……暑い。 ……とっても暑い。 ……死ぬほど暑い……。 どこからか、蝉の泣き声が聞こえる。 車が車道を通っていく際に立てる騒音と鼻につく排気ガス、車体が太陽に反射されまぶしい光が眼を掠める……不愉快だ。 黄色い太陽が、サンサンと降り注いでこの世の全てを焼き尽くす、ような気がする。(かなりオーバーである自覚が彼にはある) 三蔵は手を目元にかざしながら、もう少し歩けばたどり着く図書館を眺め、ため息を付いた。 じんわりと汗がシャツにまとわり付く。 (気持ち悪いなあ……) 夏は嫌い。 暑いのが、大嫌い。 あまり文句を言わない三蔵がぶつぶつ言う季節が夏だった。 冬なら多少寒かろうが耐えられる。が、この脳みそが沸騰しそうな熱さには耐えられない。体の全てが溶けそうだ……。 三蔵は気力を振り絞って緩やかな坂道になっている上にある3階建ての図書館へ歩いていった。 「おはようございます、三蔵」 「……おはよう、八戒」 現時刻、10時30分。「おはよう」と言っていい境目だろうか。 「今日も暑いですね」 「……そうだな。熱いな……」 「大丈夫ですか?三蔵。顔色が優れませんね?」 「……溶けそうだ」 うんざりした顔で気だるそうに三蔵は訴える。 三蔵が暑さに弱いことは、7月に入ってすぐにわかった。8月の現在は最高潮といってもいいだろう程、弱っている。八戒はそんな三蔵に内心苦笑する。 「……溶けますか?それはいけませんね、ひとまず、中に入りましょう」 「ああ」 八戒の提案に三蔵は頷く。 早く図書館の中に入って涼みたい。 学校は夏休みに入り、どこの部活にも所属していない二人は一緒に勉強をしていた。夏だからどこかに遊びに行く、という考えは三蔵にはなかったし、八戒にしても遊ばなければならないとは思わなかった。 三蔵と二人でいるのなら、何であれ、かなり有意義な時間である。 それに勉強は億劫ではなく、好きな本に囲まれるのだから、図書館は絶好の場所だった。いつも利用している学校の図書館は登校日しか開かないため、近くの市立図書館に行くのが二人の日課になっていた。 その私立図書館では、見目麗しい二人の高校生のことがすぐに話題になって注目されていたのだが、三蔵は気付くことはなかったし、八戒はしっかりきっぱり無視していた。声などおいそれと掛けられないのだが、それでも毎日来る彼らを一目でも見ようと、図書館に通う若者が増えたことは、ある意味良い影響といえなくもなかった。が、席を取り合う熾烈な戦いが起こり、司書を務める人間が困り果てたとは、さすがの八戒も知らなかった。 「……ええっ?」 「……本当ですか?」 驚愕とはこのことである。 三蔵は固まった。それはもう、コチコチに……。 「ごめんなさいね、冷房が壊れてしまって……。急いで修理をお願いしているんだけど、時間がかかるみたいなの。こんなに暑いからどこもエアコンを買ったり、買い換えたりして電気屋さんてんてこ舞いらしくって……」 司書を務めるすでに馴染みになった女性が、申し訳なさそうに首を傾げる。 「それで、いつ電気屋さんは?」 「……早くて、今日の夕方なの」 いいにくそうに彼女は呟く。 きっと今日すでに何度も同じ台詞を繰り返しているのだろう。彼女が悪い訳でもないのに、気の毒になる。 「それは、しょうがないですね。……三蔵、いったん出ましょうか?」 「ああ」 三蔵は小さく頷く。 「じゃあ、すみませんでした」 「また、こりずに来てね」 彼女は小さく手をふった。八戒も三蔵もぺこりと頭を下げて、図書館を後にした。 「どうしましょうか?ファーストフードでも行きます?あそこも冷房効いてますし、飲み物で結構な時間過ごせますよ?……まあ学生でいっぱいでしょうけど」 「……だろうな」 この夏休みはどこもいっぱいであった。ファーストフードも多分同じように勉強することを目的とした学生がたくさん押しかけているだろう。冷房がばっちり効いていて、貧乏な学生が長時間過ごせる場所は限られる。 そして、忘れてならないのが、子供である。 夏休みは子供もいっぱい街に溢れているのだ。ファーストフードなど騒音状態であることが想像された。 「……三蔵?」 黙ってしまった三蔵を八戒は覗き込むように伺った。 