その日は厄日だったのかもしれない、と後に跡部は近しい者に語った。 ある、晴れた日。 部活にもって来いの気候で、練習にも身が入る良い日だった。 監督の榊は教員らしく職員会議のためコートにはいないが、その分部長である跡部が目を光らせて練習に励んでいた。 柔軟は事故を起こさないために怠ってはならないから部員全員で行う。 レギュラーと準レギュラーとそうでない者とメニューが違うが、まず1年生は基礎や球拾いから始める。2年ともなると、コートに入りメニューをこなす。3年はメニューをやりながら、後輩指導にも当たる。 何分、氷帝テニス部は部員が多い。どうしても見切れない部分が出るのなら、最初から3年生が分担しようと決めた。後輩指導をするということは、他人のフォームを見てどこが悪いかどうしたらいいかと示さなければならないから面倒な反面、自分を見直すチャンスでもある。 徹底された管理がなければ、部員200名は受け入れられないのだ。 そんな中、練習がかなり進みレギュラーがコートに立ち華麗で鋭い技を見せつけていた。氷帝のレギュラーは個性は揃いの上、その技がそれぞれまねできないようなものばかりだ。下級生はその上級なテクニックに憧れ羨望の眼差しを浮かべる。そして、いつか自分もその仲間に入るのだと希望を持ち練習に励む。 今日の練習が終わり、解散と号令がかかると1年生は片づけにかかる。それ以外は水分を取ったりタオルで汗を拭いたりしながら部室に向かう。 レギュラー達は、話をしながら部室のドアを開けそれぞれ自分のロッカーの前に立ち着替えにかかる。 リョーマもタオルで汗を拭きながらロッカーを開けた。すると、自分の鞄から携帯の音が響いた。誰からだろうとリョーマは通話ボタンを押した。 「Hollo?」 『リョーマ君!元気してる?』 朗らかな女性の声が響く。よく知っている声だ。 「彩子さん?」 そう、電話の主は景吾の母親だ。 『そうよー』 「どうしたんですか?」 『リョーマ君の声、聞きたくって。この間はちょっとしか逢えなかったから残念だったし』 彩子は多忙だ。 リョーマが日本で暮らし始めて数日後に慌ただしく帰ってきて、おしゃべりして夕食を共に取り豪快に去っていった。 「仕方ないでしょ?彩子さんは仕事忙しいんだから」 『でもね!だから、今回は時間を作ったの。今すぐに、帰って来て』 語尾にハートマークが付いた台詞は可愛らしいが言っていることは、無茶だった。 「今すぐ?」 『そうよー。もう、迎えをやっているから。正門に車が待っているはずよ。景吾と一緒に帰って来てね』 「……」 『私たちが、待ちくたびれちゃう前にね!』 私たち、と彩子は言った。 一人ではない、ということだ。彼女が私たちという時のもう一人は、大概リョーマの身内のことだった。そう、リョーマの母親だ。 リョーマは顔を上げて跡部を探した。 そこには、驚愕に顔を歪めた珍しい表情があった。 「倫子さん!」 跡部はリョーマの母親の名前を携帯に向かって叫んでいた。 跡部の携帯が鳴ったのは、リョーマが電話を受けた直後だった。まるで謀ったかのようにほぼ同時に携帯の電子音が響いたのだ。 『こんにちは、景吾君』 「……倫子さん?」 そう、跡部に電話してきたのはリョーマの母親越前倫子だった。 『うふふ、そうよ。景吾君も元気そうね』 「はい。……突然、どうなさったんですか?」 『嫌ね、そんなに話を縮めないで。折角景吾君とお話しているのに。私、寂しいわ』 「そうではなくて、……すみません。驚いたんです、これでも」 跡部は母親も苦手だが、リョーマの母親である倫子もかなり苦手だった。母親はくそばばあと呼んで久しいし、剛胆で我が儘な性格が頂けないと常々思っている。