ヒンズー教指導者バル・タッカリーは自らをインド文化の帝王とみなしたがっているようだが、多くのインド人は彼のことを興ざましの帝王だと思っている。1995年の選挙で、彼の率いるヒンズー教至上主義政党シブ・セナ党がマハーラーシュトラ州とその州都ボンベイ(ムンバイ)を掌握して以来、タッカリーの一味はヒンズー教的モラルの向上に余念がない。彼らはこれまで、他のヒンズー教至上主義者と手を組んで劇を検閲し、画家に圧力をかけ、そしてパキスタンからやってきたイスラム教ミュージシャンのコンサートをぶっつぶすと脅してきた。

だが新作映画をめぐる激しい論争では、その帝王のモラル向上も少しばかり行き過ぎたかもしれない。12月2日、シブセナ党の女性党員たちが「ファイアー」という映画を上映している劇場を次々に襲撃したのだ。この映画は、愛情のない結婚生活に縛られた義理の姉妹が、お互い愛し合うことで慰めを見い出すというもの。マハーラーシュトラの州首相マノハル・ジョシは、ボンベイでのこの暴徒の襲撃を黙認。するとすぐに、「ファイアー」を上映して満員の観客を集めていたニューデリーの劇場も暴徒の襲撃を受け破壊された。あわてた配給会社は、ニューデリー、アーメダバード、プネーなど、シブセナ党や他のヒンズー至上主義政党の強硬な支持者の多いすべての都市で、「ファイアー」の上映を中止した。カナダ在住のインド人監督ディーパ・メータ制作のこの映画は、それまで14もの国際的な賞を受賞し32ヶ国で上映され、抗議の一つも出なかったというのにである。連邦政府は劇場周辺に警察を配置するどころか、「ファイアー」を再審査のため映画審査委員会に差し戻してしまった。

シブセナ党はこの映画のことを猥褻なポルノ映画だと説明しているが、多くのインド人映画ファンは、むねを締めつけられるような感動を覚えたという。メータ監督は次のように言う。「私の映画の多くは、孤独を描いたものです。自分の声でしゃべり始めた女性を描いているのです。」こういったテーマは多くの家庭で共感を呼び、最初ポルノチックなスリルを期待して劇場に押しかけた観客層はすぐに女性に変わった。その多くは娘を連れた母親たちで、これまでの伝統的な大家族を分裂させることにもなる「ひび割れ」を、真摯に追求するこの映画を熱心に見ていた。

映画では、中流階級の女性二人のその関係はゆっくりと深まってゆく。「私が描きたかったのは、貧しい物乞いのお決まりパターンではなく、携帯電話を持ち、ホンダに乗り、そしてジーンズをはいた現代インドなのです」とメータは言う。ある家庭に、一人の若い生き生きとした花嫁がとついでくる。シータはインド映画のテープ音楽に合わせて踊るのが好きだというような女性だ。その一方、彼女の義理の姉ラダーは、禁欲をとおして解脱を達成しようと願う熱烈なヒンズー教徒の夫を持ち、その彼に縛りつけられている。自宅の一階でビデオショップを経営しているシータの夫も何かに心を奪われていて、それがラダーの夫の場合とは違い、愛人であることにシータはすぐに気づく。やり場のない気持ちのなかで、二人は精神的にお互いを支えあうようになり、やがてそれは肉体関係をともなう愛情へと発展してゆく。だが、鍵穴からそれを見ていた使用人が最後にすべてをしゃべってしまう。

タッカリーが神経を尖らせているのは、レズビアンそのものではなく、むしろ、自分の頭で考える自立した女性の出現が、インドの家父長制社会に投げかける挑戦な意味合いであろうとメータは考えている。著述家で女性解放論者のリトゥ・メノンもこれと同じ意見で、インディアン・エクスプレス紙に次のように書いている。「(シブセナ党)や、それと同じような連中が大切にしているインドの「伝統」とは・・・実生活での女性の隷属を認めるものなのです。」なるほど確かに、ヒンズー教至上主義者たちの反対の声は、世も末だと言わんばかりのものだ。声明の中でシブセナ党女性支部はこう断言した。「もし女性の肉体的欲求が同性愛行為によって満たされるなら、結婚制度そのものが崩壊してしまう。人間は子孫を残せなくなってしまうではないか。」この発言を笑いとばしてメータは次のように言う。「私の映画がインドの人口問題の解決に役立つだなんて、夢にも思わなかったわ。」

いつもならタッカリーの突撃部隊を前にひるむインド映画界も、今回はメータとそして二人のスター女優シャバナ・アズミ、ナンディータ・ダスのもとに団結している。数名の有名人が最高裁に公共の利益を求める請願書を提出し、文化を独断で裁く者達に対して断固とした処置を取るよう政府に要求したのだ。このグループが警戒しているのは、シブセナ党などの過激な組織が、非常に多面的なインド社会に厳格な倫理的価値観を押しつけようとしていることだ。女優のアズミはこう言う。「インド人全体が何を見てよいのか、何を見たらいけないのかを決めているのが、ほんの一握りの人達だなんて、おかしいです。」

この映画は一般大衆の心に激しい火をつけてしまい、彼らは襲撃に対して抵抗さえしている。女性団体や芸術家は、シブセナ党に被害を受けたボンベイやニューデリーの劇場で「ファイアー」のためにデモを開き、カルカッタでは、上映中に過激派グループに襲われた観客達が反撃し、道徳の番人を自ら任ずる暴徒を追い返してしまった。シブセナ党の活動家の中にすら、やり過ぎではないかと問う者が出てきている。ボンベイの劇場の最初の襲撃を指揮したバンダーナ・シンドは、映画に対する反対運動は断固として続けるとしながらも、次のように語った。「大学に通う私の娘がこう言ったのです。お父さんのした事は間違っていると。」マハーラーシュトラ州の新聞マハナガルの編集長ニキール・ワグレはこう言う。「ファイアーはインド社会の転換点を記すものとなるかもしれません。人々は、この映画に対してシブセナ党が行ったことを理由に、彼らを公然と非難し始めています。」次にもう一度この火(ファイアー)が燃え上がった時には、それはインドにおける文化の至上主義者を焼き尽くしてしまうものとなるかもしれない。