「……煩いのは嫌いだし、暑いのも大嫌いだ」 「そうですね」 八戒はうんうんと頷く。三蔵の「暑いのは、大嫌い」という台詞は聞き飽きるほど耳に馴染んでいる。 「……家に来い」 三蔵は一言のたまった。 「……は?」 が、八戒は予想外の提案にぽかんと口を開けてしまった。 「家で涼んで勉強しよう」 「……三蔵のお家ですか?」 「嫌か?」 「そんなことありませんが、突然押しかけていいんですか?」 「……まあ、構わないだろう。……それに父さんがお前連れて来いって言ってたし」 「僕ですか?」 三蔵の父親が会いたがっている、という事実が八戒を驚かせる。 「そうだ。逢いたがっていたぞ?」 「……」 「どうする?」 「伺いますよ」 八戒ははっきりと返した。 「じゃあ、決まりだな。行こう」 三蔵はこんな場所に1秒でも絶えられないと、八戒を従えて家に帰ることにした……。 暑い暑い太陽の日差しとこもった熱が容赦なく身体に襲い掛かる。 汗が一筋流れ落ちて、鬱陶しげに金色の髪を掻き揚げる姿と、あらわになる白い額も細い指も八戒の視線を奪う。 そんな八戒の心の内など気付きもしないで、三蔵は前を向いて歩いていた。 (暑い……早く家に着かないかあ……) 彼の心の中は暑さでいっぱいだった。 「もう、すぐだから」 いくらか歩いた後、三蔵が八戒を振り返る。 「もうすぐ?どこらへんです?」 「この塀が途切れた先だ」 「……この塀?」 八戒は一角を占める石作りの土台の上に板塀のある、いまどき珍しいしっかりした塀を見上げた。それは延々続いている。八戒はお寺かと思っていたほどなのだ。 しかし、ここが三蔵の家であるという……。 そういえば、三蔵の家について聞いていなかったなと八戒は思う。 義理の父親がいることは知っている。まさか家が広いとかそんなことを三蔵が言うはずがなかったから八戒が知るすべはなかったのだけれど……。 (それにしても、長い塀だな……) そんな感想を八戒がもっていると、玄関に着いたようだ。 「ここだ」 三蔵が大きな両開きの木の門を潜る。 門は大きく中に向かって開いていた。それを見ながら三蔵の後を続く。 入った先には平屋の大きな建物があった。そこも扉が開いていて、何やら音が聞こえてくる。 その建物の入り口の上には『斜陽院』と達筆な文字で記されている。ところどころ掠れていることから年季の入ったものだと推測された。 八戒がそれをぽかんと見つめていると、 「あ、そっちは道場だから、違う」 こっちだよ、と横にある小道に歩いて行く。あわてて八戒は後を追った。 (道場って何だろう???確かに道場みたいに広くて声が聞こえてきたけれど……?) 八戒の頭の中は疑問符でいっぱいであった。 三蔵に聞きたいけれど、どうやらあまりの暑さのために早く涼みたいばかりらしい。八戒の動揺など気付きもしないで、足早に白い石造りの小道を歩いて先を急ぐ。 敷地が広いから少々歩かねばならないらしい。 そして、やっと三蔵が立ち止まり、扉を開けて 「ただいま」 と声をかけた建物は純然たる日本家屋の2階建て。 「八戒、入れよ」 「ええ、おじゃまします」 玄関で一言断って中に入る。靴を抜いでそろえて三蔵の後を付いていくとここだから、と部屋に通された。 (三蔵の部屋?) 8畳ほどの部屋は洋間だった。 物があまり置いてない整頓された三蔵らしい部屋である。 三蔵はエアコンを入れて鞄を置くと、一息ついて八戒を見た。 「そこらへん、適当に座ってろ」 三蔵はそういい残すと部屋を出て行った。 残された八戒は鞄を隅に置いて座ると、ぐるりと部屋を見渡した。 机とベットと本棚とタンスはなくて、どうやら作りつけのクローゼットがあるらしい。余分なものが一切ない部屋。でも不思議と無味でも冷たくもないのだ。それはきっと住んでいる人間が暖かいからだろう。 そして、ふと、目に付いた本棚に並ぶ本の背表紙を見て八戒は知らずに微笑んだ。八戒が渡した料理の本や自分と一緒に選んで購入した初心者の料理本が並んでいるのだ。 それだけのことに嬉しくなる。 きっと本を見て今度はどれを作ろうかとかこの部屋で考えて、キッチンで広げて実践しているのだろう。こんなに手に取りやすい場所にあることから彼がいかに頻繁に見ているかが推測できた。 