Who is Osama bin Laden ?


日本のメディアでは、Osama はオサマともウサマとも、また Laden はラディン、ラデン、ラーデンなどと表記され、定まっていない。1957年(58年との資料もある)、サウジアラビアのリヤドに生まれる。父はサウジアラビア最大のゼネコンオーナーで、資産50億ドルともいわれる大富豪。16才頃からイスラム原理主義への傾倒を深め、イスラムグループと関係を持つようになる。79年のソ連のアフガン侵攻後まもなく、アラブ各国から集まった、ソ連に対するジハード遂行のイスラム義勇兵(ムジャヒディン)の一人としてアフガンにわたる。そして、そこで難民援助や道路建設、兵器調達等に豊富な資金を提供し、英雄視されるようになった。その当時は、共産主義の拡大を阻止しようとするアメリカと利害が一致、CIAなどからも援助を受けていた。しかしソ連のアフガン撤退後、世界は大きく変わってゆく。ソ連は崩壊し冷戦時の世界的な枠組みが崩れ、それに代わるように新たな民俗・宗教の対立の構図が大きく浮かび上がってくる。共通の敵で結びついた友も、世界的な環境変化の中で、その関係を変えていくのも当然のことだった。帰国後の1990年夏、湾岸戦争が勃発。その時、サウジアラビアが自国に米軍を駐留させた事に、ビンラディンは猛反発し、その時からアメリカ寄りのアラブ諸国政府に対する不信感を強め、そして反米意識を鮮明にしていったといわれる。過激な言動により、91年、サウジアラビアを追放されイスラム原理主義政権下のスーダンにわたり、そこでゼネコン、貿易、投資会社の経営を始める一方、彼は他のイスラムグループとのネットワークを構築し本格的な活動を開始し始める。94年、サウジ政府に国籍を剥奪され、96年にはサウジとアメリカの圧力によりスーダンからも追放され、アフガニスタンにわたりタリバンの保護を受ける。そして同地からアメリカに対するジハード(聖戦)を宣言。1998年には他のイスラム過激派グループとともに「ユダヤ人と十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」(本文中の国際イスラム戦線のこと)を結成、「アメリカ人とその同盟者は、軍人、民間人を問わず殺害するよう」イスラム世界に呼びかけたファトワを出した。ビンラディンの総資産は、相続金や事業で蓄えたものなど、500億円にも上るといわれ、アメリカは彼のことを「テロのファイナンシャー」と呼び非常に神経を尖らせていたが、このファトワを契機に、ビンラディンを標的とする本格的な軍事攻撃の検討に入ったといわれる。そういった中、1998年8月7日、ケニアの首都ナイロビとタンザニアの首都ダルエスサラームで、アメリカ大使館を狙った同時爆弾テロが発生、合わせて250人以上が死亡(本文では224名となっている)、5000人以上が負傷した。アメリカはビンラディングループの犯行と断定、同20日アフガニスタンの彼の活動拠点6ケ所とスーダンの首都ハルツームにある工場を巡行ミサイルで爆撃した。ビンラディンはその攻撃を逃れ、ただちに報復テロを予告した。

◆米国務省がラディンの関与を疑っている主なテロ事件

1992年12月 イエメン・アデンのホテル爆破。2人死亡。

1993年 2月 米ニューヨークの世界貿易センタービル爆弾テロ。6人死亡、1000人以上負傷。

1995年 6月 エチオピア訪問中のムバラク・エジプト大統領暗殺未遂。

    11月 サウジアラビア・リヤドの国家警備隊施設での自動車爆弾テロ。米軍事顧問ら7人死亡。

    11月 在パキスタンのエジプト大使館爆破。15人死亡。

1996年 6月 サウジアラビア・ダーラン近郊の米軍基地宿舎爆弾テロ。米兵19人死亡、400人負傷。

1998年 8月 ケニア、タンザニアの米大使館同時爆破テロ。257人死亡、約5000人負傷。