昼下がり  〜第7章〜

 

 9月に入り、ジリジリとした夏の日差しにかわって、まぶしいながらもどこか涼しさとさみしさを感じさせる蒼いすみきった空の日が多くなった。と言っても、まだ真昼の太陽の下でのんびりと過ごすにはまだまだ暑いのだけれど、、、。

 「ちりん、、、。」

 不意に涼しげな風鈴の音が聞こえた。母親は、どこかしら昔ながらの風情のあるものなんかを好んむ人で、わが家は洋館風な外見に似合わず、夏になると恒例で風鈴がつるされる。クーラーがあまり好きじゃない俺は、夏は窓を全開にして部屋に風を通しているのだが、その風鈴の音がいい具合に2階の部屋まで聞こえてくるのだ。

 ”もうじき夏も終わりだな、、、。”

 俺はしみじみそう感じた。炎天下で鳴くセミの声も微妙に変わってきている。

 ”そういえば、こんな風にうちで過ごすのもひさしぶりだな、、、。”

 実際、夏休みに入ってからほとんど毎日のように出かけていた。といっても、千夏の研究室のバイト以外は特に用事があるというわけでもなく、いつもの喫茶店でコーヒーを飲んでいただけなのだが、、、。

 ”きっと今日あたり、そろそろ学生が図書館なんかに押し寄せてきてるんだろうな。”

 あと一週間たらずで大学の夏休みも終わってしまうので、 今日あたりは大学のあたりは課題におわれる学生でいっぱいなはずだ。毎年恒例のことで、少し前まではあわただしいながらもなんとなく落ちついたビジネス街の雰囲気が漂っていたところに、少しずつにぎやかな学生街の空気に戻ってくる。本来なら”にぎやかな学生街”に身を置いているはずの自分なのだが、、、どことなくその雰囲気を遠いものとして感じている。なんだか少し不思議な感覚が俺の中にあった。

 そんな感覚を覚えつつ、、、今日もいつもの店でにコーヒーを飲みながら本でも読んで過ごそうかと考えていた。自分でも気づかないうちに”そういった時間”を必要と感じていたのかもしれない。でも、そろそろ出かけようかと考えていた時、電話のベルが鳴り響いたのだ。

 

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 「○○銀行の人事担当の人からよ。」

と、下から俺を呼ぶ母親の声が心の中にずっしりとした錘のように響いた。俺は足取り重く階段をおり、無言で母親から受話器を受け取った。

 

 「もしもし、お電話かわりました。」

俺は平坦な声で電話に出た。

 「こんにちわ。○○銀行の××と申します。お休みのところ申し訳ありません。」

俺と同じくらい相手の声も平坦で事務的だった。

 「いえ、とんでもありません。」

 「そうですか。あぁ、ご連絡なのですが、来月の某日に本社のお越しいただきたいのですが、ご都合は大丈夫でしょうか?」

 担当者の言葉は、実質”うちにきていただけるのですよね。”という意志確認と拘束のためのものだった。やんわりとした丁寧な言葉遣いの中にも、重圧のようなものを感じた。

 「えぇっと、、、。」

 俺はその重圧に一瞬ひるんだ。

 

 − そんなうだうだ考えてないでいいかげんはっきりしてくれないか? −

 

 そんな風に言われた気がしていた。背中をいやな汗が流れていくのを感じた。

 

 「あの、もしかしてその日はご都合がよくないのでしょうか?それとも、、、。」

 俺の普通でない様子に、担当者も電話の向こう側で気づいたらしく、そう言いながら言葉を濁した。

 「あ、いえ、違います。大丈夫です。来月の某日ですよね。伺わせていただきます。大学のほうで予定があったかどうか考えてみただけです。すみません。」

 俺はあわててとってつけたかのように言った。

 「そうですか。では後日詳細についてまた文書を送らせていただきますのでよろしくお願いいたします。あ、それとくれぐれも体調など崩さないように気をつけてください。結構いらっしゃるのですよ、体調を崩して当日になって欠席という方が、、、。では失礼いたします。」

 担当者はそういって電話を切った。

 「ありがとうございます。失礼します。」

 俺はそう言って、”プツっ”という電話の切れた音を確認してから受話器を置いた。

 

 ”よかったのだろうか、、、。”

 そんな言葉が頭の中でぐるぐるとまわった。早坂と話をしてから、俺はさらに自分の気持ちをつかみかねるようになっていた。

 ”ものを書きたいことは確かだ、、、だけど、例えばこの先それに関係する仕事をさがすなりするとして、果たして今がその動き出す時期なのか、、、。いや、それ以前にほんとうに俺はものを書くことを仕事にしたいんだろうか、、、。”

 

