地面に倒れ込むと、そこでジミー・シャーエの運命は尽きた。イスラム教暴徒は、二度と彼を立ち上がらせることはなかった。竹ざお、キッチンナイフ、金棒など、彼らの手にした武器はそれほど鋭利ではない。しかし、シャーエに向けられた憎悪は激しく鋭いものだった。45才で、インドネシア東部アンボン島出身のキリスト教徒シャーエは、イスラム教徒のモスクを襲撃したと疑われたのだ。恐ろしい報復が始まると、彼にはもう一縷の望みもなかった。

暴徒達はまず、彼の頭を殴ったり蹴ったりし始めた。一人の男が彼の左手をめった切りし、手首はほとんど腕から離れんばかりだ。何本ものナイフが彼の体に突き立てられる。彼の上半身の衣服が剥ぎ取られた。その傷がよく見えるようにするためだ。彼らは彼を性急に殺すことはしなかった。そのうち、18才にもならないような一人の若者が彼の上にかがみこんだ。彼はシャーエの右胸のろっ骨の間を慎重にさぐると、そこから肺の奥深くにアイスピックを突き刺した。そして、それを抜くと、そこに付いた血を満足げにながめた。シャーエはコンクリートの上にうつ伏せになり、ぜぇぜぇとあえいでいる。加えられた暴力のあまりの激しさに、声をあげることも出来ず、意識もほとんどない。うつ伏せになった背中に、さらに無数の切り傷が刻み込まれた。その若者は顔に笑みを浮かべていた。

暴徒達はこの生け贄を仰向けにすると、その顔を激しく踏みつけた。それでなくても、激しく殴られたせいで、もう誰なのか識別できないほどになっていた。片方の眼球は飛び出してしまっていた。別の一人がナイフで彼の耳をそぎ落とす。「ゆっくりと死なせてやろうぜ」誰かが言った。狂った群集が笑った。

地元モスクの長、ハキム・ハスブーラ(48才)は何とか暴徒達をとどめようとした。そしてTIME誌の記者も、その男に代わって許しを請おうとした。だが襲撃に加わった二十数人には、もはや理性はなかった。誰もが彼を「一蹴り、一刺し」することに加わりたがった。実際にその行為に加わることが、プライドの証しとなるのである。「こんなことには賛成できない」直後に、まだ震えながらハスブーラは語った。

そのシャーエ殺害現場のすぐ近くでは、別のキリスト教徒ターハン・マナハン・シマトゥパン(22才)がイスラム教徒達に捕まえられ、尋問されていた。ジャカルタ北部のペンバングナン1丁目と呼ばれる地区の、その町会長の自宅玄関前に彼は立たされていた。後ろ手に縛られ、殴られた顔からは血が滴り落ちている。彼が言うには、自分は5ドルで警備員として雇われていた150人のキリスト教徒の一人だという。そして、違法賭博場をめぐっていざこざが発生すると、「大衆を扇動するため」、前の晩にこの地区にトラックで運ばれて来たのだという。この警備員達を最終的に指揮しているのが誰なのか、彼にはよく分かっていなかった。この地区のモスクの窓がその彼らに壊されると、このあたりのイスラム教徒達が武器を手にして、キリスト教徒狩りを始めたのだ。

ターハンをなじる群集の声は、昼過ぎから夕方まで続いた。警察に引き渡すのかと問うと、いいや違うと群集は声を上げて答えた。「我々は警察なんか信用していない」一人の男が叫ぶ。「我々自身の手でじっくりと痛めつけてやれ」別の男が言う。90メートルと離れていない路上には、数百人もの兵士や警察官が配備されていたが、仲裁に入れという命令は受けていないと彼らは言う。ターハンが刺され死亡したのは6時頃だった。

11月22日の日曜日、ペンバングナン1丁目のイスラム教徒達を止めることは誰にも出来なかった。その日の内に6人のキリスト教徒が狩り出されて殺された。そして、その地区の路地が血に染まった。ジミー・シャーエは頭蓋骨を割られ、その肺は3ケ所も穴を開けられていた。体中には30以上の傷が口を開け、検死解剖を行ったズルハスマル・シャムスル博士に「あまりにも酷い、残虐すぎる」と言わせるほどだった。

インドネシアの社会はまったくの暗闇にすべり落ちつつある。この11月22日の虐殺は、首都ジャカルタでは前例のない初めてのものだが、ここ数カ月の間にインドネシア列島全土で、250人以上がリンチされ殺害されている。この一連の虐殺は、恐怖と経済に対するフラストレーションが産み出したもののように思える。そして同時に、都市部のデモに対処するため農村部の治安部隊を引き揚げたことにより、法と秩序が全土で崩壊してしまったためでもあろう。スマトラでは最近、その地にやって来た一人の男が住民に殴打され、生きたまま火あぶりにされた。怪しむ住民達に、訪ねようとしていた親戚の正確な住所を言えなかったためだ。「現実原則が崩れ、欲求を抑える現実感覚がなくなりつつあります」こう語るのは、インドネシア大学のサルリト・ウィラワン・サルウォノ教授。「人を殺しても何の責任を取らなくても済むんだ、この社会はそういう社会だ、と思ってしまう人が増えれば増えるほど、それはこの国の文化の一部となってしまうのです。」

その文化に大きな責任を取るべきなのは、32年にもわたり独裁者としてインドネシアを支配したスハルト前大統領である。6ヶ月前に彼は大統領の座を追われた。その彼が力のない後継者ハビビ大統領に残したものが、麻痺しきった経済、デモ学生の虐殺で信用がた落ちの軍、そして将来のビジョンを見つけようと苦しみもがく国家なのである。リンチ虐殺事件が増すなか、多くの者が抱いている疑念は、より大きな民主化と軍の権力削減を求める学生達の要求を押しとどめ、時代の流れを逆転させるため、社会を混乱に陥れようと画策している者が軍と政界の権力者の一部にいるのではないか、ということである。これには先例があり、それはぞっとさせるものだ。1966年にスハルト将軍が権力の座につき、秩序回復を宣言したのは、50万人ものインドネシア人死亡者を出した18ヶ月にもわたる大量虐殺と無政府状態の果てのことだったのである。

来年6月に約束している選挙での影響力拡大を狙って、ハビビ大統領がイスラム過激派に支持をあおいだことで、さらに火に油を注ぐ結果となっている。イスラム教徒は2億1千万のインドネシア国民の87%をしめている。スハルト政権下で抑え込まれてきた多数のイスラム集団が今やいっせいに、もっと政治経済の領域での権力をよこせと主張し始めたのである。先月始め、竹やりで武装したイスラム教の青年達による自警団が、ジャカルタのあちこちに配置された。民主化要求を掲げてデモをする学生達を襲うためである。先週に入って、イラン革命の指導者アヤトラ・ホメイニの写真を掲げる街頭デモが現れ始めた。インドネシアでは少数派だが大きな力を持っている華人社会は、今までも常に攻撃の対象であったが、最近の新しい襲撃事件は危険な宗教対立の様相を帯び始めている。「政治目的のための宗教の悪用、これがもっとも危険なのです」インドネシア心理学学会の会長イーノク・マルクムは言う。「ひとたび人々が、理性の働かないこの領域に入り込んでしまえば、彼らを理性の世界に呼び戻すのことは困難です。」

だが、もうすでに入り込みすぎてしまったかもしれない。ペンバングナン1丁目の血に濡れた路地で、理性への出口は完全に閉ざされてしまったようだ。