「よう、天蓬。珍しく怪我したんだって?」 面白そうに、天蓬の部屋に顔を出した観世音はにやりと笑いながらそう言った。 観世音が見舞いだぜ、と言うと、背後に仕えている女官が天蓬の前まで来て一礼し、果物の籠盛りを机に置いた。 籠にはたわわに実った葡萄、桃、林檎、珍しい木の実などが入れられていた。 それを見た天蓬は一瞬眉を潜め、次には笑顔で、 「ありがとうございます」 と礼を言った。 観世音が天蓬の部屋を訪れるなど、そうそうあることではない。 元帥であるが、一介の軍人の部屋に菩薩が来るなど本来ならありえないのだ。しかし、過去にも数度観世音はこの部屋を訪れた。それは全て甥の金蝉童子に関することのみである。 随分昔、天蓬は観世音の依頼で幼き金蝉の指南役を受けた。 その頃からずっとずっと天蓬は金蝉の側にいる。 彼が少年から青年へと成長する過程をつぶさに見守り続けた天蓬は当然だが恋に落ちた。 観世音もその辺の事情は気付いていたようで、しっかりとこの想いも告げてある。が、このように観世音が天蓬にただ逢いに来るなどありえないのだ。 つまり、それ相当の理由があるということである。 「怪我など大したことありませんが、私の怪我如きで貴方がわざわざお越し下さったとは思えませんが?」 天蓬はにっこりと表面だけ笑ってみせた。しかし、目はこれっぽっちも和んでいない。 その天蓬の言葉に観世音は満足そうに、唇をつり上げた。 「話は早い方がいいか?天界西方軍元帥にお願いがあって来た。明後日の崑崙山訪問の護衛を任せたい。本来なら俺が行く予定だったが急に行けなくなった。よって我が甥金蝉童子に代理を任せることにした。その護衛だ。今回は仰々しくなくていいから、腕のいい奴を数人選んでもらえればいい。どうだ?」 「畏まりました。確かにお受け致します」 天蓬は軍人らしく、片手を胸に当てて会釈し承知の形を取った。 「ところで天蓬、お前その怪我で護衛はできねえだろう?」 「このくらい怪我にも入りませんよ」 観世音の問いに天蓬はとんでもないと首を振る。 しかし、ふふんと観世音は笑う。 「俺が見た限り、完治までまだ時間がかかるようだな?お前から血の匂いがするぞ?」 血の匂い、という言葉に天蓬は反応した。 血の汚れがあると金蝉の側に寄れない。上級神の金蝉は幼い頃よりましになったが一切の汚れに弱かった。だから、天蓬は戦地に赴いた後金蝉に逢いに行く時は必ず血を洗い流すのだ。 怪我をしていると、傷口から嫌でも漂ってしまう血臭。 血臭は金蝉を弱らせる。余りに強すぎると倒れてしまう。 過去の苦い経験から天蓬は対処しているのだ。 「つまり、血臭がする私は、護衛に相応しくないということですか?」 「怪我を押してまで、無理をするなということだ。ということで、護衛の筆頭は捲簾大将に任せること とする。異論はあるか?」 「捲簾ですか?」 「ああ、お前の上官だろう。的確な人選だと思うが?」 「そうですね・・・。ごもっともです」 「この決定は金蝉の意志である。異論がある場合は本人に直接言え、いいな」 天蓬は驚愕した。 これは金蝉の意志だというのだ。 自分ではなく、捲簾に護衛を任せると金蝉が言ったのか? 天蓬は今すぐにでも、金蝉に問いただしたい気持ちで一杯だった。 さすがに普段激しい感情を表さない天蓬も動揺が顔に出ていたようで、観世音はそんな天蓬の様子を面白そうに眺めていた。 そして、それでは頼むぞと言い残すと部屋から退出していった。 長い廊下を金蝉の部屋へ早足で歩く。 いつもゆっくりと庭を愛でながら、風を堪能しながら歩くのだが、今日は違った。楽しむ余裕などどこにもなく、本来なら走っていきたいくらいなのだが、さすがに憚られたためおかしくない程度で急いで歩いた。 大きくて重い木の扉。 この中に金蝉がいる。 天蓬はコンコンと扉を叩く。 普段、扉は空いたままになっているので、このように叩くことは少ない。 すると、扉は内側から開いた。 扉から正面の窓際、執務机で書類をこなしている金蝉の姿が天蓬の目に飛び込んできた。 