祝杯

捲簾が天蓬の部屋に顔を出すと、誰もいなかった。
いつも通りの本に埋もれた部屋。
いつ掃除したのかわからない、言っては何だが汚い部屋だ。
机の上には先日手に入れて大変喜んでいた下界の歴史書全集が積み上げられていた。
その横にはこんもりと山になった吸い殻。
さっきまで居ましたとそれらが物語っていた。
全集はいくら天蓬とて全て読むには早すぎた。
その全集を放っておいて部屋にいないとなると、行き先は一つだけだった。
どうせ、金蝉のところに行っているのだろう、と捲簾は思う。
つい最近やっと見ることのできた天蓬の想い人。
観世音菩薩の甥で上級神たる金蝉童子。
噂にしか聞いていなかったが、天帝の誕生祭で初めて実物を見た。
ここ天界でも珍しい金色の髪に紫の瞳。
大輪の花のような美しい顔。
日に焼けたことなどない、白い肌。
そこにいるだけで、清浄な空気が立ちこめ、圧倒される存在感。
一目で上級神であると、わかる。
何より、天蓬の見つめる瞳でああ彼なのだとわかった。



捲簾と天蓬のつきあいも長くなるが、天蓬が女と会っている所を捲簾は見たことがなかった。
捲簾が女の所に転がりこんでも、微笑ましく見ているだけで羨ましいなどと言う感情は皆無に見えた。
最初は興味がないのかと思った。
本を読むことが大好きで、1日のほとんどを読書で過ごす。
天界、下界の歴史書から哲学書、民間の読み物、ありとあらゆるものを読み尽くし、その頭の中は計り知れない。
博識などという一言では表せないほどだ。
けれど、時折ふっと誰かを想う顔をする。
どこかにいる誰かに想いを馳せる顔で、幸せそうに微笑む。
だから、捲簾にはいないが、とても大切な存在がいるのだとわかった。
捲簾は特定の恋人を作らない。
恋も女も楽しいが酒が一番好きなのだ。
一人で景色でも堪能しながら飲む酒が格別旨い。
相手がいてもいいが、気の置けない奴であるに越したことはない。
女と酒は飲むものではない・・・。
それが捲簾の信条である。
大概色恋いには精通している捲簾も、天蓬の相手が恋人なのか、片思いなのかまでは押し計ることはできなかった。



それが時々ふらりといなくなる。
「どこにしけ込んでるんだよ?」
と聞くと、
「貴方じゃないんですから」
と笑って誤魔化した。
それ以後聞いていなかった。
今日のようにいないと思うと夜まで帰ってこない。



実は天蓬が時間を作っては観世音邸にある金蝉の執務室に顔を出している事実を知った捲簾は、「男って純情だね」と思った。
実際彼らのつきあいは自分より遙かに長い。
最近になってやっと状況が耳に入ってきたのだ。
それまでは、捲簾の耳には入ってこなかった。
普通だったら当の昔に知っていただろうに!!
なぜなのか?
それは、金蝉が今よりもっと小さかった頃に何度か軍の庁舎に姿を表していたらしい。当然注目の的になり人目を引き、うわさが流れたらしい。
ところが、天蓬から箝口令が布かれたのだ。
親衛隊なるものが密やかに存在したらしいが、当時潰されたらしい。
その時の天蓬はそれはそれは恐ろしかったという。
笑顔が恐怖だったそうだ。
それが語りぐさになっているというから、すごい。
しかし、それは今でも変わらない・・・。
あの笑顔がくせ者なのだ。
おかげで、後に大将としてここに赴任した捲簾の耳には入らなかったのだ。
天帝の誕生祭で事実を知った時それほど驚かなかった。
あいつ面食いだったんだな、というのが素直な感想だ。
それも極上。
確かにあれを昔から見ていれば大概の顔はかぼちゃに見えるだろう。
それに気付いているかどうかは怪しいが。
多分金蝉以外見えてないから、その他はどうでもいいのだろう。
天蓬とはそういう男だ。



捲簾は執務机に腰掛けると、腰に下げた酒瓶を掴み、あおった。
口に広がる甘さを含んだ旨い酒。
「神の水」とはよくいったものだ。
窓から心地いい風が吹き込む。
捲簾は窓枠に切り取られた景色を見た。
遠くに続く、空。
やがて来る夕闇。
本当なら天蓬を誘って酒でも飲むつもりだったのだが、今日は一人で堪能するとしよう。
「乾杯」
そう独り言を呟く。
我が親友殿に捧げよう。


                               END





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