倫子はたおやかで人当たりが良い上、弁護士らしくはっきりした部分があり人としては上等の部類だろう。が、如何せん、跡部には付き合い難かった。 にっこりと微笑しながら、押しが強い。決して強引ではないのに人を思惑通りに動かしてしまうのはさすが敏腕弁護士というところか。 何より跡部が対応に困るのは、悪意なく跡部を子供扱いするところだ。 リョーマと兄弟同然に扱い自分の息子だと思っている節があり、心底から心配してれくれている事がわかり、全く頭が上がらない。 『そうなの?景吾君の驚く顔なんて滅多に見られないから、かえって貴重ね。それから、景吾君にはリョーマがお世話になっているから感謝しているのよ。ありがとうね。ちゃんとお礼を言いたくて』 「お礼を言われるほどではありませんよ」 『あら、ありがとう。……それでね、景吾君。これからリョーマを連れて帰って来てくれるかしら?時間が勿体ないから。私たち、早く逢いたいのよ』 「……すぐに?」 『そうよ。彩子が車を回しているはずだから』 「倫子さん!」 『何?』 「うちの母親も一緒ですかっ?」 『もちろんよ』 にっこりと微笑んでいる姿が目に浮かぶようだ。 跡部は何か言いたげなリョーマの目とばっちりとあった。 そうして、全てを悟った。 恐らく、リョーマの電話の相手は己の母親だ。彼女たちは悪戯よろしく互いの実の息子ではなく相手の息子に電話をしたのだ。すぐに跡部邸へと帰って来いと。彼女達はどうやら休暇をもぎ取り、息子と過ごすために手ぐすね引いて待っている。 跡部は、切実に帰りたくない、逢いたくないという思いを噛み締めながら諦めた。ここで拒否をしたら、彼女たちは乗り込んで来るに違いなかった。 そして。 自分たちのその後の姿を思い浮かべ、跡部はため息を付いた。 わかりました、と了解を伝え電話を切る。すると、リョーマが携帯を手に持ちながら駆け寄って来た。すでに電話は切っているようだ。 「Key!彩子さんが帰って来いって!」 「ああ、こっちは倫子さんだった。もう迎えが来ているらしいな。用意しろ、リョーマ。……それから、忍足」 「……なんや?」 興味津々と顔に描いた忍足がすぐ後ろで目を細めている。 それが、なんとなく腹立たしい。 「俺たちはこれから、すぐに帰る。恐らく、明日は登校できないだろう。いつ出てこれるかわからねえから、しっかりと練習やっておけ。さぼるなよ?」 「なんや、それ」 忍足は呆れたように首をひねった。 「うるせえよ。こっちも、迷惑してるんだって」 跡部は吐き捨てる。 「Key、明日、やっぱり駄目なのかな?いつまでだろう……」 リョーマは跡部を縋るように見上げる。 「明日は金曜日だろ。そしたら土日で休みだ。あいつらがそれを見逃すはずがねえ。っていうか、休日にあわせるだけましだな。買い物や遊園地程度で済めばいいが、最悪旅行に連れていかれるぞ?いいか、あいつら二人揃っていて、息子も二人いるんだぞ?」 「……」 リョーマはがくり、と項垂れた。 彼にしては珍しい。 「その間、テニスできないんだよね」 「……テニスコートがあるところにしてもらえ。ばばあに、可愛く強請れ。自分の身が可愛ければ、最前を尽くせ」 「……わかった」 リョーマは疲れたように片手を上げて、頷いた。 その光景を眺めていた芥川が首を傾げて、疑問を口にする。 「ねえ、どういうこと?」 「悪魔が、最強で最低で最悪な悪魔が帰って来たんだよ。一人でも厄介だっていうのに、二人揃って」 「「「「……」」」」 それって何だ、と思う人間は多かったが、誰もそれ以上突っ込めなかった。 跡部とリョーマの様子が、聞くのを戸惑わせたのだ。 そうして、数日続く厄日が始まった。 END |