荒廃したパキスタンの商都カラチ、そのたった一つの光明


 パキスタンの荒廃した商業の中心都市カラチには暴力が絶えない。この六ヶ月間に600名以上が民族間の争いやギャング団の抗争で命を落としている。パキスタンでもっとも知られた人道家であるアブドゥル・サッタール・エディには、この都市の苦しみを癒すことが毎日の務めである。白い髭をたくわえたこの慈善事業家は大惨事の現場には必ず現れ、負傷者を救急車で病院にかつぎ込み、死体を洗い埋葬する。冷酷な殺し屋でさえエディには危害を加えないよう特別な配慮を払う。武装したギャングが銃撃戦から彼を守ろうとして、覆いかぶさるようにして彼を地面に押し倒し、代わりに命を失うということがあった。「私の場合は神のなせる奇跡なのです」と彼は言う。

 彼の姓は母語グジャラート語で「怠け者」という意味なのだが、彼はこの45年の慈善活動において一日として休みをとったことがない。本来なら政府が行うべきなのだが怠っている社会福祉事業を、カラチでは8年の初等教育しか受けていない彼が担っているのである。インドからの分離独立後パキスタンに渡ったエディは、母親の死後、服地販売業をやめ診療所を開業した。そしてすぐに、たった一人だけで救急医療活動を始めた。その活動が今では、パキスタン最大にして最良の社会福祉事業に発展したのである。エディは政府補助金を受けとろうとはしない。その代わりに民間の寄付金でまかなっている。その額は年間500万ドルに達する。控えめで率直な話ぶりで知られる彼は、パキスタンの民族衣装である質素なグレーのシャルワールカミーズをまとい、事務所の二階の二部屋で、1965年に出会った篤志看護婦の妻ビルキスと暮らしている。「エディのような人と比べたら、他の人間はピグミーのようなものだ」と、この文盲の人道家の自伝「 A Mirror to the Blind 」(1996年出版)をまとめたラホール在住の作家ダラニ氏は言う。「パキスタンでまともな政治といえるものを行ってきたのは、ただ一人、彼だけだ。」

 横行する政治的民族的抗争のため、カラチには市長もいず市議会も開かれていない。しかも35ほどある行政機関は汚職と、てんでばらばらな仕事ぶりで有名だときている。当然、市行政はめちゃくちゃである。人々がエディに頼りにしてきたのは、24時間体制の救急活動(ヘリコプター一台、医薬品輸送用の飛行機が二基、しかもカラチだけで70台、合計450台もの救急車をエディは所有している)ばかりではない。それはホームレスの収容施設、孤児院、血液銀行、そして捨てられた幼児の施設にまで及んでいる。「死なせないで」施設の外に置かれたいくつもの青い揺りかごの上には、手書きの簡単な文字でこう書かれた看板が掲げられている。「赤ん坊を生きたまま、この揺りかごに置いていって。赤ん坊を死なせないで。」多くの場合、宗派を示す名札をつけたまま捨てられた2万2千以上もの幼児が、このようにエディと彼の妻ビルキスによって命を救われてきたのである。

 年長の子供達には孤児院があり、そこでエディはみんなの父と慕われている。いくつもある施設に彼は毎週、足を運ぶ。そのうちの一つ、カラチ市外の施設では坊主頭の250人の少年達が彼と握手しようと列を作り、熱心に並んで待つ。「バーバ(お父さん)がやって来た!」彼らは声をあげる。エディは、この子供達がいずれ大人になった時、彼の仕事を継いでくれることを願っているのだ。「この子供達が、やがては私の宣教師となるのです」エディは熱く語る。

 69歳になるエディは、よくマザーテレサにたとえられる。しかし両者が似ているのは、慈善救済活動への驚くべき献身ぶりだけである。今は亡きカルカッタの修道女、マザーテレサとは違いエディは世間の注目を浴びることを嫌う。そしてマザーテレサがローマ・カトリック教会の支持を受けたのに対し、エディは同じイスラム教徒と再三再四ぶつかってきた。彼は、博愛の精神というものがイスラム教ではもっとも重要であると考えていて、その信仰があまり深くないとしてイスラム教徒達を批判する。彼を非難中傷する者は(そのほとんどが強硬派であるが)、彼と家族に対して死の宣告を行い、女性に対する彼の平等主義的な扱いを非イスラム教的だとして非難し、そして幼児施設や孤児院を通して私生児の出産を助長していると彼を断罪してきた。去年の暮れなどにはイスラム教右翼集団のメンバーが、彼のカラチ市内の病院を襲撃し、今もなお占拠し続けている。「初めの頃、そういった非難は恐ろしく、また気が滅入るものでした」と彼は言う。しかし今では以前ほどそんな脅しや障害に悩まされることはない。自分が死んでからも末永く続く、しっかりした体制を構築したと満足しているのだ。「私は人生をまっとうしました。なのに何を思い悩むことがあるでしょう?」

 まさに、どのような困難も彼の仕事の妨げとはならない。何年にもわたって彼の救急車は火を放たれ、ボランティア達は襲撃され、何人も命を落としている。「しかし、それでも私たちは止めませんでした」と彼は言う。最大の悲劇はごく個人的なものだった。可愛がっていた4歳の孫が火傷で死んでしまったのだ。それは、ホームレスの施設にいた情緒障害のある一人の女性のせいだった。エディはこの男の子の死に、完全に打ちひしがれてしまった。その後、彼は感情を表に出さなくなったと友人達は言う。しかし、貧しい人々を助ける努力と、パキスタンに社会福祉制度を求める訴えには、まったく迷いはなかった。

 現代の英雄を失い、海外にはテロと麻薬の輸出、そして核兵器開発で知られるような国においてエディは、深い思いやりの気持ちを呼び起こす類いまれな声となった。「彼は、人の中にまだ善というものがあることを示してくれる、唯一の光明なのです」とイスラマバードの人類学者、アダム・ナヤール氏は言う。カラチ市の近郊には、エディが建てた、家を失った障害者のための施設の一つがある。その玄関の階段に腰をおろし、彼は満足げに青々とした風景を見渡す。ほぼ10年前、彼がこの辺りの26ヘクタールの土地を買った時には、木も水もなかった。最近、彼は発電器をいくつも設置した。「夜になれば、この辺りは真っ暗になります」と彼は語る。「でも、ここには、光があります。」