部屋の扉を開けたのは、金蝉付き女官筆頭の連翹である。 連翹は天蓬に一礼すると、 「いらっしゃいませ、天蓬元帥」 と穏やかに微笑んで迎えた。 見知った連翹に会釈して、 「失礼します」 と一言断り、天蓬は真っ直ぐ金蝉の側まで歩いていった。机を挟んだ前に距離を置いて立ち、「金蝉」と呼ぶ。 本当ならもっと近づきたいのだが、怪我をしているため血臭を心配してそれ以上は止めておいたのだ。 天蓬の声にゆっくりと金蝉は顔を上げる。 そして、反らされることなく見つめる綺麗で、透明な瞳。 「どうした?」 金蝉は肩肘を付いて、そこに細い顎を乗せる。 「明後日の護衛の件ですが、なぜ捲簾を指名したのですか?」 「そんなのお前が怪我をしているからだろう?」 それがどうかしたのか?という顔で天蓬を金蝉は見た。 「・・・このくらいの傷、大したことなどないのですよ?確かに怪我のせいで血臭がするかもしれませんが・・・」 天蓬はそれが悔しくて、眉を潜めた。 「いったいどうしたんだ?血臭は関係ない。昔ほど俺も弱くはないだろう?単にお前が怪我していたから、無理をすることはないと思っただけだ」 「・・・本当に?」 「何が気に入らないんだ?第一『本当に?』って何だ!」 金蝉は訳のわからない天蓬を睨んだ。 「じゃあ、なぜわざわざ捲簾を指名したのですか?何か理由があるのですか?」 「はあ・・・?お前に何いってるんだ?お前以外で知ってる奴がいなかっただけだ。他意はない」 呆れたように金蝉は天蓬を見上げた。 そう、天蓬は捲簾にいらない嫉妬をしていた。 怪我が理由で金蝉の護衛から外されることも納得いかないが、わざわざ捲簾を指名することはないではないか。自分以外の誰かという指定ではなく、個人を名指したところが天蓬は気に入らなかった。 金蝉が人見知りで、訳のわからない初対面の人物に護衛など頼めないと、わかってはいるのだけれど・・・。 「すみません」 天蓬は小さく息を吐く。 「天蓬?」 金蝉は様子のおかしい天蓬に首を傾げる。 「ちょっと、自己嫌悪しただけですから、気にしないで下さい」 「・・・」 二人の間に沈黙が漂った時、その空気を払拭するたおやかな声がした。 「お茶の用意が整いました、金蝉様、天蓬元帥」 いつの間にか連翹が盆に茶器を乗せて立っていた。 部屋の隅にある茶などを給仕する小さな机に盆を置いて、蓋椀に茶器からお茶を注ぐ。 湯気が立ち、そこから部屋にお茶の香りが立ち上った。 「さあ、どうぞ」 連翹が金蝉と天蓬の二人分を机の上においた。 「ああ、ありがとう」 「頂きます」 気分を変えてお茶を飲むことにしよう。 二人は顔を見合わせて頷いた。 崑崙山訪問は当然正装である。 観世音菩薩の代理として赴くのだから、滅多なことはできない。 ということで、金蝉は正装に着替えていた。 金蝉が捲簾の前に現れた時、捲簾は間抜けにも口を開けて、見惚れてしまった。 薄青の一重の着物の上に真っ白な上着。それは透けるほど薄いため下衣の薄い青色がぼんやりと映り、金糸と銀糸で刺繍された大輪の芍薬が大層映えた。帯は天高い空を思わせる濃い蒼。片方垂れた形に結ばれた帯に青玉と青金石が端に連なった飾り紐を結ぶ。 金の髪は緩やかに結って垂らし、金の鎖に大振りの真珠が下がり動くと揺れる簪を差す。 耳には涙の形をした月長石が輝いていた。 しかし、何よりも雄弁に麗しさを物語るのは紫水晶の瞳だ。 長いまつげに縁取られた宝石が、捲簾を見つけてふっと微笑んだ時、心臓が踊り出した。 「捲簾?」 「ああ・・・」 捲簾は呼びかけられ、我に返った。 「じゃあ、参りますか、お姫様」 至極当然のように口から出た言葉に、金蝉は眉を潜め捲簾を睨んだ。 「誰が、お姫様だ」 「あんたしかいないでしょう。金蝉童子?」 「ふざけんてんのか?」 「いや、全く真面目ですよ。観世音菩薩代理殿」 「・・・」 金蝉は付き合ってられないとばかりに、ぷいっと横を向いた。 お姫様は少しご機嫌斜めである。 しかし、「お姫様」と呼んだのはからかうためではなく、とても自然なことだった。