コンコン。 竜也は桜子の部屋を二度ノックする。 家族の中にも礼儀あり。ノックするのは当然だ。 なにせ、女性ばかりの水野家だから女性の部屋に不用意に入ることは憚られることを竜也は身をもって知っていた。 「は〜い」 桜子の声がする。 これは入ってもいいという返事だ。 そうでない時は「ちょっと待って」と言われる。 かちゃりとドアを開けると桜子はベットに腰掛け本を読んでいた。 「今、いい?」 「いいわよ」 桜子の了解をもらったのでベットの側に竜也用のクッションを持ってきて座る。 「これ。買ったから、聞くかと思って」 竜也は持ってきたCDを差し出した。 最近の新譜。なかなか歌唱力があって竜也も桜子も好きな女性ボーカルのアルバムだ。 「ありがとう。聞く聞く!」 桜子は竜也からCDを受け取りジャケットを眺める。 「テレビでいいって評判だもんね。たっちゃん、良かった?」 「良かったよ。期待を裏切らない作りだったし、最後の曲が一番いいかな?」 「そっか、早速聞いてみるね」 桜子はにっこり微笑み、思い出したように机の脇に置いてある本を2冊取る。 「これ、結構面白かったよ」 そして竜也に渡した。 2冊の本は、日本のミステリと今までも読んだことのある男性のエッセイだ。 「ミステリはね、文章とか雰囲気がすんごく叙情的なんだよ。エッセイはまあまあ」 「へえ。読んでみる。ありがとう」 「うん、たっちゃんも気に入ると思う」 竜也の楽しそうな顔を見て桜子も嬉しくなる。 「たっちゃん、アッサムとセイロンとどっちがいい?」 そう聞きながら桜子はベットから立ち上がるとドアに向かい顔だけ振り向いて竜也に聞いてきた。 「アッサム!」 「ミルク多めね?」 桜子は笑いながら聞き返しドアを閉めた。 毎夜竜也は姉の部屋に来る。 それはほんの少しだけだったり、今日みたいに紅茶を入れてくれるくらいのゆっくりとした時間だったりとまちまちだった。 基本的に姉の影響を受けまくっている竜也である。 ミステリ好きだって、桜子が本が大好きで借りたのがきっかけだ。 紅茶だって、そう。 竜也は桜子が入れる紅茶が一番好きだ。とても美味しいと思うし竜也にとってこれ以上の物はないと思えた。なぜなら、竜也のために入れられた紅茶だからだ。竜也のミルクティ好きに合わせて入れてくれる濃いめで旨みのある紅茶‥‥。 こうして桜子と一緒に他愛もない話をする時間をサッカーをしていることと同じくらい竜也は愛していた。 「お待たせ」 桜子がお盆片手に戻ってくる。 小さな木目のテーブルにポットとマグカップを置いて目の前で注いでくれる。ミルクピッチャーにたっぷりの牛乳。 竜也は好きなだけ牛乳をそそぎ込みこくりと飲む。 「美味しい」 「良かった」 竜也の反応に気を良くして桜子も自分のカップを手にする。 飲んでみると当然ながら美味しかった。 「うん。上出来」 桜子は自分でも納得する。 「あのね、たっちゃん。お願いがあるんだけど‥‥」 「何?」 「明日、選抜の練習があるでしょう。見学に行ってもいい?」 「はい‥‥?」 「お昼前くらいに行くからお弁当も作れるし」 「本気?」 「本気だよ」 「きっと迷うよ、姉さんのことだから」 「真理子さんに地図書いてもらったもん、だから大丈夫!」 行ってもいいかと聞いておきながら、すでに行く気でいる。 竜也は来て欲しくないと切実に思っていた。 今までだって、この要求を散々交わしてきたのに‥‥。煮え切らない竜也にとうとう実力行使に出たらしい。 「駄目なの?たっちゃん‥‥」 桜子は竜也を真っ直ぐに見つめた。 琥珀の瞳はお願いと竜也を責める。 桜子のこの表情に竜也はとてもとても弱かった。 竜也はあきらめたように、ため息一つ落とす。 「もし、迷ったら絶対電話すること」 「うん」 「肌寒くなって来たから、暖かくしてくること」 「はい」 「それから‥‥、練習場だからミニスカートなんて履いてこないこと」 「は〜い」 竜也の了承に、にっこり良い返事をする桜子だった。 「それから、お弁当にはデザートも入れて」 竜也は仕方なさそうに苦笑した。 「うん、とびきりのチーズケーキ焼いたげる。だから、たっちゃん大好きよ」 そう言うと桜子は竜也の首に腕を回し感激を表現するように抱きついた。 「姉さん!」 竜也は桜子を受け止めながら、だから連れて行きたくないのに‥‥と内心嘆いていた。 青空は天まで届く。 