天上の花




 悪戯なそよ風が結えた長い黒髪を揺らしていくままにして、目を瞑り柔らかな椅子に身を任せている。その姿からは心地よい眠りに入っているだろうと思われたが、ふっと伏せた瞼が開いた。
「………そろそろか?」
 小さな呟きは誰も聞くことがない。
 目の前に広がるのは睡蓮の庭。
 大理石に満たされた広くて深い水の庭に、緑濃い葉と薄い紅色から桜色に輝く睡蓮が咲いている。
 咲く瞬間、花びらの音がしそうな程鮮やかに花開く。
 この見事な庭の、館の主である神は観世音菩薩である。
 その主は椅子から身を起こし、肘掛けに肘を付き顎を乗せると真っ直ぐに庭を見た。
「………前に咲いたのは、いつだった?」
 思案する瞳で仰ぎ見る天は、どこまでも蒼かった。





 神々が住む、天上界。
 この数多な神が住まう天上界には下界とは違う理がある。
 その理は、天が定めたものなのか、誰も「なぜ」なのか、知ることはない。

 下界に住まう寿命のある人間からすれば、天上界に住む者は全て神に等しい。が、天上界においても、『神』を指す者は選ばれた者だけだった。
 天上を支える力を持つ天帝、最上級神、上級神のみを『神』と呼ぶ。
 『神』と存在を認める。
 だからであるのか、『神』が生まれると理が起こる。
 その誕生は存在の力のせいか、天上界を緩やかに動かす。天が歓喜するのか祝福するのか、一昼夜雨が降り続き、やがて晴れ上がると白い雲が細くたなびく。雨を『恵祝雨』、雲を『神白雲』と呼ぶ。
 その晴れ間から届く『輝光』の先に生まれる花がある。
 『神』がこの世界に誕生した時に、生まれる花。
 それを、『天上花』という。

 『天上花』はその瞬間、誕生を祝福して咲き乱れて、やがて枯れる。
 次に咲く時はその『神』が世界を支える力を有した時。
 『天上花』はその『神』の存在によって咲き枯れる運命にある。
 咲く時は一瞬で、何度も繰り返し訪れるが、何百年も何千年もその姿を現さない場合もあり、『神』本人にもその時は予測できない。

 その理は正しく『天』のもの。

 ただ、絶対に定められていることがある。
 それは『神』がこの世界から消えた時、失われる。
 まるで光を失ったかのように、消え失せて二度と咲かない。
 唯一その『神』のためにある花。
 『神』を飾る花。

 天上の花。





「………金蝉?」
 いつもの四阿。
 緑が覆い茂る、花々が咲き乱れる小道を抜けた先にある赤い六角錐の屋根の四阿。
 午後の穏やかな光がその屋根に反射して、その四阿自体が光り輝いているような錯覚を覚える程美しい情景の中、麗しい神が微睡んでいた。
 目を閉じて緩やかな呼吸を繰り返す、白い衣装に身を包んだ身体。
 金の長い髪を一カ所だけ無造作に留めて、後は流れるままに波のように広がらせている。
 磨かれた石の机の上には茶器と蓋椀。
 どうやら、お茶を飲みながらうたた寝してしまったらしい。
 小さく声をかけても目覚めない。
 天蓬はそんな金蝉に目を細めながら、彼の横に腰を下ろした。そして金色の絹糸のような髪を一房掴み指に絡める。
 穏やかに過ぎて行く時間が愛おしい。

 (金蝉………)