 受話器から手を離し、”ふっ”と顔を上げると、母親が少し離れたところから怪訝そうな顔でこちらの様子を伺っていた。

 「あ、電話使う?」

 俺は平静を装ってそう言った。しかし内心は俺の揺れている気持ちを悟られてしまうのではないかとあせっていた。

 「違うんだけど、、、就職のことでなにか困ったことでもあったの?なんだか顔色も悪いし、、、。」

 彼女はそこまで言って言葉をにごした。普段はサバサバしてなんでもはっきり言うたちの人なのだが、俺の様子がおかしいことに気づいたらしくめずらしく言葉が少ない。

 「いや、、、なんでもないよ。来月会社で内定者を集めるから、その会に出席してくれってだけ。内定者の拘束ってヤツだよ。めんどくさいんだけどね、、、。ま、何も心配いらないよ。でも、もしかしてちょっと夏バテ気味かな、、、ってことで、今日は1日家にいるよ。」

 「それならいいんだけど、、、じゃ、お昼はうちで食べるのね。これから買い物に行ってくるけど、スタミナがつくようなものにしようかしら。それともさっぱり系がいい?」

 彼女は何もなかったように、さりげない感じで話題をすりかえた。俺の様子を見てあまりふれないほうがいいと思ったらしい。

 「あ、さっぱり系で軽めでいいよ。」

 俺も何事もなかったように答えた。

 「そう、じゃさっぱり系ね。ちょっと買い物にいってくるから、、、よろしくね。」

 彼女は白いレースの日傘を手にとり、サンダルを履きながらそう言った。ドアを開けると強い日差しが玄関にさしこむ。少し薄暗い家の中で、その日差しがさしこんでいる部分だけがくっきりと浮かび上がった。

 「いってきまぁす。」

 彼女は背中ごしに手を振りながら出ていった。白い日傘をさし、薄い水色のワンピースに身を包んだその後姿は、暑い日差しのなかその空間だけひんやり涼しげな感じをかもしだしていた。

 

「さて、、、。」

 俺は玄関のドアを閉めながら、小さく深呼吸した。急に喉のかわきを感じ、キッチンに行って冷蔵庫からきんきんに冷えた麦茶が入ったボトルを取り出しグラスにそそぎ、それを一気に飲み干した。そしてもう一杯グラスになみなみとそそぎ、それを手に居間に移動した。

 

 居間は、窓をしめきりレースのカーテンがひかれていて少し暗く、クーラー独特の冷たい空気で満たされていた。大きめなスピーカーからは聞こえるか聞こえないかくらいの静かさでクラシックが流れている。なんとなく聞き覚えのある旋律はバッハだろうか、、、。ソファの向こう側に父親の頭だけが見える。

 

 「家にいるなんてめずらしいな、、、。」

俺の気配に気がついたのか、父親がこちらを振り返って言った。

 「そういう親父こそ、家にいるのはめずらしいんじゃないか?」

 「そうかもしれないな、、、たまには家でゆっくりしようと思ってね。そこに座ったらどうだ。」

彼はそういって向かい側のソファに俺をうながした。そして、読みかけの分厚いハードカバーの本に銀でできた薄いブックマークをはさみ、静かにテーブルの上に置いた。

 「あ、本読みかけだったんじゃないの、、、別に俺のことは気にしなくていいよ。」

俺はそう言いながらソファに座った。日頃なかなか顔をあわせることがないせいか、俺は少し緊張していた。

 「いや、昔読んだ本が懐かしくなってたまたま開いてみただけだからね。」

そう言って彼はテーブルに置かれた本を懐かしそうに見つめた。言われてみると、確かにその本は少し黄ばみが入っていて、年代を感じさせるものだった。

 ”親父が本を読むなんて知らなかった、、、。”

俺は少し驚いていた。記憶がある限り、親父が本を読んでいる姿を目にしたことはなかった。朝早く仕事に出掛けて行き、夜遅く帰ってくる、、、たまの休日に母親と3人で出かけることはあったが、どちらかというと物静かだった彼は、1歩離れたところから俺たちを見ているという感じだった。よくよく考えてみると、彼がどんなことに興味を持っているとか、昔何に夢中になっていたとかそう言った類のことはほとんど話したこともないような気がする。かといって、存在感が希薄とかそういうことではなくて、静かでどっしりとした安定感をこの家にただよわせていた。たまに長期出張なんかで家を空けている時なんかは、どこかしら”何かが欠けている、、、”そんな不自然な空気に落ちつかない気分を味わっていた気がする。

 しばらくの間沈黙が流れた。

 ”何か話したほうがいいのか、、、。”

俺がそんなことを頭の中にめぐらせてる間、親父はどこを見るともなく静かに流れる旋律に耳を澄ませているようだった。

 

 「カチッ、、、ウィーン、、、カタン、、、」

流れていた曲が終わり、レコードの針が上がった。

 

