モスクワサミットは、何と多くを語る絵を提供してくれたことだろう。モニカ・ルウィンスキーの件で記者が質問を浴びせかけると、クリントン大統領は、疲れ切り、精も根も尽きはてた様子で、頭を両手で抱え、むっつりと口を閉じる。そして、つじつまの合った返答を、何とかひねり出そうと苦闘しているクリントン大統領の横で、エリツィン大統領は放心し、心ここにあらずといった様子である。記者がエリツィン大統領に、チェルノムイルジン氏以外の人物を首相候補として認めることがあるのかと質問を向けると、大統領は悲痛なほど押し黙り、そしてやっと口を開いた。「うーん。言えることは、結論が得られるまでには、かなりの事態を経ることになるだろう、ということだ。それだけだ。」

 何ということだろう。世界経済の急降下をふせぎ、その機首を上向きにするため、リーダーシップが強く求められている時に、世界の首脳は指導力を失ってしまっている。そういう不安を結晶化したかのようなシーンである。金融財政の中心に位置するものが信用だとすれば、ロシアは、どれほどそれを失ってしまったかという一つの良い例である。この俗世を離れた、世界の頂上ともいうべき会談の場で、世界の二大大統領はお互いを支え合うことをせずに、足の引っ張り合いをしているだけかのようであった。周囲の目に触れるクリントン大統領のさえない言動は、ホスト国、ロシアの衰弱した状態を際だたせてしまっただけのようだ。エリツィン大統領の心身面での執務能力の問題と権力基盤の弱体化は、エリツィン政権を強く支持してきたアメリカ政権の体面をひどくそこなったのである。国を自由市場原理に任せるべきだという、クリントン大統領の厳しい愛のムチのアドバイスも、あるレベルでは適切なものだが、相手にされそうもない。不穏な経済の成り行きを、固唾をのんで見定めようとしている世界中の国民の目には、このサミットは、ポチョムキン流の見せかけのリーダーシップとしか映らなかったのである。

 このタイミングの悪い会合は、世界中に広がっている金融危機が、単に経済の崩壊ではなく、いかに政治の崩壊でもあるかということを明るみに出してしまった。ロシアでは、国を回復させる政府も、そのための計画も持たないような国家であることが暴露されてしまったのだ。各国で続く大規模な混乱の原因は、政財界の頂点にいる者たちの経営管理の失敗か、あるいは背任行為にあるのである。そして世界中が損害を修復しようとして直面している障害は、力のない、腐敗した、あるいはスキャンダルまみれの一握りの指導者たちに、その多くの責があるのだ。

 この政治崩壊の広がりは、驚くばかりである。昨年のバーツの暴落により、経済混乱の大津波を引き起こしたタイでは、首相自らが、目を見はるほどの腐敗した政権を指揮していた。元陸軍司令官で後に政治家に転向したチャワリット・ヨンチャイユット将軍(当時の首相)は、政治仲間の所有する経済難の金融会社を支えるのに、数十億バーツを浪費したのだ。市場の圧力に耐えかねバーツが急落し始めた時には、彼は、屈辱的な通貨切り下げを避けようと無駄な努力をし、国の経済状態をさらに悪化させてしまう。

 マレーシアでは、ひねくれ者で、がんこ者の今年72才になるマハティール・モハマド首相が17年もの間、独裁的な形で国を治め、経済機構のすべてを掌握し独り舞台を演じてきた。西側社会の敬意を執拗なまでに得ようとするマハティール首相は、いくらでも流れ込んできたがる外国投資を、世界最高の高層ビル、世界最高のフラッグポール、世界最高の管制塔など、とにかく世界最大、世界最高の建築物に惜しみなく浪費した。

 通貨と株式市場がその負担に耐えかね崩壊した時、彼はその責任を国外にあると決めつけ、一群の投機家の企み、ユダヤ人、発展途上国の敵などのせいだと非難した。そして国庫の赤字を埋めるために、金持ち達に、その所有する貴金属を海外で質入れし、その外貨を本国に持ち帰るよう求めた。食料輸入の支払いを大きく減らすためには、庭で野菜を栽培するよう国民に呼びかけた。先週になると彼は、マレーシアを世界経済から撤退させるという大胆な後退策を打ち出し、国の通貨の取り引きを停止、市場擁護派の大蔵大臣を解任してしまった。その上ばかげたことに、ひまを見つけて、98年型マレーシア国産車を率いて、世界最長のレースで記録に挑むということまでしている。

 インドネシアでもまた、あきれ返るほどのひどい政治腐敗と身内びいきが、スハルト大統領によって長年にわたり是認されてきた。それにもかかわらず、インドネシアには莫大な海外の資金が流れ込み続けた。大規模事業の受注契約を、大統領の子弟に独占させることに対して、それを弁護する者は、プロジェクトは実際に完工され、新しく道路や工場や空港などが建設されたので、それほど問題ではないと主張する。コストは高くついたが、それでも、そういったプロジェクトは25年間、6.5パーセント以上の経済成長率に貢献してきた。しかし、腐敗政治家の「甘い汁の吸いすぎ」のツケが通貨ルピアを暴落させ、ついでとられた緊急緊縮経済策が、約半数が貧困線上か、あるいはそれ以下にあえぐ国民の最低限の生活を脅かすと、暴動が噴出、スハルト大統領は退陣に追い込まれた。次にその大統領の椅子に座ったのは、変わり者バハルディン・J・ハビビ氏である。だが彼には意欲はあるだろうが、それを改革に結びつけるだけの大衆的な支持は、おそらくなさそうである。中央銀行の一局長、ミランダ・ゴウルトムは次のように言う。「インドネシアは、今はもう、あらゆることを左右できる一人の人間によって統治される国ではないのです。」

