光が大気に溶けるとき


 京都の名門・英都大学―――
 その構内を、男は歩いていた。
 迷いのない、いかにも通い馴れたという足取りから見て、ここの卒業生だろうか。
 清涼感のある青い半袖のシャツから伸びたしなやかな腕は女性が羨むだろう象牙色で、黒のスラックスを履いた足はすらりと長く、その長身と相俟って優美なバランスを描いていた。
 髪は烏の濡れ羽色。緩やかにウェーヴのかかった前髪が、歩くたびにふわりと揺れる。
 濃い色のサングラスのため表情は定かではないが、すっきりと筋の通った鼻梁や緩やかなカーヴを描く口許のラインから、整った顔立ちだと想像される。
 彼は図書館へ向かう途中、一度だけ社会学部の研究棟の見える位置で足を止めた。
 口の端に、微かに挑発的な笑みが浮かぶ。
 少しだけずらしたレンズの下からは、シャツと同じ、青い瞳がチラリと覗いた。
 それから彼はサングラスをかけ直すと、何事もなかったかのように、再び英都大学が誇る図書館へと足を向けた。





 火村英生は5分だけ早めに切り上げた第一限の講義から戻ると、小脇に抱えた数冊の本とルーズリーフを雑然とした机の上に無造作に落とし、座り心地が良いとはいえない椅子に全身を凭れかけるようにその身を沈めた。
 おもむろに取り出すのは愛飲のキャメル。口に銜えて火をつけて。大きく一服吸い込むと、少し気分が落ち着いた。
 ―――疲れた。
 彼の心情は、その一言に尽きた。
 ここまで疲れを感じるのは、どれくらい振りだろう。
 火村はしばらくぼんやりと窓の外を眺めていたが、座った椅子ごと窓辺に近寄り、締め切った窓を全開にした。物理法則に従って、ふんだんに湿気を含んだ暑い空気が窓辺に佇む男に押し寄せるように流れ込んだ。
 暑いと感じたのは一瞬だけで、こうして外に向かっていると、冷えた身体に外の風は心地よかった。暖かくて明るい光と身体を包むしっとりとしたこの大気。
 図らずも、それは誰かを想起させ―――
 火村は窓枠に片肘をついた姿勢で息を大きく吐き出した。
 いつもだったら、こんなに疲れを感じる前に夕陽丘のあの部屋に出向き、思う存分疲れを癒し、更に英気を養っていただろう。



(お前なんかに何が分かる!?)



 出版社の急な依頼で、一人で臨まなくてはならなくなったフィールドワーク。その帰りに寄ったあの部屋で。自分自身が疲労の色を濃くしながら、それでもいつものようにさりげない労りを見せたアリス。その空気のような優しさにさえ腹が立って……
 あの場にアリスがいてくれなかったから! アリスさえいてくれたら、あんな想いをしなくてすんだのに!
 そんな自分本位な勝手な想いがこみ上げて。
 見なくても、アリスがどんな顔をしているか、分かった。
 だから、目を合わすことができなくて―――





 気まずくて、自分からは連絡できないままでいた。素直に「ごめん」と謝ればアリスはきっと、許してくれる。
 それとも、今度こそ本当に、アリスは俺に愛想をつかしてしまっただろうか?
 もしそうだったら……
 そんな気弱な考えが、不意に頭の中に渦巻いた。
 ―――どうしたらいいだろう?
 アリスから連絡は来ない。当然だ。俺が悪い。分かってる。馬鹿なのは俺だ。いつだってそうだ。こんな俺はもう嫌か? もう見捨てるか、アリス?
 どんどん思考が暗い方へと流れていく。