 「何か聴きたい曲でもあるか?」

親父はソファから立ち上がり、レコードがずらりと並んだ棚のガラス扉を開けた。 

 「そうだな、、、あまり騒々しくないものならなんでも、、、。」

俺がそう言うと、親父は一枚一枚丁寧にレコードを引き出し懐かしそうにレコード・ジャケットを眺めた。今ではあらかたCDに買い換えてしまっているが、昔聴きこんだレコードを親父は大切にしていて、気が向くとそのレコードを取りだし針を落とすのだ。

 

パイヤール指揮の”アルビニーノのアダージョ”が静かに流れ出す。俺が子供の頃によく耳にした旋律だ。親父は静かに棚の扉閉め、レコード・ジャケットを手にソファに腰を下ろす。そして、何度も手に取り見慣れているはずのジャケットを愛おしそうに眺めている。

 「たまにはいいだろう、、、。」

親父はそう言って俺を見た。その瞳には静かで落ちついた中にも、しっかりとした芯のようなものが感じられた。

 「うん、、、。」

俺はなんとなくその瞳に向き合っていられなくて、テーブルに置かれた本を手にとった。

 ”山と、、、”

パラパラとページを開くと、なんとも言えない古びた紙の匂いがした。ところどころ何度も開いたと思われる場所に微妙は折り目がついている。そういえば、母親から親父は昔山登りに夢中になっていた頃があったとのだと、いつだったか聞いたような気がする。仲間と連れ立って雪山に出かけ、あやうくそ遭難しかけたとかそんな話だった。

 「親父、、、今でも山好きなんだな、、、。」

俺は話しかけるでもなくつぶやいた。

 「そうだなぁ、、、好きなのは変わらないな。昔みたいにがむしゃらに登りたいっていうのとは違うが、、、。」

親父は、”ははっ”とかすかに笑い、その頃をなつかしむような表情をした。そこにはどこかしら少年のような爽やかさがあった。

 「あの頃は、、、山に登ることが本当に楽しくてしかたなかった。どんな苦しい道のりも、頂上に立ったときの爽快な気分の前には吹き飛んでしまった。そして、そんな爽快感と同時に”あの山にもこの山にも絶対登ってやる”っていう征服欲みたいなものもいつのまにか心の中に生まれきてな、、、”山に魅せられた”ってのはああいうことを言うのかもしれないな、、、。」

親父は一言一言自分の中で確かめるように言った。

 「そうなんだ、、、。」

俺は本を閉じ、表紙を見つめた。

 「ま、それから山ばかりに熱中してるわけにもいかなくなって、、、仕事にしろ生活にしろある意味必要にせまらせることが多くなっていたし、他に大切なものもできた。気がつくと、いつのまにか山に向かう気持ちも一時期のような激しい情熱的なものではなくなっていた。ゆったりとおだやかに心の奥のほうで流れている、、、そんな感じだ。丁度この低音部みたいにな。」

親父はそう言い、瞳を閉じて音楽に聴き入った。俺も同じように瞳を閉じた。心なしか、いつもにも増して低音部が心地よく感じた。

 

”好きだという気持ちにも、、、いろんな形があるんだな、、、。”

今までなんとなくわかってはいても、特別意識したことになかった言葉が俺の頭の中に浮かんでいた。そして、その言葉が俺の心の奥に静かにゆっくりと浸透していくような感じがした。

 

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 「キィッ、、、」

不意にドアが開いた。

 「あら、めずらしいわね。二人でレコード聴いてるなんて、、、。」

どのくらい時間がたったのだろう。買い物に出かけていた母親が、買い物袋を手に顔をのぞかせた。

 「お昼の支度するけど、、、どうする?そっちに運んで食べる?」

母親はめずらしく3人そろって昼に食事をするのがなんだかうれしいらしく、ニッコリと微笑んで言った。

 「そうだな、、、じゃ、窓を開けて風通すか。」

親父はそう言って立ちあがり、レースのカーテンはそのままに窓を開けた。途端に外からセミの声が部屋の中に聞えてくる。それまでのひんやりとした部屋の空気と外の暑さが、と少しずつ溶け合っていく。

 「俺、庭に水をまいてくるよ。」

俺もテーブルに本を置き、立ちあがった。

 「そうね、お願い。少しは涼しくなるかしらねぇ、、、ふぅっ。」

母親はそう言うとキッチンへ行き、ガサガサと食事の準備をはじめた。

 

 俺は庭へ出て、ホースの口に親指をあて水道の蛇口をひねった。指先から水しぶきが飛び、母親が丹念に育てている樹木にふりかかる。暑さに少しぐったりしていた樹木の枝々が、蒼々と元気を取り戻しているように感じらた。葉からしたたり落ちる水滴は、日の光にキラキラと輝いている。そして、そこをひとすじの涼しい風が通りすぎる。

 

「ふうっ、、、。」

 

俺は空に向かって大きく深呼吸した。

「ちりん、、、。」

風鈴が涼しげに鳴った。俺の心を風鈴を鳴らした爽やかな風が通りすぎていった。

 

2003.9.21 written by kanon