 こういった指導者達は、アジアの経済成長には独自のものがあると信じていた点においても、罪を犯している。国のリーダーシップや政策に関わりなく、経済は成長し続けるという信仰である。その神話は日本において完成され、そこでは、統治システムの全体が、誰一人何一つ責任をとらなくて済むようなものに作り上げられた。この国の派閥政治は、ばらまく政治利権や役得がじゅうぶんにあった頃は、うまく機能してきた。しかし困難が大きく立ちはだかった時、国益にかかわる難しい決断をくだせる指導者を生み出すメカニズムが存在していなかったのである。

 今日の世界経済の混乱の、おそらく根本原因である日本の経済危機は、ゆっくりとしたペースで発生した。そのため、歴代の指導者が介入し、本格的な不況を予見し、未然に防ぐために必要とされる、厳しいが操縦可能な範囲内での修正策を講ずる時間はたっぷりとあったのである。8年にわたって地価は大きく値崩れし、ついで株式市場が大暴落、そしてついに金融システム全体が崩壊する恐れまで出てきた。しかし日本の政治家や官僚は、問題が雲散霧消することをただいたずらに願うばかりで、厳しい現実から目をそらし続けた。何年もの間、病状が悪化するのに身を任せてきた日本は、いくら裕福だとはいえ、近隣諸国の経済が崩壊し始めた時、それに援助の手を差し伸べるどころではなかったのである。

 アジア諸国は最低限、日本が自国の経済の屋台骨を立て直すことで、アジア諸国に貢献してくれることを期待した。しかし現状では、そうなってはいない。日本の指導者達はいまだ、金融システムを再編し、産業界を甘やかしている規制を大幅に緩和する意欲を示していない。今まで誰一人として、効率の悪い産業界と自民党との金権癒着を断ち切ることに関心を寄せた者はいなかったし、また、その力を持つ者もいなかった。前首相の改革案は、党の政治力学と官僚の無気力により粉々に粉砕され、その彼は、東京のニュース解説者が「やたらと元気だけのある、食欲をそそらない冷めたピザ」と呼ぶところの、他と似たりよったりの代わりばえのしない党人間に置き換えられた。

 ロシアがもっとも大きな打撃を受けることは、何ら驚くにあたいしない。(ソビエト崩壊後)ロシアの指導者達がロシアを統治して、たかだか7年にしかならないが、その間、彼らは、国が発展していけるだけの、しっかりとした権力機構を作り出すことを完全に怠ってきた。エリツィン政権下でロシアは、大統領制、連邦議会、民間銀行など、文明国の装いだけは身につけた。だが、それは見せかけのものだ。大統領の地位は、国家の繁栄がすべてそこに依存するツァーの王位に似たものだった。だが、その言動に一貫性のないエリツィン大統領は、自分の健康問題も政治状況も把握していず、内閣、議会、国民に対する統制力を失ってしまっている。ロシア議会は、おそらく議員議会のつもりであろうが、ほとんどそのような体をなしていない。共産党を除いて、ロシアには本当の意味での政党というものは存在しないのだ。そのため、ほとんどの議員は自国が必要とする法律を作らずに、権力を求めて競い合うことになる。銀行は、ほとんどの場合、悪徳資本家の隠し金庫の役割を果たしている。

 病んだ国民は、指導者の失策を見せつけられれば見せつけられるほど、部外者にそれを正してもらおうと熱望するものだ。それがいいか悪いかは別にして、結局リーダーシップの重責はアメリカの肩にのしかかってくる。クリントン大統領は、そういった者たちの、最後の頼みの綱であらねばならないのだ。しかし彼はルインスキー・スキャンダルで、それどころではない。それに、彼の人間的な威信と道徳的な権威が消えつつあることを、多くの者が懸念する。クリントン大統領は今までも、外交問題に対する気配りを一貫して欠かさなかったわけではない。だが、弁護士と過ごさねばならない時間が増えれば増えるほど、諸外国に寄せるその配慮は確実に減少するだろう。

 クリントン大統領は国際経済を非常によく勉強していて、日一日と世界の姿を変えつつある、容赦のない経済の力をよく理解している。中には、新しい世界経済の枠組みを構築しようとしないで、各国ごとの対処法で手を打とうとしているクリントン大統領のやり方を批判する者もいる。いずれにせよ、力のない各国政府が市場の要求に応えられない現在、その政策は行き詰まりつつある。

 さらに暗い影を投げかけているのは、大きく脚光を浴びた市場経済と民主化の進展が、停滞していることである。ロシアは統制経済と独裁政治に戻りたがっているようだ。マレーシアのマハティール首相のような、指導者の独裁的な欲求は、繁栄と秩序を約束する方法として賞賛された「アジア的価値観」の醜い面の表れである。世界の指導者達は、自信を持って立ち向かうのではなく、頑なにしゃがみ込んでしまったかのようだ。自国が必要とする力強い措置をとらず、臆病な自衛手段ばかり講じている。どの国においても、指導者を封じ込める非常に難しい国内の政治問題というものがある。グローバリゼーションというものが、政治家生命をさらに困難なものにすることは確かだ。この現象には、ある程度まで固有の避けられない論理が内在している。つまり、右手に自由放任主義経済、左手に統制経済を同時には持てないということである。言い換えれば、経済の邪魔になるからと言って、指導者達に退くよう要求しておきながら、問題が起こった時にそれを修復するよう、彼らを呼び戻そうとしても、それは無理な注文というものだ。しかし矢張り最後には、国民から信頼されることと、そして自信が、少なくとも金融政策や金融改革と同じぐらい重要になってくる。そして、指導者の職責というものを定義するならば、その中に間違いなく、その信頼と自信というものが入らねばならない。


問題の解答

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8 ○  9 ×  10 ×  11 ×  12 ×  13 ○