 ―――コンコンッ


 それを断ち切る救いともいうべきノックの音に、火村ははっと顔を上げた。
 今朝、講義が終わったら資料を持って来てくれるように頼んでいたのだった。おそらくそれだろう。
「入りますよ〜」
 予想と違わず、180近い火村よりもなお頭半分のっぽの助手が、頭を屈めてくぐってきた。
 彼は持ってきた本を応接セットのテーブルの上にとりあえず下ろすと、窓辺で煙草を銜えてゆっくりと自分を見つめてきた男を目にし、大げさなくらいに 大きく息を吐き出した。
「また窓なんか開けてはる。もったいないて、いつも言うとるやないですか」
 おっとりとした口調ながらもその内容に、火村の思考は現実に向き直らざるを得なかった。
「寒ぃんだよ。いくらなんでも冷やし過ぎだろ。俺はOLじゃないっつうの」
「何言うてはるんですか。昨年みたいな目に遭うのはごめんでしょ?」
 嫌なことを思い出させる。火村は露骨に顔を顰めた。あんなことが起こるとは、普通は思いもしないだろう。
 突風が研究室に吹き込んで来たのだ。あっという間の出来事で、咄嗟に窓を閉めることさえできなかった。おかげで部屋の中は砂だらけ。PCはかろうじて砂の被害は免れたものの、机の上の書類やレポート達が乱れ飛んで散乱し、見るも無惨な様相を呈することになったのだ。
 次いで巻き込まれたのは、たまたま遊びに来ていた推理作家で、最後まで見届ける義務があると学食のA定食で3日間、火村助教授に従事させられたのだった。
「早く締めてくださいよ。今日は早く帰らなあかんのです。どうなったかて、お手伝いはできませんからね」
 そうだ。今ここに、アリスはいない……
 黙り込んでしまった火村を横目に、助手の須賀原は肩を竦めた。
 そこへ再びノックの音が部屋に響いた。
「お邪魔しま〜す!」
 元気いっぱいを絵に描いたように現れたのは2人の女子学生だった。
 露骨に嫌そうな視線を投げる我儘な助教授に、須賀原は仕方ないでしょ、と正当な理由を述べた。
「僕かて一度にそんな持てません。恨むなら指示したご自分を恨んでください」
 そう言ってテーブルの上に置いた、いかにも重そうな本達を目で指し示した。
「これはどないしたらええですか?」
 火村の言葉を待たずに、2人組は模造紙大の丸まった資料を両手に1本ずつ、火村に見せるように差し出してくる。
「適当に、その辺に立て掛けておいてくれ」
 火村は、それこそが適当に答えた。
「先生、近頃機嫌悪いですよね。みんな言うてますよ。なんや怖おてよう近寄れへんて」
 2人組の片割れが窺うように火村に言った。
 火村はフンと鼻を鳴らした。それはそれは。火村にとっては好都合というものだ。
 しかし、資料の整理に手を動かしていた須賀原が、
「どうせ、有栖川さんと喧嘩でもしたんでしょ」
 爆弾を落とした。
 火村の周囲の空気がビシィッと固まった。
「君には関係ない」
 やっぱりそうなんや。須賀原は心の中で独りごちた。
「毎日悶々してはるところをみると、大方、先生が一方的に怒って飛び出したとかいうところやないですか?」
 火村は益々、憮然とした。
 お前、その場で見ていたかのようなこと言うじゃねぇか。である。
「やる気なさそに講義するんも、先生ならええですよ。けど、不機嫌丸出しなんは、火村先生だからこそ、あきません」
 そこへ、指をつつき合っていた2人組がお互いを譲り合いつつ口を挟んだ。
「あの、有栖川さんて誰ですか?」
「ほら、ここのOBで推理作家の―――」
 須賀原の説明に、2人は、やった! と両手を叩き合った。
「やっぱアリスや!」
「噂はほんまやってんな〜っっ」
「いや〜ん、嘘みたい! うれし〜っ」
「アリス〜〜〜っっ」
 ってお前ら…… 火村の両目が剣呑な光を帯びた。
「うちらアリスの大ファンなんですー」
「センセ、絶対絶対、早う仲直りしてくださいねっ」
「それでそれで、うちらにサインもらってきてもらえると嬉しかったりするんですけどぉ」
 厚かましいにもほどがないか? 作中のアリスをお前らがどう呼ぼうと勝手だが―――いや、やっぱり許せねぇ―――俺の前で俺のアリスを呼び捨てで連呼するたぁいい度胸じゃねぇか。あまつさえ、サインだと?
「サイン云々はともかくとして、ほんまに早う仲直りしてくださいね。怖うて近寄れんいうて、レポートやらなんやら、僕が受け取らなならんのですから。それにやっぱり、僕も有栖川さんには遊びに来て欲しいし」
 さすがに助手。といいたいところだが、フォローのつもりが全くフォローになってない。
「うそっ アリス、遊びに来はるんですか!?」
「先生、ズルイ!!」
 益々、この気難しい助教授殿のご機嫌下降に拍車をかける結果になった。しかしさすがにここらで2人組も不穏な空気に気づいたらしい。
「あ、でもウチら、先生のこともファンやから安心してくださいね」
「うんうん。センセほどカッコええ人、そうおらへんよって。自信持ったってくださいね」
 けれど、そんなことで火村の機嫌が上昇するはずは到底なく。
 だから、アリスって呼ぶんじゃねぇよ。なんでお前らにアリスが来るのを教えなけりゃならないんだ? なにがズルイんだよ? お前らに対する自信なんていらねぇよ。早く帰れ。それが一番俺を安心させるよ。火村の機嫌はいよいよをもって下降の一途だ。
「せやけど、さっき図書館におった人、めっちゃカッコよかったよね〜」
「うんうん。窓際に座っとった人やろ?」
「綺麗な黒髪やったなぁ。なんや、天使の輪が見えるようやったわ。風にふわふわ揺れとって。もう、触りとうてウズウズしたわ」
「座ってても背筋がスッと伸びてて、こう、組んだ足も長くてさ。あんなシルエットが綺麗な人もおるんやねぇ。うっとりやわ」
「見た見た? 瞳が青かってんよ〜」
 火村の我慢もいい加減限界に近かった。正直、ここまでもったことが奇跡なくらいだ。
 やたら暗い思考に沈んでいくことから離脱させてくれたことは感謝もしよう。けれど問題が解決したわけでは全然なくて、考えなければいけないことは山ほどあって―――アリスはまだ怒っているだろうかとか、いつ謝りに行けばいいだろうかとか、突然行ってまた機嫌を損ねないだろうかとか、なにより、まだ手遅れになっていないかとか―――
「ああ、あの人ですね。僕も見ましたよ。外歩いとる時やったからサングラスで眼の色までは分かんかったけど。お尻がこうキュッと引き締まっとって、めっちゃセクシーやぁて思うてた」
「誰やろな、あれ。若そうやったけど、学生には見えへんかったよね」
「分からんで。外人さんはおない歳でも年上に見えるもんやしぃ」
「新しい講師かな?」
「留学生かもしれへん」
「センセ、何か聞いてはります?」
 ああ、うるせぇ、喧しい! そんなん知るかよ。さっさと出てけ!!
 そう怒鳴ろうと、一瞬口を開きかけて。
 ―――コンコンッ
 また、ドアをノックする音が聞こえた。
 今度またこういう連中だったら、つべこべ言わせず問答無用で全員まとめて叩き出してやる。火村は決めた。





