インドネシア人外交官、J・B・ウィドドは、チャン・ジン・インの描いたその問題の絵「5月の犠牲者」をまだ目にしていない。だが、見なくとも、気に入らないだろうことは分かる。ハノイのインドネシア大使館職員の彼には、タイトルから察するに、その扱うテーマがあまりに生々しすぎるのだ。主に中国系住民が標的となった、今年5月のジャカルタの暴動、それがテーマである。そのためウィドドは、ベトナムの文化情報相大臣に、11月に開かれるASEAN各国参加のアートコンペにその絵を出展しないよう要請した。「私たちが心配するのは、その絵の伝えるイメージが、実際の真実の姿ではなく、見る者に誤った印象を与えるのではないか、ということです」ウィドドはこう言う。「ハノイでそれを展示すれば、ASEANの精神に反することになります。」

何と、こんなところに「ASEANの精神」がご登場するとは・・・。その神聖にして犯すべからざる言葉を持ち出すというのは、たいてい次のことを意味する。「汝、汝の隣人を怒らせるなかれ。」ASEANの31年の歴史の大半において、厳格な不干渉の原則の核となってきたのは、そのような抑制であった。そのため、各国はお互いの内政問題を論じることを避け、さらに、隣国の政府が不快感を覚えるような表現や美術作品があれば、自主的に検閲削除してきた。しかし15カ月前に始まり、この地域を吹き荒れている経済危機は、事態を一変してしまった。今や、握手よりも、名指しの非難の方が増えているのだ。

今までASEANの指導者達は、定例会に集まって並んで写真に収まり、自分たちが生み出したアジアの経済奇跡をお互いに賞賛しあう、というのが常だった。ASEANの誕生以来、長きにわたって政権を維持したインドネシアの(元)スハルト大統領は、一目置かれる存在であった。だが、急成長をとげた経済が破綻し、スハルト大統領が政権の座から投げ出されると、押入に隠した秘密が暴かれるように、古くからの対立が表面化してきた。目下のところ、ASEAN諸国の中で現在もっとも長期政権を維持しているマレーシアのマハティール首相が、かつては声を荒げることのなかった近隣諸国の非難の的となっている。それに対して、彼の方も逐一応戦している。「私たちが対立しやすくなっているのは、まさに私たちが置かれているこの経済危機のためです」タイ外相スリン・ピツワンは先週、TIME誌にこう語った。「各国がそれぞれ全員、内向的になっていて、外に対して少々疑い深くなっているのです。」

 そもそも、お互い共有する特徴が地理的な条件だけという、このような多様な国家の連合体が今までやってこれた事自体、まさに驚くべきことである。それは、現在とりわけ驚異的とも言える。というのも、中国やソビエト共産圏、時にはアメリカなどというように、以前には彼らの共通の敵があり、その脅威が感じられたものだが、それが現在薄れてしまったからだ。ASEANの長年の頭痛の種、社会主義国ベトナムも1995年にはASEANに加盟した。共有できる使命を失った現在、各国間の相違や古くから鬱積してきた不満や敵対心が、浮上してきているのだ。最近になり表面化したその厳しい緊張関係のため、来月(今月11月:訳者)クアラルンプールで開かれるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)においては、その座席配置が難題となることは確実である。それは12月ハノイで開催予定のASEAN首脳会談でも同じことだ。その内、主だった問題を拾ってみると・・・

 フィリピン - マレーシア関係 フィリピンではジョセフ・エストラーダ大統領が、マレーシア元副首相アンワル・イブラヒム氏の逮捕監禁をめぐってマレーシアを非難。6月に政権の座についたエストラーダ首相は当初、APEC首脳会談をボイコットすると威嚇していた。現在、彼は出席するだろうと見込まれているが、その時、アンワル氏との会談を要請することをほのめかしている。また、彼は2週間前にも、マニラでアンワル氏の十代の娘、ヌルル・イッザ嬢とも会っている。その一方、フィリピンの政治家達も、来週から始まるアンワル氏の審理を非公式に監視するため、クアラルンプールに飛ぶ予定があると発表している。

 マレーシアも反撃している。先週、クアラルンプールのフィリピン大使館周辺では、マハティール支持派による抗議デモが行われた。彼らは、マレーシアが国内に抱える大量の外国人労働者に触れ、「エストラーダは気が狂った、我々は80万人のフィリピン人を喰わしてやっているのだ」と読める看板を掲げデモ行進をした。「フィリピンとインドネシアは大量の失業者を抱えている。だからこそ、我々は彼らの労働者を受け入れてやっているのだ」こう語るのは、マレーシアの与党、統一マレー国民組織(UMNO党)最高評議会議員のイブラヒム・アリ氏。「彼らがASEANを重視しないというのであれば、我々だって、そういった労働者を国外に放り出すこともできるのだ。」彼はまた、こうもつけ加える。「エストラーダは、道徳的に見て、指導者にふさわしいとは言えない。」こういった非難の応酬のなか、定期的に行われていた二国間の軍事会談も中止された。

 マレーシア - シンガポール関係 今年になりシンガポールの各銀行が、マレーシア通貨リンギットの預金口座に大きな利子をつけ始めると、長年くすぶっていた緊張関係に激しく火がついた。マレーシア経済の弱体化をねらった策略だと、マレーシア政府が解したためだ。その後、シンガポールの元老リー・クアン・ユーの回想録が出版され、その中で彼はマレーシアの指導者層を批判。マレーシア側は、自国の領空をシンガポール軍事機が飛行することを禁止した。両国はまた、シンガポールのターミナル駅から入国管理事務所を撤去したことをめぐっても、反目し合っている。9月にクアラルンプールで開催された英連邦スポーツ大会の際には、地元の群衆が、シンガポールの選手達にブーイングを浴びせかけている。