なぜなら、どこをどう見てもそれ以外見えなかったからだ。きっとそう思ったのは自分ばかりではないはずだ。捲簾は確信していた。少し離れた所に並んでいる今回選ばれれた数人の西方軍の部下たちも言葉もなくただぼーと惚けていたのだから。 こいつらには免疫がないからな、と捲簾は思う。 初めて見る金蝉がこんな綺羅な衣装で現れたら、見惚れること5割増しだ。只でさえ極上美人なのに、それに輪をかけて輝いて見える。 はあ、と内心で捲簾はため息を付いた。 喜んでいいんだか、悲しんでいいんだか、判断に迷うところである。 親友の嫉妬が怖い。 ひたすらに恐ろしい・・・。 あの軍師殿は金蝉のこととなると冷静な判断ができなくなる。普段は部下にも慕われ鉄壁の微笑みで本心を覗かせない有能な策士だというのに。今回の怪我にしても後方で一人安全な場所にいられなくて、部下にばかり戦わせることなどできなくて、自ら前線に赴き妖魔から部下をかばったことが原因だ。 そんな元帥だからこそ、西方軍全ての部下から慕われ、信頼されている。 が、どんなに軍師として有能でも一度恋心が絡めば、全くもって只の男だ。彼のお姫様に近寄る者は何者も許さないその一律した態度はしたくもないが、尊敬に値する。 任務から帰ったら、どのような報復にあうのか考えると頭が痛くなる。 しかし、お役目であるし、金蝉を護衛することに手を抜くこともできなし、する気もない。 ということで、部下を統括しつつ、護衛に当たろうと心に誓った捲簾だった。 「天蓬?」 軍の庁舎にある天蓬の執務室を覗いたが、誰もいなかった。 相変わらず部屋中散らかし放題で、書棚からはみ出した本達が床に積み上げられていた。 その上に書類や何やら置いていくので一見どこに何があるのかわからない。本人はそれでも探し当てることができるようだが。 天蓬はどこに行ったのだろうか?金蝉は疑問に思う。 お務めを終えてその足でここに来たというのに、あの馬鹿はどこに行ったのか? 金蝉はそのままここに来たため着替えていない。よって動きにくい裾の長い着物を摘みながら部屋を後にした。 折角、ついでだからと、そこまで捲簾が送ってくれのに。 金蝉は知らないが、軍の庁舎内では綺羅を纏った金蝉に騒然となっていて捲簾は冷や冷やしながら護衛していたのだ。これで何かあったら、目も当てられないではないか。 現在不在の元帥に代わって、捲簾はお姫様の護衛に務めていた。苦労性なのかもしれない。 そんな苦労は一切関知していない金蝉は天蓬を捜していた。 天蓬の行く場所といったら、そんなにないだろう。 二人が逢う場所は金蝉の執務室、内宮の一角にある四阿、天蓬の執務室、そして最後の一つが外れにある池の畔である。 庁舎から随分離れた場所にあるその池はどちらかというと観世音邸寄りにあり、滅多に人がこない場所であった。人にあまり逢いたくない金蝉と何者にも邪魔されたくない天蓬が外で逢う唯一の場所だ。 ひっそりと静寂に満ちた空間。 木々が覆い茂り、草花が風に揺れている。 水面はわずかな風にふるえながら、光を反射している。 きらきらと輝く光線を受けながら天蓬は目を閉じていた。大木の下、寝ころび手元には1冊の本だけ。 眼鏡も外して本の上に置き、長めの髪を風に遊ばれるがまま揺らめかしていた。 すると、草を踏む体重を感じさせない足音がした。 そんな音を立てる人物を一人しか天蓬は知らなかった。 目を閉じていても存在を感じることがきる。その存在は清浄で崇高な魂。 この天界にあって最上級神にもっとも近い上級神。存在自体がこの天界を支える柱となる。 守護する神は雲の上。 見守るのは愛する子供。 「天蓬」 自分を呼ぶ声は音楽のような調べ。 天蓬はゆっくりと瞼を開けた。 瞳の前には、神がいた。 きらびやかな衣装を身に纏い、金の髪をなびかせて、紫の宝石で天蓬を射る。 「お帰りなさい、金蝉」 天蓬は微笑みながら上体を起こした。 「どうだ?調子は」 「大したことありませんよ。本当に、もう大丈夫なんです」 心配そうな金蝉に天蓬は安心させるように言う。 