「1オクターブの天使」番外編1




「ジョーノ?」
 

 最近まで歩くことがなかった屋敷の広大な庭を歩く。
 いくつもの小道があり、季節を楽しむことがきでるように植えられた木々や花々が道なりに観賞できるようになっている。
 樹木も多く、屋敷を取り囲む塀など屋敷からは見えないように茂っている。
 手入れされているせいで、どこを歩いても見苦しいことはなく、あくまで自然に見えるように管理がされていた。
 確かに大まかな指示をしたのは己のはずであるが、それはただの平面上のことであっただけだ。住人がふと散歩した時、癒されるように心を潤わすように庭師が丹誠込めていることがわかる。たとえ、今まで主がそれを目にする機会がなかったとしても、だ。
 
「ジョーノ?どこだ?」
 
 そんな海馬邸の主である海馬瀬人は庭の小道を歩きつつ、目的の人間の名前を呼んでいた。
 だが、呼んでも当然ながら返事はない。
 一体、どこにいるのだろうか。いつもいつも散歩だがなんだか知らないが、最近できた同居人は無闇に姿を消す。庭園を気に入って歩き回る。
 大理石でできた噴水と、屋根のある四阿が大層の気に入りでそこにいることが多いが、それ以外の場所となるとまったくお手上げである。
 いい加減にしろといいたい。
 探す方の身になれといいたい。
 それなのに、こんなに探している自分は滑稽に見えるだろう。
 放っておけばいいのに、探してしまうのだから始末に終えない。
 海馬は知らずため息を付いた。
 どんなに文句を言っても結局こうして庭に探しに出ているのだから、言い訳にしかならないし、諦めも付くというものだ。
 
「ジョーノ……」
 
 やっと見つけた目的の人物、ジョーノは銀杏の下で寝ていた。
 ひらひらと舞い落ちた金色の銀杏の葉の上に寝そべり、いつからそこで寝ているのか身体の上に銀杏の葉が舞い落ちている。
 地面に広がる黄金色の中、佇むジョーノ。
 彼の金色の髪と着ている焦げ茶色のセーターとジーンズから覗く白い肌のコントラストに目を奪われる。
 まるで、生きている人ではないような。映画のワンシーンのような姿。
 起きていれば生命力にあふれているのに、こうして目を閉じていると現実感が薄い。彼の容姿が天使に酷似しているせいだろうか。カードの中の天使と宣伝用のフィルムの中の天使。どちらもジョーノそのものだ。
「……」
 それにしても、薄着だと思う。
 いくらショールを身につけていても、こんな場所で地面に寝ころんでいたら身体が冷えること間違いなしだ。
 何度いっても一向に聞かない困った人間である。
 海馬はそっとジョーノの側に寄って、片足を付き顔を覗き込んだ。これほど近づいても目を開けない。警戒心が欠けているとしか思えない。が、それだけここが、自分の気配が安全だと思っている証拠なら、嬉しいものだと海馬は思う。
「ジョーノ」
 名前を呼んで、指で白い頬に触れる。
「ん……っ?」
 意識が浮上したのか、瞼がひくひくと振るえてゆっくりと開いた。現れた澄んだ琥珀の瞳が海馬を見つめる。真っ直ぐに、反らされることなく見上げる瞳に、海馬は魅入られた。
 こんな風に見る相手はそういない。
 大抵の人間は海馬と視線をあわせることを躊躇する。恐怖の対象として見る。畏怖されることなど当たり前だ。企業家として渡り合える社長や会長などは、挑戦的な眼差しで海馬を見る。唯一弟は己を兄として愛情のこもった瞳で見てくれる。
 だから、こんな媚びることなく好意だけの純粋な瞳で見られることなど予想していなかった。今まで、こんな人間が現れるなんてあり得ないと思っていた。諦めていた。
「海馬?」
 そうして、柔らかい声で己の名前を呼んでもらえる。
 海馬は一瞬なんとも言えない表情を浮かべるが、それを誤魔化すようにジョーノの金色の髪をついと指で引っ張った。
「また、こんなところで寝て。お前には学習能力というものがないのか?」
 ジョーノは海馬の手を借りて半身を起こす。
「だって、銀杏が綺麗でさ。なんていうの、身体をこうして横たえて手を広げてみると上から扇形した銀杏が落ちてくるんだよ。俺に降ってくるの。そういうの良くない?」
 海馬は見せつけるように大きく息を吐いた。
 ジョーノのいいたいことはわかる。それが彼の正しい言い分だ。自然の美しさやそれに触れることを大切にして喜び笑う。それに価値観を見いだす人間なのだ。
 だが、それとこれとは話が違う。
「冷えすぎだ。……なんだ、この冷たい顔は。間違いなく伊藤に怒られるぞ」
 医師の伊藤は、ジョーノが記憶を失ってから頻繁に顔を出す。一日一回顔をあわせジョーノを診断している。穏和そうな風貌をしているが、食えない人物である伊藤は、もしジョーノが風邪を引いたらにっこりと笑ってベッドに押し込めるに違いない。
「怒られるかな」
「当たり前だろ」
 びくりと身体をひきつらせたジョーノに海馬は断言した。
「それに、皆が心配する。それをわからんか」
「……ごめん」
 素直にジョーンは謝った。
「わかればいい。……それに、執事がお茶の用意をして待っているぞ。熱いお茶で身体を暖めばよかろう」
「奥村さんが?」
 がばっとジョーノは顔を上げた。執事である奥村にジョーノは聞こえは悪いが懐いている。過ごした時間は短いが信頼を置いている。
「ああ」
「そっか。じゃあ、急がないとな。今日はどんなお茶だろ?」
 にこにこと笑いながらジョーノは慌てて立ち上がりぱたぱたと身体を払う。ひらひらと銀杏の葉がジョーノから落ちて、どこか目を引かれるものがある。
「紅茶の銘柄は聞いていないが、ケーキはモンブランだそうだ。秋らしく」
「ほんとー?ラッキー」
 上機嫌にジョーノは顔をほころばせた。
「現金なものだな」
「いいんだー。だって、楽しみだし!」
 海馬の揶揄にもジョーノは堪えることなくふんわりと柔らかく笑う。
「海馬は、早く!」
 そう言いながらジョーノは海馬の腕に手を絡ませて引っ張る。すでにお茶のことしか頭にないらしい。きっとモンブランを食べる欲求でいっぱいなのだろう。
 海馬は、急ぎ足でジョーノに従い午後のお茶をする予定であるテラスへ向かった。
 