「うっそ。さっきの図書館の君やん」
「先生、知り合いやったん?」
 ドアを開けて現れた人物に、女子学生は2人で突っつき合って小声ではしゃいだ。
 男はその場の賑やかさに一瞬驚いたようだったが、それよりも現れた彼の姿に驚いている火村の口が物言いたげに開いたのを見て、唇を小さく動かした。
 火村はそれが、言葉を形作っているのだと気がついた。
「約束があるのを忘れていたよ。すまないが、出てもらえないか?」
 興味深気に火村と男を見ている須賀原に、動揺を隠してこう告げた。
 2人組からはすかさず、えーっ というブーイングが上がったが、そんなものは火村のお得意の一睨みで解消だ。
 見送りとばかりに3人を押し出すように部屋から追い立て、ご丁寧に鍵までかけた。
 それから、さて、と表情を引き締め、火村は男を真っ向から見据えた。





「どういうつもりだ、アリス?」
「……眼の色、髪型、髪の色。一番安易な方法やけど、たったこれだけ変えるだけで、ほんまに分からんようになるもんやな。片桐さんも、別人みたいやて驚いてたわ」
 黒髪の男―――アリスは火村の問いかけに他人事のように淡々と語り、無造作に弄んでいた胸ポケットのサングラスをスイとかけた。視線は火村を捕らえたまま、腰に手を当て胸を反らせたその様は、プロのモデルのようだった。
 どうや? と態度で問うたが、何も言わない火村にくすりと小さく笑いを零し、再びサングラスをポケットへしまうと火村の瞳をじっと見つめた。
「気づかんかったら許さへんて思うてた」
 せやけど、君は、ちゃんと一目で分かってくれた。
「嬉しかった」
 アリスの顔に、ふうわり優しい微笑が浮かんだ。
 火村にとって、実に一月振りのアリスの笑顔だった。
「ああ……」
 火村は思わず、吐息のような呟きを洩らした。
 ずっと、この笑顔が見たかった。アリスの声が聞きたかった。
「アリス……」
 ―――悪かった。
 そう言おうとした唇はしかし、アリスの人差し指で封じられた。
 見つめる優しい眼差しが、分かっていると。言わなくてもいいんだよと伝えてくれる。
 アリスのそれは、少しも押しつけがましいところがなくて、くすぐったいくらいに心地良い。
 甘やかされてる自覚はある。だから火村は黙ってアリスの肩口に顔を埋めた。 アリスは火村をそっと抱き締め、その広い背中を小さな子供をあやすように優しく撫でた。
 アリスの口許には溶け込むような微笑が浮かんでいた。
 どんなことがあったって、自分は彼を許すだろう。彼が向こう側を望む以外は。だのに、その彼自身は自分を許そうとはせず、追い詰めてばかりだ。まったく、こんなになるまで。
 アリスの首筋に顔を埋める火村の耳元で、アリスは優しく囁いた。
「ほんまに強情なんやから……」