「そうか」 金蝉は天蓬の隣まで来て腰を下ろした。その拍子に長い衣がふわりと広がる。 見惚れるほどの麗姿。 「綺麗ですね」 だから、素直に天蓬は誉めた。 背中に垂れ下がる長い髪を一房指で摘み、絡めてもて遊ぶ。 金蝉は少しだけ、眉間にしわを寄せて天蓬を見ると 「馬鹿」 と言った。 そんな照れ隠しな態度が微笑ましい。 「それにしても、こんな貴方を捲簾や他の部下に見せたのかと思うともったいないですね」 そんなことを真面目な顔で真剣に言う天蓬に金蝉は呆れた。 「お前、本当に馬鹿だな・・・」 はあ、と金蝉は見せつけるようにため息を付く。 「いつまで、そうやって拗ねているんだ?」 そして、首を傾げて天蓬に聞いた。 そう、実は天蓬は拗ねていた。 一見普段と変わりないのだけど、金蝉にはわかってしまう。 数日前、金蝉の執務室までやって来て、「なぜ自分が護衛を外されるのか。捲簾を指名するのか?」と詰め寄った時からおかしかったのだ。 どこか、寂しそうに、悲しそうに、腹立たしそうに、複雑な表情で金蝉を見る。 そして、捲簾にあからさまな嫉妬を向ける。 いつもはもっと余裕があるのに、今回はそれがない。 天蓬としても、怪我をしてしまった自分に対して一番腹立たしかったのだ。怪我をした自分が悪い。それで、血臭をさせ金蝉の側に寄れず、護衛ができなければ世話はないのだ。 「しょうがない奴だな。いい加減、機嫌を直せ」 金蝉はそう言うと天蓬の首に手を回して自分の方に引き寄せ、もう片方の指で天蓬の前髪をかき上げると露になった額に口付けた。 触れるだけの、一瞬の唇。 天蓬は瞬間固まった。 「金蝉?」 そして、柄にもなく照れたように顔を赤くして額を押さえる。 その様子を見ていた金蝉は笑いがこみ上げてきた。 いつも余裕ぶって、にやけた笑いで表面を取り繕っているというのに、こんなに照れて顔を赤くする天蓬なんてそうそう拝めるものではない。もちろん、金蝉に対してはどんな表情も本物であるけれど。 くすくすと笑う金蝉に天蓬が困ったような顔を向けた。 しかし、それをすぐに納めるとにやりと口角を上げて、金蝉を見つめた。 「金蝉?」 「何だ?」 現金なことに、金蝉の口づけで機嫌が一気に直った天蓬はいつもの自分を取り戻した。 にっこりと完璧に微笑むと動かない金蝉に手を伸ばし、あっという間もなく腕に閉じこめた。 腕を回して金蝉のしなやかな背が反り返り、薄い衣装に皺が寄る程、ぎゅっと掻き抱く。 肩口に顔を埋めると衣装に炊き込められた白檀の香が匂った。 「天蓬、苦しい」 金蝉が天蓬の白衣の腕を掴み、訴える。 天蓬は少し力を緩めて距離を取ると、金蝉をのぞき込んだ。 「機嫌、直ったみたいだな?」 にやけた顔の天蓬に金蝉が目を細めて聞いた。 「ええ、ありがとうございます」 幸せそうに天蓬が笑うので、金蝉も笑うしかない。 結局のところ金蝉は天蓬のことを甘やかす。 天蓬も何があろうとも、金蝉の側を離れず、守ると決めている。それが天蓬の存在意義だ。 天蓬は腕の中にいる金蝉の頬にそっと指をかけた。 頬にかかる金の髪が吹き抜けた風に浚われて天蓬の指に戻る。 見つめた瞳はゆっくりと閉じられて、睫毛だけがわずかにふるえている。 天蓬はそっと顔を近づけて唇を寄せた。 一度軽く触れるだけで離すと、今度は確認するように深く口付ける。 柔らかな感触。 吐息までもが、甘い。 求めるままに答えてくれるのが嬉しくて、どん欲に貪ってしまう。 十分に味わって優しく唇を離すと、金蝉の潤んだ瞳が天蓬を見つめていた。 「あまり、心配させるなよ」 口付けのため赤く色付いた唇がそっと告げる言葉。 怪我をしたせいで随分心配させしまったなと天蓬は思う。 「はい」 だから、天蓬も簡素に真摯に返す。 「誓います」 金蝉の細い指を自分の指に絡ませながら誓約の証を唇で印した。 END 再録です。 知ってる方は多分とても少ないと思いますが、 福徳さまの冬限定コピー本に寄稿したものです。 お題は「でこチュー」でした。(笑) |