緑の生い茂るビルマ(ミャンマー)の首都ラングーン(ヤンゴン)では、ちょっとした夜のにぎわいが急に芽をふきはじめた。数多くの新しい飲食店が並び、中には粋な日本料理の店もある。そして燦然と輝くホテルが、観光客やビジネスマン、地元の金持ち相手にディスコを開いている。ところが、ここ数日、太陽が沈むと街の通りは暗くなり、人通りも絶え、不気味なほど静かになってしまう。「人々は、何か面倒なことが起こるのではないかと恐れているのです」あるホテルのフロントは、こう説明する。
何かやっかいな事が起こりそうだという漠然とした感じは、昼間の間にも、熱帯のむっとするような湿気のように強く感じられる。先週、200人ほどの学生たちが、ラングーン大学の近くで集会を開いたのだ。彼らは民主化要求のスローガンを声高に叫び、そしてノーベル平和賞を受賞したアウン・サン・スー・チーの党、国民民主連盟(NLD)の赤い旗を振り回し、それに見物人達が喝采を送った。しかし機動隊が入り、集会を追い散らし、学生や、その場にいた数名の見物人でさえ護送トラックにかたっぱしから詰め込んでいったのだ。その後、ヤンゴン工科大学でも小規模なデモが起こったが、それも解散させられた。今回の集会は、1996年暮れの2週間にもわたるデモ以来のものであり、スー・チー女史とビルマの軍事政権との8年におよぶ行き詰まった緊張関係が、嵐の段階に入ろうとしていることを予感させるものである。
軍当局は明らかにそのように見ている。黄金色に光り輝く、ダイヤモンドを冠したビルマのもっとも神聖な寺院、シュウェダゴン・パゴダは、当局によって平日のすべての入場を禁じられた。そこは、1988年にスー・チー女史が有名な演説を行った場所であり、当局はこの場をラングーンの天安門としたくないのである。その上、スー・チー女史の代理人を二人召喚し、「安定と平和をそこなう活動をしないよう」正式に通告した。
この行き詰まりに、両陣営のどちらも勝てる見込みはなさそうである。スーチー女史は、現在政権を握っている軍事政権に、遅きに失したものの、彼女がビルマの指導者となるはずだった1990年の総選挙での、NLD側の勝利を認めるよう要求しているのだ。「単に、今がその時機だというのではない。」テープ録音され、国外にひそかに持ち出されラジオ・フリー・アジアで流された演説の中で、スー・チー女史はこう言っている。「実際には、とっくに期限切れなのだ。」しかし軍当局には、そのような計画はまったくない。1995年にスー・チー女史を6年におよぶ自宅監禁から釈放した後、軍当局は、連立政権に向けた対話を持ちたいとする彼女の請願を無視しつづけている。明らかにそれは、彼女の影響力が薄れて、単に過去の人となることを願ってのことだ。(スーチー女史は、暴力が発生することを恐れ、大衆行動の呼びかけを一貫して避けてきた。)軍事政権は、繁栄のおこぼれが民衆の気持ちをなだめることを願い、経済の自由化に着手しはじめた。
しかし経済は崩壊の瀬戸際に立たされている。主に、政治的な混乱のためと、そしてスー・チー女史が諸外国に対して、投資をビルマから撤退するよう要請していることによる。外貨準備高は推定5千万ドルに落ち込み、かろうじて一週間分の輸入の支払いができる程度しかない。インフレ率もほぼ30パーセントとなっている。ビルマの通貨であるチャットの対ドル公式為替レートは、6チャットだが、民間の両替商が応じるのは1ドル360チャットのレートだ。首都では停電が絶えず起こる。ラングーンの新しいゴージャスなホテルの3軒が、政府に閉館の許可を願い出たが、拒否された。
一方、スー・チー女史の方は、今まで以上に断固たる姿勢を余儀なくされている。2カ月前、彼女は、1990年に選出された国会を8月21日までに開くよう政府に要求したが、その期限はまったく顧みられないまま過ぎてしまった。「下級党員や学生たちは、党の生き残りのためには、最後の、土壇場の奮闘が必要だと思っているのです。」スー・チー女史と接触のある、ラングーンの外交官の一人は、こう語る。「彼らが、スー・チー女史に、それを余儀なくさせたのです。」8月21日という最終期限を設定してから、彼女は、活動することもなく士気の低下している支持者たちの支持を大々的にかき集めるため、農村部を廻る決意をした。そして二度にわたって、中心的な支持地域であるイラワディ地区に入ろうとするのだが、首都から32キロ離れた小さな橋の上で、当局に阻止されたのである。7月にその橋の上で六日間過ごし、健康をそこない、ラングーンに戻らざるをえなくなる。二度目には、トヨタのタウンエースで13日間過ごし、結局、救急車で首都に運ばれることとなる。政府はあらゆる努力をして、彼女を愚弄しようとしてきした。現場の橋にビーチパラソルとプラスチックのテーブル、椅子を送りつけた。そして報道機関に対しては、輸入菓子とマドンナやマイケルジャクソンのカセットを与えたとも発表した。いわく、「スー・チー女史は、ほとんどの時間をエアコンのきいたキャンピングカーの中で、小説を読んで過ごしている。」と。
こういった政府の言動は、数十年イギリスで暮らしたスー・チー女史のことを、外国がビルマに押しつけた厄介者として描こうとする長年にわたる努力の一部分であるが、効を奏することはなかった。それは、学生の抗議や首都のバリケードが物語るところである。スー・チー女史は、崩壊しつつある経済が変革を推し進めることを期待している。そしてIMF(国際通貨基金)は、ビルマの中期的見通しは「きわめて厳しい」と報告している。残念ながら、同じことは政治状況についても言える。軍事政権は、現実路線派と、ネー・ウィン時代の鎖国的孤立に戻ろうとする強硬派の二派に分裂していると言われる。(ネー・ウィン自身は、現在87歳で、ラングーンで引退生活をしていると考えられていたが、今でも強硬派に影響力を持っている。)他方、スー・チー女史の党もまた、分裂の気配を見せている。というのは、橋の上での二度目の膠着状態の時期に、NLD議長ウ・アウン・シュウェ氏が、軍幹部の一人と会談を行い、それが国営放送の夜のニュースで、大きく報道されたのだ。ビルマの社会経済の地滑りは今後も続くが、そのスピードは、ことによると加速するかもしれない。
問題の解答
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