 天蓬は無邪気に眠る金蝉を見守る。
 この観世音邸の奧宮に出入りできる者は限られているから、不審者が入り込むことはないのだけれど………それにしても、警戒心の欠片もないその寝顔に天蓬は小さくため息を付いた。
 それは天蓬が近付いて隣にいても全く気付かない程気を許しているという証拠であるのだが………。
 彼の横にいる、それだけで満たされてくる思いは、純粋さと庇護欲と使命感と自己満足と彼の横を許される僅かの優越感と誰にも見せたくないという独占欲が入り交じった複雑なものだった。
 そんな思いを振り切るように、天蓬は長い髪を優しく梳いた。その感触に意識が浮上したのか金蝉が瞼をふるわせて身じろいだ。
「天蓬………?」
 ゆっくりと開かれる瞳は紫水晶の如く宝石。
 その宝石が天蓬を認めて、ふわりと微笑むのに言いしれぬ幸福を味わう。
「お目覚めですか?金蝉」
「ああ」
「随分、気持良さそうに寝ていましたよ?」
「………そうだな。いい夢を見たような気がする」
「夢ですか?………貴方が見る夢なら、意味がありそうですね?」
「どうだかな。………光があった。目映い光が………。それ以外は覚えていないな」
 金蝉は夢の断片を引きだそうと、瞳を閉じて片手をこめかみに当てつつ思考にふける。
「………光ですか?何かあるのかもしれませんね」
 上級神の見る夢である。それも一切汚れのない無垢な魂を持つ金蝉童子が紡いだ夢だ。
「わからない。何かあればわかるだろ」
 自分の見た夢に案外無頓着な金蝉は軽く言うだけだ。それに、しょうがないな、と天蓬は苦笑を漏らす。
 そして、事伝を思い出した。
「そうそう、観世音が呼んでいましたよ?」
 天蓬が観世音邸に来ると女官が金蝉の場所を教えると同時に、観世音が天蓬が来たら部屋に赴くようにと言われていると、伝えられた。
 どうしました?と部屋を訪れると、金蝉を連れて後で部屋まで来いとのことだった。
「へえ、珍しい。いつもだったら、勝手に茶飲みに来るくせに………」
「………そうですね。僕に伝言を頼むのも珍しい」
「何かあるのか?」
「さあ?」
「ばばあがやることに、ろくな事がない。また、からかうためか?」
 金蝉は嫌そうに眉を寄せた。
「貴方をからかうのは、観世音の生き甲斐みたいなものですからね」
「そんなもの生き甲斐にして欲しくなんてないな。長く生きてると暇を持て余すのが、いけない。もっと別の楽しみを見つけて欲しいぞ」
「………そう言わずに。あれでも、貴方を心配しているのですよ?」
「そうか?時々、真面目に遊んでるだけだと思うぞ?」
 確かにそんな瞬間を見るのだけれど、肯定すると余計に金蝉が拗ねるので天蓬はやめておいた。
「参りましょうか、金蝉」
 天蓬は当然の如く金蝉に手を差し出した。
 その天蓬の手の平を一瞬見つめて金蝉は、すぐに素直に自分の手を乗せた。天蓬の手を借りて立ち上がりありがとう、と小さく囁くと、そのまま二人で四阿を後にした。



「よう、来たか………」
「………何だよ」
「お連れしましたよ、観世音」
 観世音は椅子に座り、二人を出迎えた。執務机の上は書類など何もなくお茶だけが乗っていた。
「休憩中でしたか?」
「ああ………、今日は仕事はなしだ」
「そんな事やってると、また書類が溜まるぞ?」
 金蝉が突っ込む。溜まった書類に困るのはいつも副官の二郎神であり、観世音様、お仕事をなさって下さいと口を酸っぱくして言い募る姿が目に浮かぶ。
「今日ばかりは、誰も文句なんていいやしないさ」
 観世音は自信ありげに、きっぱりと言い切った。
「………なんでだ?」
「花が咲くから………俺の」
「花?」
 金蝉が聞き返す。
「ああ………そうだ」
 観世音はそう言うと、部屋から見える水の庭を見つめて歩いていった。遮るもののない大理石の庭に出ると濡れるのも構わず、ばしゃりと水音を立ててその中に入る。
「………ばばあ?」
「………観世音?」
 そのいつにない真剣な表情と、突飛な行動に二人は驚いた。
 観世音は自分の腰まで浸かる水の中を進み、咲き誇る睡蓮の中から一本折った。
 その睡蓮は観世音が手折るまで蕾であったのだが、手折った瞬間内から光を放ち、花開いた。
「………何?」
 金蝉は瞳を見開いてその光景を見つめた。
 薄紅色の睡蓮は、金色の光をまき散らし空気さえも染め上げた。
「………『天上花』?」
 天蓬は驚愕の表情で呟いた。
「天上花?」
 金蝉は天蓬を見上げて不思議そうに首を傾げた。
「ええ………多分、あれは観世音菩薩の『天上花』ですよ。私も初めて見ましたけれどね………?」
 滅多に見られるものではないのですよ、と天蓬は言う。
「………『神』が生まれると理が起こる。その誕生は存在の力のせいか、天上界を緩やかに動かす。天が歓喜するのか祝福するのか、一昼夜雨が降り続きやがて晴れ上がると白い雲が細くたなびく。その晴れ間から届く輝光の先に生まれる花がある………。『神』がこの世界に誕生した時に、生まれる花。それを、『天上花』という………」
 天が残した理の言葉そのままに、天蓬は語る。
「『天上花』は、『神』の誕生を祝福して咲き乱れて、やがて枯れる。『天上花』はその『神』の存在によって咲き枯れる運命にある。唯一その『神』のためにある花。『神』を飾る花。天上の花。その理は正しく『天』のもの………」
「………『天上花』か」
 金蝉は天蓬の言葉を聞きながら、観世音を取り巻く光の花を見つめた。
 見たこともない幻想的な光景………。
 はじめてみる天上の理の花。