たなびく雲はどこまでも続く。 お天気は良好。 まさに、ピクニック日よりである。 しかしここは東京選抜の練習場。 男子中学生達は練習に勤しんでいた‥‥。 竜也は賢明に集中しているのだが、気を抜くと姉のことが気になった。 本気なんだろうな‥‥。 はあ‥‥。 竜也はちょうど休憩に入った時に練習場を見回した。 すると、桜子が楽しそうに見ていた。 視線が合うと、にっこりと微笑み返された。 「たっちゃん!」 手をふって竜也を呼ぶ。 今日の桜子は長い髪をスカーフで一つに縛り、動きやすい服装だ。コットンシャツにジーンズ、スニーカー。竜也に言われたように薄い卵色のパーカーを羽織っていた。 その姿に、竜也より選抜仲間の方が反応が早かった。 「誰?あの美人‥‥?」 「すんげ〜」 皆桜子を見て騒いでいる。 竜也はやっぱりと思いながら皆を無視して桜子に近寄った。 「姉さん」 「たっちゃん。すんごく格好良かったよ、試合今度見に行くね〜」 来なくていい、と竜也は思うが言えなかった。 「お弁当、食べよ!」 「ああ」 とにかく、ここから離れたい。 竜也は桜子の背中を押してこの場から早く去ろうとするが、そうは問屋が卸さなかった。 「水野!この人誰?」 「ひょっとして、水野のお姉さん?」 「お姉さん、美人〜!!!」 わらわらと周りに寄ってきたメンバー達は口々に言う。 「姉の桜子です。いつもたっちゃんがお世話になってます」 桜子は深々とお辞儀をして花が咲き誇るほどの微笑みを見せる。 「うわ〜」 「水野の姉ちゃんってやっぱ美人だわ。本当に監督の血引いてるのか?」 「姉さんはあんな奴のどこにも似てないよ」 竜也は嫌そうに言う。 「たっちゃんの頑固な所は父さんそっくりね」 「どこが?」 「そこが」 桜子が笑いながら竜也の眉間のしわを指差す。 「‥‥」 竜也は益々眉間にしわを寄せた。 「お弁当食べよう。たくさん作ってきたからみんなも食べる?」 しかし竜也の不機嫌などものともせず、桜子は集まっていたメンバーに笑いかける。 「頂きます!!!」 誰の声もが、はもった。 結局広い芝生の上で広げたお弁当を皆で摘むことになった。 竜也と桜子が座っている場所を中心としてメンバーが囲むように座り楽しい昼食タイムである。 「お姉さんはいくつなんですか?」 物怖じしない藤代は、にこにこしながらおにぎりを食べながら聞いた。 「17よ」 「いいな‥‥。俺も美人のお姉さん欲しかったです〜」 桜子は藤代を楽しそうに見つめた。 その藤代の仕草や言動が大型犬を思わせる。愛犬ホームズのようだ。 だから、 「お手」 桜子は藤代に向かって手の平を差し出す。 「ワン」 条件反射のようにその手の平に手を置き藤代は「お手」をする。 桜子はその反応に満足そうな顔で藤代の頭をいい子と撫でた。 「姉さん‥‥」 そのあまりの対応に、責めるような口調になる竜也だった。 「だって、ホームズにそっくりなんですもの」 天然だ‥‥。 確かに藤代はそういうところがあるけれど、俺はそんなことしない。 竜也は桜子の「天然素材」っぷりを嘆く。 竜也の内心など知らないで、可愛いわね〜、と言いながら藤代と「お代わり」「お座り」をして遊びながら友好を深める桜子を見て竜也は眩暈を覚えた。 姉さん‥‥。 うな垂れたくなる竜也は気力を振り絞って、食事を続ける。そんな竜也に一通り藤代と遊び満足すると桜子は向き直った。 「たっちゃん、はい」 竜也のリクエストであるデザートにと作ってきたチーズケーキを差し出した。一口の大きさに切ったケーキをフォークに刺して竜也の口の前まで持ってくる。 俗に言う、「あ〜ん」という奴である。 「‥‥」 「‥‥」 「‥‥」 竜也も凍ったが、周りも凍った。 桜子はにっこり疑いもなく微笑んでいる。 どうしたらいいのだろう?竜也は焦った。 ここで拒否すると、桜子がすねる。しかし食べると絶対後々まで選抜メンバーに言われるに違いない‥‥。 究極の選択だ。 しかし、竜也は目の前のケーキを食べることを選んだ。 選抜メンバーは毎回変わる。 しかし、姉は一生代えられない‥‥。 ぱくりと口に入れると租借する。 口中でチーズが柔らかく溶けていく。文句なく美味しかった。 「美味しい」 竜也は素直に賛辞する。 「本当?良かった」 桜子も自分で食べてみる。そして幸せそうに微笑んだ。 その、甘い二人をどこか羨ましそうに見つめる選抜メンバーだった。 END |