「黒猫のワルツ」真夏には逃避行





「……何やってる?」

 跡部が自室に入ると先客がいた。
 座り心地の良いしっかりとしたソファでリョーマがうつ伏せに倒れ込んでいる。リョーマ一人が十分に寝ころべる広さのソファではあるが、ここは跡部の部屋である。
「リョーマ?」
 名前を呼べば、億劫そうに瞼を開けて視線だけで返事をする。その力が抜けだらけた姿といい瞳といいまるで猫のようだ。それが、とても彼らしくて苦笑が漏れる。
 跡部がソファに近づきリョーマを覗き込むと、小さく唸り顔を上げた。
「何?」
 声まで不機嫌そうだ。
「何じゃねえだろ?どうしてここにいるんだ?」
「暑くって。ちょっと身体動かそうとテニスしてたんだけど、あんまりにも暑いから我慢できなくて避難した」
「それなら自分の部屋で好きなだけ寝ればいいだろう?ベッドの方が楽じゃないか?」
 跡部邸は全室空調で一定の温度に保たれている。
 リョーマの部屋も涼しいはずであるし、慣れたベッドの方が身体も休まるだろうに。自分の部屋でわざわざ寝そべっている理由がない。
「Keyの部屋の方が近かったしさ」
「そう変わらないだろ?」
 彼らの部屋は、同じ階の三つ離れた先にある。
 リョーマの理由であって理由でない答えに、相変わらず跡部には理解できない精神構造をしていると思う。
「どうした?珍しく調子悪そうだな」
 跡部はリョーマの髪を掻き上げてやりながら、らしくなく撃沈している訳を聞いた。
 リョーマは暑さに強いという訳ではないが、テニスをしていれば暑さも忘れ没頭することができる。それが、これほど気力も体力もすり減らしている姿を見るなど大層珍しい。 本当に体調が悪いのかもしれない。
「……なんか、暑さに身体が付いていかなくて。日本の夏って梅雨だけじゃなくて湿気があるよね。アメリカと気候の体感が違うせいで、どっかおかしい」
 リョーマは苦しそうに漏らす。
 そうだった。跡部は思い出す。
 日本の夏、ましてこの東京の暑さは尋常ではない。フェーン現象のせいとはいえ、リョーマが今まで暮らしていたアメリカとはかなり違うだろう。
 日本は湿気がある国だから、からりとした気候と比べられば過ごし難いことこの上ない。
「そうだな、アメリカとは違うか。……大丈夫か?」
「だめ、死ぬ」
 リョーマは突っ伏す。
「おまえな……。プールでも入るか?」
「やだ。そんな気分じゃないし」
 跡部の提案にもリョーマは一向に靡かない。跡部邸にはテニスコートもプールもあるが、屋外である。この状態では外で動くこと自体億劫なのだろう。室内プールならホテルの会員であるからすぐにでも入れるのだが、それも気が進まないだろうと簡単に予測が付く。
「……お前、本当に熱いな。身体に熱がこもっているか」
 指先で触れるリョーマの頭皮からは涼しい場所にいるにしてはかなりの熱を感じる。
「別荘でも行くか。おい、リョーマ。軽井沢と北海道とどっちがいい?伊豆、箱根でも那須でもどこでもいいが、なるべく涼しい場所がいいだろ?」
「別荘……。でも、北海道って遠くない?」
 日本の地名に疎いリョーマでも北海道くらいはわかる。
 跡部家には全国の避暑地に豪勢な別荘が数多くある。北は北海道、南は沖縄まで今口には出されなかったが有名どころには必ずあった。
「北海道くらい飛行機であっという間だ。おまえは寝ていてもいいぞ。空港まで車で行って飛行機の座席もシートが一番いいやつで寝かせておいてやる。そこからまた車で移動。そうすれば、次に目覚めた時は北海道だ」
 ふんと自慢げに腕を組んで跡部は言い放つ。
「……」
 リョーマは無言で跡部を見上げた。そして、吐息を一つ。
「でも、彩子さんとかさすがに帰って来るんじゃないの?」
 現在は、お盆である。夏休みはテニス三昧であろうとも、大抵の学生スポーツはお休みだ。そして、滅多に家に帰れない跡部の母親彩子もさすがに休みになるのではないだろうかとリョーマは思う。もしかしたら、自分の母親倫子までもがそれにあわせて現れたらどうしようという心配もあるくらいなのだ。
「馬鹿。そんなもん先に出かけた方の勝ちだ。……それに、やつらなら追いかけて来るに決まってる。それなら休養を取っていた方が有意義ってもんだろ?」
「Key、忙しくないの?」
 リョーマとは違い、跡部にはやらなければならないことが多い。テニスだけではなく生徒会長として、受験生として、跡部家の長男として。
「ばーか。らしくねえな。下手な遠慮はいらねえ。俺もこれから1週間は休暇だ」
 跡部はリョーマの頭をくちゃくちゃとかき回した。それを無抵抗で受け入れてリョーマは笑顔で頷いた。
「じゃあ、Keyのお勧めで。車で行ける場所でもいいし、この際北海道に逃げるのもいいし!」
 母親達から逃げる案に楽しみを見いだしたらしくリョーマは目をすがめて口の端をあげた。悪戯を思いついた猫のようだ。
「じゃあ、やっぱ北海道だな。追って来るにも時間がかかる」
 跡部もにやりと人の悪い笑みを浮かべ、瞬時に頭の中で計画を立てた。
 飛行機を押さえ……たとえ、この時期は空の便が満席であろうとも、跡部には関係がない……管理を任せている人間に今すぐ使えるように連絡をして、ついでに夕食も注文しておこう。どこかに食べに行くのもいいが、今日はリョーマが動きたくないだろうし。あとは荷物を簡単に作って……。必要なものは向こうで買えばいいが最低限のものはいるしな……。
「じゃあ、俺は簡単に手配してくるから、おまえは寝てろ。……せめてベッドで。……仕方ねえな」
 ソファから移動するのが億劫そうなリョーマに跡部が先に折れて、さっさとリョーマを抱き上げると自分のベッドに寝かせた。そして、タオルケットをかけて、頭にぽんと手を乗せて、じゃあなと言い捨て部屋を後にする。
 残されたリョーマは安心して眠りに落ちた。
 
 
 
 そして、リョーマが次にしっかりと目覚めた時には、やはり北海道に着いた後だった。
 
 



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