「おまたせ」 両手に盆をもった三蔵が戻ってきた。部屋の中央にある小さなテーブルの上にその盆を乗せて、ほら、と八戒の前にコップを置く。 透明なグラスに氷が浮かぶ麦茶。 「いただきます」 「ああ、最初は水分補給に麦茶だ。ちゃんとアイスコーヒーもあるから」 そういいながら三蔵も自分のコップを煽る。 こくこくと飲み干して、吐息を付く。 「ちょっと涼しくなってきたな……」 部屋に空調音が響く。冷たい風が三蔵の髪をわずかに揺らす。 「そうですね、外は暑かったですから」 「本当だ……。よし、つぎはアイスコーヒーだ。ほら」 盆に置かれていたコップを八戒の前に置いて麦茶のコップを盆に戻す。 「ありがとうございます」 八戒はお礼を言ってコップに口をつける。 「……どうだ?」 心配そうな三蔵の様子に八戒は安心させるように微笑む。 「とっても美味しいですよ?三蔵、珈琲をいれるの上手ですね」 「……そうか、良かった。珈琲も好みがあるし、口にあうか心配だった」 三蔵も肩の力を抜いてアイスコーヒーを飲んだ。 三蔵はアイスコーヒーを飲みながら、目を閉じて涼やかな風に浸っている。随分穏やかね表情になってきたな、と八戒は思った。 先ほどまではあまりの暑さのため、余裕がなさそうだった。 「ねえ、三蔵?」 「何だ?」 「……三蔵のお家は道場なんですか?」 八戒は疑問を口にした。 本当は、ずっと気になってしかたなかったのだ。 「ああ、そうだ」 きっぱりと三蔵は頷く。 「何のですか?」 「うう〜ん流派は言ってもわからないだろうけど、完結にいえば、合気道だな……。門下生も結構いるけど……、最近は女性も増えた」 「合気道ですか……。それでは、三蔵も習っているのですか?」 三蔵は喧嘩がめっぽう強い。 それを見たときはあまりの強さに見惚れるほどだった。 「一応、小さい頃からな。今はそれほど鍛錬していないから、時々だけど……、ああ、朱泱は来ているぞ」 「朱泱って、……彼、門下生だったんですか?ひょっとしてそれで知り合いに?」 「言ってなかったか?」 「聞いてません」 (全然聞いてませんよ、三蔵……) 内心八戒は恨めしく思う。 「奴も小学生の頃から来ていて、俺も一緒に稽古していたからな。それ以来の付き合いだから長いな。俺は最近出ないから、顔くらい出せって煩い」 「……そういえば、そんなこと言ってましたね」 一番最初に三蔵が喧嘩をしている……絡まれて反撃しただけだが……朱泱がそんなことを言っていた。 「俺を投げ飛ばすな」とも言っていた。つまるところ、三蔵はこの道場でも間違いなく強いのだろう。 「三蔵、もしかして、この流派の師範とかもってます?」 それくらい強いだろうと八戒は睨んでいた。 三蔵の技には切れがあった。一切の動きに無駄もなく一撃必中で相手の倒す姿は圧巻。その場面を思い出すたび、すごかったと思い直すのだ。 「一応な。父さんが俺の師だけど、中学の時に師範クラスの認定は受けた。でも、それを喧嘩に使っては本当はダメだ。ただ、父さんが中学生の俺に、弱い自分の身を守るために、多少使っても罰はあたらないから、俺に無事でいてほしいって言ってくれた。それからは怪我をさせない程度に使ってる」 「そうでしたか……。どうりで強い訳だ」 八戒は苦笑した。 師範クラスに普通の高校生が敵う訳がないのだ。 三蔵に知らず絡む人間は自分がどんなに恐ろしい相手に挑んでいるかわからないのだ。 この美貌で、一見華奢な姿を見て、最強なんて誰が思うだろう。 「……強いか?父さんの方がずっと強いぞ。本当に強い人間はとても穏やかでそんな強さを感じさせない」 父親を語る三蔵の声には尊敬が込められていた。 とても大切にしているとわかる。 「将来、道場を継いだりするんですか?」 「さあな。父さんは気にする必要はないって言ってる。やりたければ止めないけれど、自分のやりたい道を進んで欲しいって」 「素晴らしいお父さんですね、三蔵」 「……ああ。感謝してる」 三蔵がにっこりと嬉しそうに微笑んだ。 父親を褒められて満面の笑顔を見せる三蔵がとても可愛い。 コンコン。 ドアを軽くノックする音がする。 「私です」 「父さん……」 そこには三蔵の父親であろう人物が立っていた。 |