 
 
 
 
「奥村さん、お待たせ」
 元気な声でジョーノは声をかけた。
「いいえ、外は寒くなかったですか?ジョーノさま」
 奥村は優しげな顔で、ジョーノを気遣う。
「うん。ちょっとね」
「では、どうぞ。今日の紅茶はハロッズのダージリンです」
「ありがとう」
 白地に青い模様が描かれたティカップにサーバーされた琥珀色の液体からは爽やかな香りが立ち上がっている。ジョーノはカップの端に口を付けてそっと飲む。暖かい液体が喉を通り胸まで届くような気がする。
 海馬もジョーノの横で紅茶を黙って飲んでいる。
「美味しい」
「それはようございました。はい、どうぞ。今日のケーキはモンブランです。美味しい栗が手に入ったとかで、モンブラン以外にも夕食には栗ご飯を並べるそうです」
 奥村はケーキの乗った皿をジョーノの前にそっと置く。
「そう?嬉しいな」
 皿に盛られたモンブラン。
 下地の部分がクッキー生地でその上に生クリームと栗が重なり合い、そのまた上にマロンクリームが円を描くように積まれ一番上に栗が乗ってる。
 フォークで切り分けてぱくぱくと食べると口の中に甘いマロンクリームの味が広がる。砂糖の甘さだけでなはく、栗の持っているそのものの味がする
「やっぱり、塩崎さんは最高!このモンブランすっごく美味しい。栗ご飯も楽しみだ」
 ほっぺたが落ちそうだとジョーノは相好を崩して褒め称えた。
「伝えておきます。きっと喜ぶと思いますよ」
 美味しいといってもらえることが、シェフにとって一番の栄誉である。奥村はシェフの気持ちを代弁しながら、紅茶のお代わりをカップに注ぐ。
 海馬はずっと無言だ。ただジョーノと執事のやりとりを見ながら紅茶を飲むばかりで、知らない人間が見たら不機嫌なのかと疑うだろうが、それは勘違いである。見知った者からすれが海馬の機嫌がよいことがわかる。わずかに口の端が釣り上がって、目を細めてジョーノを見守っている。
 この屋敷で今まで見ることがなかった穏やかで優しい空間が広がっている。
 ジョーノが来てからこの屋敷は変わった。住んでいる人間も働いている人間も同じだが、たった一人いるだけでこれほどまでに居心地がよい空間ができるのだ。
 海馬は言いしれぬ感情が心の中にわき上がってきたことを自身で認めない訳にはいかなかった。
 


 結局、その夜は栗ご飯を主にした和食が並べられ海馬もモクバも和やかに食事を取った。
 そして、寝る前に身体の暖まるものをジョーノに差し入れるようにと海馬はひっそりと指示を出した。もちろん、ジョーノは知らない。
 
 
                                                          END


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