「なぁ、これどうしたんだ? まさか俺を試すだけでやったわけじゃないんだろう?」
 久方振りのお互いの体温を確かめ合うため移動したソファの上、見馴れぬ髪を指先で弄びながら火村はアリスの耳許で囁いた。
「ちょっとした気まぐれや。と言いたいところやけどな。モデルがな、急病で来られなくなったらしねん。締め切りちゅうのは、ほんまに涙を誘うよな。片桐さんには借りもあるし、力を貸してやってくれて頼まれたら断われへんわ。せやけど俺はモデルやない。作家や。ほんで、ちょお手を加えてみたんやけど。似合わん?」
「いや、めちゃくちゃ似合ってはいるんだが……」
「なんや」
「俺はやっぱり『お前』が好きだよ」
「そう言うてくれると思うた」
 アリスは嬉しそうに火村の胸に頬を当てて擦り寄った。
色は違えど、柔らかな感触はそのままで、顎に当たる毛先のくすぐったさに火村は身じろぎ、体勢を入れ替えてアリスを抱き込んだ。
 途端。


 ピロロ ピロロロ ピロロロロ〜♪


「……」
「……」
 無粋な音の発信源は、壁にかかった白いジャケットのポケットの中だった。
 ほっとくか。火村は咄嗟にそんなことを思ったが、アリスの視線に促され、名残惜しげにすべらかな首筋をさらりと撫でて、忌々しげに己をしつこく主張している存在を手に取った。
「はい、火村です」
『府警の森下です。あの……お忙しかったですか?』
 ある意味お忙しかったのは事実なので、見えないのをいいことに、火村はムッツリ頷いた。声に不機嫌さが滲んでしまうのも仕方がない。
『す、すみません』
 はっきりいって、森下には謝る理由など1つもないのだが、この男が相手の場合、つい謝ってしまうのは、森下に限ったことではないだろう。
『あの、それで、船曳警部から先生ご連絡するようにと仰せつかったのですが……あの、大丈夫でしょうか?』
「もちろんです。こちらから是非にとお願いする立場です」
 火村にしても、それは偽らざる素直な気持ちだ。森下から安堵の気配が伝わった。
『では、府警の方へいらしてください。お待ちしてます。えっと、それから―――』
「有栖川ならここにいますよ。連れて行って構わないんですね?」
『もちろんです!』
 声に、先刻の安堵とはまた別の、隠し切れない喜びを感じる。これだから、現場においてもアリスを傍に置ける反面、火村の心は複雑だ。
 電話を切って振り返ると、愛しの恋人は既に準備を整えていた。
「先生におかれましては、出動要請にございましょうか?」
「ああ、お前もな。ちっ。お楽しみは帰るまでお預けか」
「府警にお泊りにならなきゃな」
「なってたまるか。目の前にお前をぶら下げられてんだ」
「俺は餌かい」
「そう。火村英生用特別仕様のな」
「そりゃ、光栄」
「そうと決まったら、とっとと行くぞ」
「このままでええの?」
 待ったの声に、火村はいつもと違う恋人を上から下まで改めて見つめ、口許に楽しげな笑みを浮かべた。
「そうだな、賭けるか?」
 何を、とは改めて訊くまい。
「船曳さんか、鮫山さんか、森下さんか。誰か一発で俺と分かるか、やな?」
「バレないに、3日家政夫」
「そんなん賭けにならんやん。俺かてバレん自信あるんや」
「現役の刑事相手に?」
「君が俺やと分かったのは、君が火村英生やからやろ?」
 ああ、この笑みに、どうして逆らうことができようか。
 火村は降参、と両手を肩の高さまで上げ、誘っているかの唇に、ついばむように口吻けた。
「それじゃ、ま、とりあえず俺の車で馳せ参じるとしましょうか」
「そうしましょう、そうしましょう」
 楽しそうにアリスが笑う。
 それを眩しそうに見つめながら、火村はアリスの肩を抱いて、研究室を後にした。

                           


                                    END




ヒロさま、ありがとうございました!
嬉しい・・・。
だって、スーパーアリスとハーレクインアリスを同じ場所に置けるだなんて。
夢みたい〜。うっとりです。
しかし、火村甘やかされてる。(笑)
そして、すんごく気になったのはモデルになったアリス。どんなんでしょうか?
黒髪?青い瞳?見たいと思うのは私だけじゃないはず。
ああ、誰か描いて・・・。(他力本願)
だって、自分じゃ描けないからね、こればっかりは無理だし。
ということで、私の我侭を聞いて下さったヒロさんに大感謝です♪



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