、政府の定める健康基準値を上回っている。そして他国同様、この国でも新しいプラスチックや化学物質の使用が急激に増大した。その多くは結局、一日120万トンという大量の一般家庭ゴミや産業廃棄物となって吐き出される。120万トンというのは、日の出町のゴミ処理場にゴミを捨てる運搬トラックの、ゆうに60万台分なのである。
この洪水のように氾濫する家庭ゴミや産業廃棄物の増大に、この国のシステムは耐えられなくなってきている。1984年に日の出町に最初のゴミ処分場が建設された時、それは日本で最大規模のものであった。だが今日、それよりもはるかに大きなものがいくつもある。それでも日本では、ゴミの捨て場が急速に枯渇している。しかも、「(ゴミ処分場など)私の近所にはゴメンだわ」という住民エゴは高まるばかりなのだ。その結果、国境を越えて運び出されるゴミも出てくる。1月には、日本の業者によってフィリピンに不法に輸出された数千トンもの医療廃棄物やその他のゴミを、日本政府が回収するはめになるということがあった。結局、溢れ出たゴミのすべては、山中深く走る、ほとんど人気のない道路脇にこっそりと不法投棄されることになる。それは、政府の公式発表の数値だけでも、年間ほぼ50万トンにも及ぶ。有毒物質の不法投棄現場は1990年代半ば以降倍増し、現在1300ケ所近くに及ぶと厚生省は報告している。環境保護活動家、関口鉄夫氏は、実数はもっと大きいと恐れる。「政府はこの問題を隠しているのです。」
日本が正直に白状しようとしない問題は、それだけではない。ダイオキシン汚染は現在、世界共通の問題であるが、日本はその最大の加害国の一つなのだ。土地不足のため日本は好んでゴミを燃やす。そのため、日本には一般家庭ゴミ焼却場が約1800ケ所あり(アメリカの場合は約250ケ所)、さらに、認可を受けたものや、あるいは無免許の有害廃棄物焼却場が数千ケ所にも及ぶ。その多くは、日本以外の国のほとんどが安全だと見なす基準よりもはるかに高いレベルで、ダイオキシンを大気中に吐き出している。
東京南西の在日米海軍厚木基地に暮らすアメリカ人は、そのことを身を持って知らされた。厚木基地はここ十年の間、有毒な産業廃棄物を焼却する近くの工場の排煙に悩まされてきた。昨年、日米合同チームが基地周辺の大気と基地内の土壌を調査したところ、大気中から日本でもこれまで最高レベルのダイオキシンが検出された。日本政府は協議の結果、問題解決に向けて努力するとしているが、高濃度のダイオキンを含んだ排煙は、いまだに米軍家族の暮らす住宅施設内に流れ込んでいる。今までのところ、基地内の住民家族が訴える症状は、ほとんどが喘息や呼吸器障害である。だが、アメリカ海軍は厚木基地を非常に危険な場所と見なし、そこに配属する者には全員、健康を損なう恐れがあると前もって詳細に説明しておく必要があると考えている。そんなことをしなければいけない基地など、世界中で、ここ厚木基地だけなのだ。
だが、日本政府に解決を迫るアメリカ政府ほどの政治的な力など、日本の他の場所でダイオキシンにさらされた日本の国民には、ないのである。1997年に能勢町周辺の焼却施設が閉鎖を余儀なくされた時、竹岡光夫さんのような従業員にとって、それはあまりにも遅すぎることだった。彼は、自分がかかった癌は職場でダイオキシンにさらされたせいだと考えている。ダイオキシンの専門家、宮田秀明教授(摂南大学)は、たとえダイオキシンが癌の直接的な原因でないにせよ、癌の成長スピードを速めることは確かだと言う。かつて能勢町は、緑の山々とクリの実で知られる場所だった。だが現在では、日本でダイオキシン汚染のもっともひどい場所の一つとして悪名高い。1998年、政府専門家が能勢町の焼却施設周辺地域を調査した時には、日本で過去最高濃度のダイオキシンによる土壌汚染が判明した。
竹岡さんには、そんなことなど恐らく驚きでも何でもなかっただろう。69才の彼は、8年間も工場内で働き、ゴミを移動し計器類を点検してきた。大気中にもうもうと舞い上がるその細かな塵が、命を奪うものであるかもしれないなどとは、最初考えもしなかった。だが、1996年に彼は自分が大腸癌に冒されていることを知った。腫瘍は切除したが、2年後には直腸癌で入院した。今年1月には、癌はすでに双方の肺に転移していて、医者は再度手術するには手後れだと告げた。彼は、残った力を辛うじてふりしぼり、自分のことを語る。「もう、何もかもあまりにもひどすぎる。こんなことが起こり得るなんて、夢にも思わなかった。」
彼の癌と焼却施設との因果関係を立証するのは、容易いことではないだろう。だが、竹岡さんは試してみたいと思っている。昨年、彼は他の5人の従業員とともに、焼却炉を製造した三井造船と子会社ニ社、及び焼却施設を管理する役人を相手取り、裁判を起こした。焼却施設従業員による初の裁判となるこの訴訟で、竹岡さんら原告は5億3千万円の損害賠償を求めて争う。今年3月に行われた第1回口頭弁論では、竹岡さんの血中脂肪に1グラムあたり平均的な人より12倍も多いダイオキシンが含まれていることが、裁判官に伝えられた。この焼却施設が能勢町住民の健康に影響を与えているということを、はっきり示すものは何一つない。というのは、彼らは焼却施設のすぐ近くには住んでいないからだ。だが、この町のクリは、もう誰も買いたがらないようである。
