インド東部の州、オリッサの農民や漁民は、気まぐれな自然にたよって生活を営み、そして、それゆえに命を落とす。昨年10月、風速時速260キロを超えるという、東南アジア記録史上最大のサイクロンが、この沿岸部の州を襲い、その途上のあらゆるものを破壊しつくしていった。少なくとも一万人もの死者を出し、百万頭もの家畜を奪い去った。ハゲタカのような猛禽類すらいなくなってしまった。もしいたとすれば、すばらしいご馳走にありつけたことだろうが。

 オリッサでは猛禽類がいなくなってしまったのが残念だ。それゆえ、悲劇から三ヶ月たった今でも、人間や動物の死体が野で腐臭を放っている。そして、その一方で人間は自然よりもさらに冷酷だった。嵐が襲ってからというもの、政治はあらゆるレベルでのろのろと無能で、事態はほとんど改善されていない。国民が協力しあって被災地を立て直し、被災者を援助するような努力など、一切なされていない。アタル・ビハリ・バジパイ首相率いるインド中央政府は、いまだに2億ドルの復興資金の拠出をしないでいる。この悲劇を利用し政治力を拡大しようと、州選挙を争っているにもかかわらず、である。翼を持ったハゲタカどもはいなくなってしまったが、人の姿をしたハゲタカどもが、めちゃくちゃになった人々の暮らしと、ビニールシートの下で暮らすバラバラになった家族の間に入り、動き回り始めている。「私に話しかけないで」とアイリャ・ジェナさんは言う。彼女は家と家族のほとんどを失ってしまい、今は、慈善団体が寄付した古着と台所用品を少し持っているだけだ。「喋ることも眠ることも、考えることもできない。」だが、彼女の夫が、彼女の気持ちを鎮めるようにと医者からもらった鎮静剤ですら、彼女の心の痛みを鎮めることはできない。

 日常生活の中で、そして悲劇のさなかですら、貧しい者たちに対してインド全体がいかに麻痺してしまっているかということを、このオリッサの出来事は見せつける。自国の国民の窮状を耳にしても、誰一人、心を動かす者はいない。誰一人、怒りの声をあげる者はいない。それは、もはや新聞の見出しを飾ることすらない。「インドのメディアはまったく冷淡になってしまった。」大衆向けの派手なインド映画を作る映画監督、マエシュ・バットはこう語る。彼は先月下旬、オリッサ州を訪ねた。「私がメディアにコンタクトをとっても、今まさに起こっているこの悲劇を、新聞に報道させることも出来なかった。」この冷淡さはインド中流階級の全体にまで拡がっている。先月、インド大統領K・R・ナラヤナンは、共和国記念日に痛烈な演説を行い、インドは「石の心を持った社会」になってしまったと述べた。彼は、何億人もの貧しい者たちが欲求不満で煮え立っていると警告を発し、また、こうも付け加えた。「我々は共和国になって50年、いまだに我が数百万もの同胞にとって、社会的、経済的、政治的な正義というものが叶わぬ夢のままに終わっている。」「あれは、もっとも素晴らしい演説だった」こう語るのは、1996年、インド農村部の痛烈な研究を著わした書、「良き旱魃はみんな好きだ(Everybody Loves a Good Drought)」の著者P・サイナータ。「今日インドでは、以前にもまして貧しい人々が増えています。しかし彼らの心の傷は、エリートたちの心を動かすことはないのです。」

 インドでのこの「エリート」という言葉は、単に高い教育を受けた者や富豪を指すだけではない。インド経済の頼みの綱、2億人もの数を抱える中流階級層をも指す。この階級は消費者として、過去わずか3.5%だった年間経済成長率を今や6%にまで押し上げるのに寄与してきた。それは目を見張るばかりの功績だ。だが、それもコインの裏側を見るまでの話だ。絶対貧困下で暮らしているインド人は、ほぼ4億人にのぼると考えられている。そして1993年から1998年までの間に、4千万人ほどがその層に加わった。同じ時期、仕事を持たないインド人の数もまた同様に増加した。1990年代には、借金を背負い込んだ農民たちの自殺数が急上昇した。裕福で肥満した者を相手に都市部で、減量のための診療所がぞろぞろと出現したのと同じその時期に、である。「はく奪の構図はあまりにも身近に、しかもあまりに広範囲に及んでいて、特権階級の者たちはそれを見たり聞いたりしても、何も感じなくなってしまったのです」こう語るのは、ベテランの外交官でもあり、「偉大なるインド中間階級」という、意図的な辛口の皮肉っぽいタイトルの書を著わしたパヴァーン・K・ヴァルマ氏。

 その理由は多岐にわたる。いまだに強大な力を持っているのは、伝統的なヒンズー教の教えだ。前世に対する酬い、あるいは罰として、人は生まれた時にカーストや物質的な幸福を受け継ぐのだ、というものである。そのため、金持ちも貧乏人も、精神的にも社会的にも現状に甘んじてしまっている。1947年のインド独立とともに起こるべき革命が起こらなかったせいだと考える者もいる。土地改革は妥協され、貧しい者たちの基礎教育や健康は軽視された。インドは常に自国の大衆を、資産とは見なさず養うべき負担と考え、日本や中国のような、莫大な人口を抱えながらも活気のある国の偉業を無視する道を選んできた。経済批評家のスワミナサン・S・アンクレサリア・アイヤール氏の場合は、「少しばかり役得を掠め取ってやれ」という色合いの強い理想主義の堕落を見てとる。その中で、反資本主義的な支配者階級は、長い間ずっと産業と商業を我がものとし、支配することに取りつかれてきた、と彼は考えている。「社会主義という神聖な名のもとで、左派政治家たちは無数の規制を課し、そうやってから次に、それを自分たちの私腹を肥やすのに使ってきたのだ。」タイムズ・オブ・インディア紙上の、ナヤラナン大統領にあてた公開状の中で、彼は最近、このように書いた。