(………綺麗だ………とても)

 そう思う感情以外、何もない。心に届くのは目の前の光景だけだ。
 二人が話している間にも観世音は輝く花を手に持って水の中を歩き、上に登ってきた。薄い布の衣装からぽとぽと落ちる水滴など気にせず、花を見つめて微笑む姿は普段の観世音からは想像もできないほど穏やかな笑顔だった。
「俺の、花だ」
 視線を上げて、そう言いながら観世音は金蝉に微笑んだ。
「綺麗だな………」
 素直に美しい花を賛美する金蝉に、ああと観世音は頷いた。
「金蝉、お前の『花』も、そう遠くない未来に咲くぞ?」
「………俺の、『花』?」
「ああ。お前がその存在で天を支える力を有した時、それを祝福するかのように咲き誇るだろう。お前が生まれた時、俺はそれを見た………。今度は自分で見られるだろう」
 生まれたばかりの金蝉に、己の『天上花』の記憶はない。
 どれほど美しくても、彼を祝福しても。
「今度は天蓬と一緒に見ればいい………。なあ、天蓬?」
 金蝉の隣に立つ天蓬に観世音は笑う。その瞳にからかう色は見られなかった。
「ええ、そうですね。是非」
 だから天蓬は真摯な瞳で頷いた。
 
 『天上花』。それはその『神』だけのために咲く花である。
 神自身にとって特別なもの。
 生まれる瞬間と、失う瞬間を同じにするものなど他には何もない。例え愛する者でさえ生まれ出る時は選べない。失う瞬間さえ、簡単なものではないのだ。
 永遠の時を生きるという『神』だけれど、その生涯を共にするのは『天上花』しかなかった。
 だから観世音がこのような瞳をする意味が存在した。
 金蝉の『天上花』。
 それは一体どんな花であるのか。
 天蓬は見てみたいと切実に思う。

(きっと、金蝉童子の存在そのものを体現した花なのだろう………)

「………天蓬、一緒に見ような?」
 金蝉は小さく微笑みながら、天蓬に小首を傾げた。その拍子に金の長い髪が揺れる。
 その美しい様に見惚れながら、天蓬はええ、と返事をした。天蓬の望みは金蝉と同じである。
 その花を、金蝉と共に見たい。
「きっと、とても綺麗ですよ」
「………だと、いいけど」
 金蝉がはにかむ。己の花に想像を巡らして………。
 夢に描く『天上花』はどんな色彩でどんな姿形をしているのか?観世音のように輝き辺りを染め上げるのか。
 
 それから、お茶を飲みながら会話する二人の楽しみが増え、その会話を聞いている観世音だけが真実を知るためほくそ笑む………そんな日常がかいま見えることとなる。



 そう、遠くない未来。
 その願いは叶う。
 
 
 金蝉の『天上花』が、美しく花開き咲き乱れて枯れる。
 『天上花』の理を何度か繰り替えした後。
 その理の通り、二度と咲くことはなく失われる………。
 それは、何百年も経った後のことである。
 





                                  END



 再録です。
 知ってる方は少ないと思いますが、福徳さまの夏のコピー本に寄稿したものです。
 まあ、年も越したので再録しました。本当は続編も書きたいし・・・。



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