 インドネシア - シンガポール関係 地域内でもっとも大きな経済的打撃を受けているインドネシアが、表に出して苛立っているのは、インドネシアより小さいくせに富裕な隣国、シンガポールからの援助が少ないということだ。シンガポール側も昨年、インドネシアを非難している。森林火災の拡大をくい止める施策を怠り、東南アジア地域の多くに、息苦しい煙害をもたらしたというものだ。インドネシア大統領B・j・ハビビは、そんなものは地図上のちっぽけな赤いしみにすぎないじゃないか、とシンガポールに対して激しくやり返した。

 マレーシア - インドネシア関係 マハティール政府は昨年、経済がわずかでも困難な様相を示し始めるとすぐさま、数千人のインドネシア労働者を検挙、強制送還し、事態の改善に手を貸そうとはしなかった。アンワル氏の逮捕後、インドネシアのハビビ大統領は多忙を理由に訪問を中止、後になってエストラーダ大統領同様、アンワル氏の娘に会っている。先月、マレーシアの有力政治家ガファール・バーバ氏はジャカルタを訪れ、インドネシア報道陣はアンワル氏の主張を擁護していると激しく批判した。「たぶん彼は、インドネシアでの方が指導者として適しているだろう」と彼は言う。「インドネシアではホモでも構わないそうだからね。」そしてアンワル氏の弁護資金を集めている弁護士に対して、こう語った。「彼には、その金をインドネシア国民に寄付し、食料に使ってもらうよう勧めておいた。」これに反発したインドネシア人は、ジャカルタのマレーシア大使館前で抗議、彼の帰国を要求した。

 この地域全体の様相は、突然変わったように思えるが、その根は何年も前にさかのぼり、それまで排斥していたベトナム、カンボジア、ラオス、ビルマ(ミャンマー)などといった近隣諸国に対して、ASEANが関係正常化を持ち出した頃に始まる。以来、カンボジアを除く他のすべての国がASEAN加盟をはたした。だが、その勢力範囲の拡大が意味するものは、まったく新しいルールで事を進めるメンバーが中に加わったということである。過去において、マレーシア、シンガポール、インドネシアなどのように、急激な成長を続ける経済に采配を振った独裁的な指導者達は、同じような経済成長を監督したタイやフィリピンなどのような民主国家とうまくかみ合った。だが、社会主義国であるベトナムやラオス、そして軍事政権のビルマはそれとは異なり、ASEANの派手な自由市場の祭典にはあまり加わりたがらない。「そのため、アメリカやEUなどを相手にした交渉がより難しくなってしまいました」とタイの外交官は言う。「彼らにしても交渉する相手が、ビルマのいないASEANと、いるASEANとでは大違いでしょうから。」

 ASEANにとって幸いなのは、それぞれ二国間でとどまっている争いが、この9カ国連合の存在そのもを危うくするほど深刻なものではないということだ。だがその反面、そういった争いは、いかにしてアジア経済を回復させるべきかという、今もっとも緊急を要する共通の問題にまとまって取り組むさまたげとなってしまっている。しかも経済がさらに下降すれば、ASEANの存在意義そのものが低下するだけである。「みんなが成長し、景気の良かった頃は、自動操縦で進んでいたようなものでした」シンガポール在住の評論家、シャロン・シディキさんはこう言う。「成長というものが、私たちの心に刻み込まれた特徴でした。それが変わってしまったので、組織に対する認識も変わったのです。」もっと自由に交流し合う機会が、やがては訪れるかもしれない。マレーシアのアンワル氏やインドネシアのスリン氏に具体的に見られるように、より若い世代の指導者達が唱えるのは、ASEANに対し、各国がもっと束縛のない自由な役割を果たすことである。お互い善良な隣国として振る舞いながらも、時にはお互いの内政にも関わっていこうというのだ。「もし他国で起こったことが自国に影響するのであれば、その事に対して見解を表明してもいいではありませんか。」このようにスリン氏は問いかける。

 それは、一度じっくり考えてみてもいい点だ。いわゆる「ASEANの精神」というものがありながら、この集団は、例えば人権問題やインドネシアの森林火災による煙霧などのような、ASEANとして注意を向ける必要のある、異論の多い地域内の諸問題を今まで避けてきた。「もっとお互い率直になる必要があります」クアラルンプールにあるマラヤ大学の政治学者、チャンドラ・ムザファール氏は言う。「もし今の状態を伏せたままごまかし続ければ、問題を引き起こしかねません。」マレーシア生まれの画家、チャン・ジン・インが身をもって学びつつあるように、古いASEANの精神には、刺激的な表現を受け入れる余地はほとんどないのである。「もしベトナムがASEANに圧力を加えられ、その絵の出展を禁止することがあれば、その精神が民主的なものではないということを自らが示したことになります」と彼女は言う。そのASEANの精神が新しく生まれ変われることを示すためには、彼女の絵のような芸術作品や、それと共に起こる議論をすべて快く受け入れる以外、取るべき道はなさそうである。


問題の解答

1 ×  2 ×  3 ○  4 ○  5 ×  6 ×  7 ×

8 ×  9 ○  10 ×  11 ×  12 ○  13 ○