 この冷淡な無関心さは、悲劇が起こった時に特に顕著になる。1984年4月、ボパール(マディヤプラデーシュ州の州都:訳者)でユニオン・カーバイド社の工場から毒ガスが漏れ、8千人が死亡するという、世界最悪の産業事故が起こった。インドは強い衝撃を受け、政府はカーバイド社に対して、賠償を求める厳しい姿勢で臨んだ。その5年後、カーバイド社はしぶしぶ4億7千万ドルを支払い、長期間後遺症で苦しむ者たちのために病院を建設することに同意した。そういったお金のすべては、また、被災者のすべてはその後どうなったか?ばたばたと人が死んだ事故発生直後から現在までに、さらに何千もの人が死んだと支援活動家は推定している。現在でも、数千人が身体の不調をうったえ、いい加減な治療を受けている。(15年たった今でも、ガスの毒素を分離することが出来ないと医者たちは言う。彼らは、その責任を、カーバイド社が解毒剤を明らかにしないせいだとしている。)当初、500ドルというわずかな額を受け取った被災者は10万人近くにもなるが、遺族の請求が認められ死亡給付金が支払われたのは、わずか6千件にすぎない。病院はいくつか建設されたが、開業することは決してなかった。(人気のないさびれたカーバイド社の病院は、エレベーター通路にエレベーターがうまくはまらないのである。)

 政府はいまだに2億5千万ドルの和解金を抱えたまま、何もしないでいる。ボパールでのバジパイ首相の所属する党(インド人民党:訳者)は、中流階級の者たちに売る郊外の高層アパートの建設に、その資金を使いたがっているのだ。その一方で地元政府は最近、工場跡地にアミューズメントパークの建設を提案した。社会人類学者のシブ・ビスワナサンはこう言う。「ガス漏れ事故以降、その事故に襲われた人たちは少しずつ、被害者から遺族へと、次に患者へと、そして最後には心気症患者(あまりにも健康状態を気に病む神経症患者)へと、姿を変えられました。今や、誰も『健康を気に病む者』のことなど気にかけません。ボパールは、ある災害が一国民の記憶からもっとも組織的に抹消された良い例なのです。」

 そして今なお、無関心が最高位に君臨している。1年前ニューデリーでは、裕福な青年がBMWに乗って、7名の労働者をひくという事件が起こった。だが、新聞の見出しはすぐに影を薄め、犠牲者の親族は青年の家族から現金を受け取り、告訴を取り下げることを考えている。オリッサでは2年前の夏、熱射病で千人以上もの人が命を落とした。だが、国民の関心をひくことはほとんどなかった。昨年10月のサイクロンでは1800万人以上もの人々が被害を受け、その数は、オリッサ州の半数以上にもなる。すべて合わせて、774,000軒の家が破壊され、1800万ヘクタールの農地が水に浸かり、損壊した道路は12,000km、被害を受けた学校は18,000校にも及ぶ。オリッサの地を訪ねると、サイクロンに襲われたのがつい数日前のことだ思ってしまうほどだ。「わしの作物はこのザマだ」65才になる農民のモヌ・スワインさんは、水に浸かって駄目になった一つかみの米を見せながら、こう言う。辺りを見渡しても、一本の木もない。このサイクロンで、なんと90万本の樹木が失われたのだ。

 いくつかの民間の慈善団体が被災者に食料と住居を提供している。だが、国連が主体となって国際的に募金を募ろうと申し出た時、インド政府はそれを断ったのである。インド人のプライドがそれを許さないだろうと言うのだ。欧米の慈善団体のいくつかが、オリッサの子供たちにオモチャを送るという間違いをおかした。税関は一つ一つ包みを開け、玩具は寄付としての認可がおりていないと主張し、送り荷を一週間も差し止めてしまった。被災地に振り当てられた2億ドルの連邦の資金は、いまだに拠出されていない。オリッサ州はライバルの国民会議派が支配しているため、バジパイ政権はオリッサ州政府を支援したくはないのだ、と評論家たちは言う。そうしている間にも、被災者の苦しみは続いてゆく。ディレンドラナース・マイカップさん(30才)は、洪水で二人いた子供の両方をなくした。3年前に精管切除手術を受けた彼は、もう一生子供を持てないのだ。「一瞬たりとも、そのことを後悔しない時はありません」と彼は語る。サルチャラ・スワインさん(21才)はとても変わった経験をした。洪水がもっとも激しい時に、木のてっぺんに逃れ、そこで出産をしたのだ。へその緒は自分の歯で噛み切った。彼女はその子供にトゥーファンと名前をつけた。それはサイクロンという意味だ。その男の子も今や生後二ヶ月、だが行く手には厳しい将来が待ち受けている。あまりにも貧しいのだ。洪水の水は、引いたかもしれない。だがスワインさんやその他何百万ものオリッサの人々は、いまだに無関心という大きな海に溺れているのである。