日本がこういった危険性を知ったのは、ほんの数年前のことではない。1976年、イタリア・セベソで化学工場が爆発を起こし、周辺地域に大量のダイオキシンをばらまいた時、全世界がダイオキシンの恐ろしさに気づいたのだ。1980年代初めには、一人の日本人科学者が日本社会に向けて、ダイオキシンの恐ろしさを警告した。だが、日本の厚生省はそれを無視した。ダイオキシンの危険性を伝える証拠が山のように積み上げられていった。それでも日本は、1997年までダイオキシンの排出規制に乗り出そうとはしなかったのだ。この規制は、国際的な基準に照らして手ぬるい上に、あまり本気で取り組まれていないと環境保護活動家は言う。能勢町のような焼却施設に検査官がやって来た時には、抜け目のない所長などは、単に粗悪なゴミを減らして燃やしただけなのだ。竹岡さんとともに裁判で争っている焼却施設の元従業員、畑中克男さんの場合は、皮膚病を患い、彼もそれをダイオキシンのせいだとしている。その彼はこう述べる。「我々の工場は、検査官がいる時にはゴミをきれいに燃焼させるために、焼却炉に灯油を加えたものです。」(炉を運転管理していた)三井造船環境エンジニアリングは、工場に関する主張にはコメントしないとしている。
能勢町施設の従業員やその他大勢の人たちの助けを求める声に応えて、科学者活動家たちは昨年、ついにこの問題を国会の場に持ち込むことに成功した。ダイオキシンの被害に苦しむ地域社会の恐ろしい記事が、新聞の一面を飾るようになり、日本政府はここにきてやっとダイオキシン関連法案を定めた。それは、日本人が一日に問題なく摂取し得る基準値を定めた法案を含み、その基準値を体重1キログラムあたり4ピコグラムと定めている。
だが、この立法措置はあまりにもお粗末で、あまりにも遅すぎたかもしれない。この4ピコグラムというレベルは、1ピコグラムから4ピコグラムとする世界保健機関(WHO)の基準値の上限である。実際には、WHOは摂取量を1ピコグラム未満に抑えるよう勧告しているのだ。その上、日本政府は魚介類に含まれるダイオキシンの安全基準値をまったく定めていない。毎日の食生活の中で魚介類が重要な位置を占めている国にあって、この手落ちは危険であると、政府を批判する者たちは言う。これに対して、日本はまだ準備不足なのだと、清水環境庁長官は言い返す。「私たちはダイオキシンに関する法律を昨年定めたばかりなのです」彼女はこう述べる。「もっとデータが必要なのです。」だが、環境庁が昨年初めて行った大規模なダイオキシン調査では、東京と大阪近辺で捕れた魚はダイオキシン汚染がひどいことが判明している。さまざまな研究がなされ、沿岸部の汚染区域で捕れた魚をよく食べる地域住民の一日のダイオキシン摂取量は、新しい基準値を超えていることが今や明らかなのだ。「他国から輸入する魚介類のパーセンテージが高いので、そのため日本人のダイオキシンレベルが跳ね上がるのが抑えられているだけなのです」専門家の宮田教授は、こう述べる。
昨年10月、一つの警鐘が大きく鳴らされた。日本で売られている「鯨」と称した肉を、日米英の科学者が調査した時のことである。DNAテストの結果、その肉の4分の1以上は、実際には沿岸部で捕れたイルカやその他の種であることが判明した。しかも、その多くは、水銀、農薬、そしてダイオキシンに似た化合物であるPCBでひどく汚染されていたのである。その内の一つ、鯨というラベルの貼られたイルカのレバーからは、水俣後に日本が定めた基準値のなんと数百倍もの濃度の水銀が検出された。調査に加わった科学者の一人、ハーバード大学生物学者、スティーブン・パルンビ氏は日本の政府省庁に書簡を送り、その中で、日本社会全体に対して警告を発し、汚染された肉の販売をただちに禁止するよう日本政府に求めるという、異例の措置をとった。パルンビ氏はこう言う。「鯨肉市場には、とても安全とは言えない産物がいたるところにばらまかれていたのですよ。」だが、日本政府からは、いまだに返答はない。
杉並区のサイトウさんや近所の人たちも、いまだに返答を待ち続けている。サイトウさんは、失敗してしまった何らかの有毒化学実験のモルモットにされたような気分だと言う。医者や科学者たちがこの議論に関わり始めた今となっては、彼女のようなごく普通の市民の声が届くことは、今まで以上に難しくなる。彼女は、データや化学分析の話しばかりで、最も肝心なことが忘れ去られていると言う。「そんな焼却施設は、まず閉鎖すべきなのよ。それからよ、問題の本当の原因が何なのかを捜し出すべきなのは。」確かにそれが、誰もがうなずくことのできる意見のはずなのだが。