女官日記1



「金蝉様、こちらが今日から金蝉様付けの女官としてお仕えするです」
ほら、と連翹はに目で合図する。
にございます。よろしくお願いいたします」
深くお辞儀をする。
最近お屋敷で女官として仕えすることになったはまだ天界人としても若い。
少女がやっと大人に差し掛かった面差しで、興奮のためか頬を赤く染め緊張して伸ばした指が震えている。
「ああ」
がこれから使える主人、観世音菩薩の甥、金蝉童子がふわりと微笑んだ。
わずかに笑んだだけなのに、眩しいほどに麗しい。言葉では言い表せないほどの衝撃を受けた。
そのため、大きく目を見開き金蝉から目が離せなくなる。
この方がご主人様・・・。
は自分の幸せを噛みしめていた。
こんなに美しい上級神にお仕えできるなんて思ってもみなかったのだ。
さらりと流れる金の髪は絹のような滑らかさを思わせる。
長い睫毛に縁取られた紫の瞳は至高の宝石。
抜けるように白く輝く肌は下界に降ると聞く雪のようだ。
あまりのことにじっと見つめてしまったは我に返るとあわてて視線を逸らした。
「ご無礼をおかけすることもあるかと存じますが、誠心誠意をもって努めさせて頂きたく思います」
用意していた言葉を紡いで、再度深く礼をした。


新人女官として任される最初の仕事は当然ながら掃除だ。
広い、広い、お屋敷。宮と宮を繋ぐ回廊が入り組んでいて初めてお屋敷に脚を踏み入れた時は迷った。迷子になったは先輩の女官が探しに来てくれるまで、どこにいるのかさっぱりわからなかったのだ。
広大な庭には艶やかな、珍しい花々が咲き誇り、小道を通ると四阿がある。
そんな素晴らしい空間がいくつもあり、目を奪われる。
がこの観世音邸に女官としてお仕えするようになって、1月ほど経った時のことだ。
まだまだ未熟で主人仕えなど早すぎると周りも思ったのだが、突然金蝉様のお付きに決定したのだ。通常であれば掃除から始まり、作法を学び主人の側に仕えるようになるまで、1年ほどかかるのだ。
それが、この館で観世音菩薩様の次に尊い金蝉様に仕えるなど夢にも思っていたなかった。
がその事実を聞いたときに、なぜですか?と思わず問うてしまったのも頷ける。
「観世音菩薩様のご意向です」
と返ってきた答えにより驚いた。
本当の所、金蝉に仕える女官は少ない。
構われることが嫌いな金蝉は滅多なことでは人を増やさせないし、周りに寄せない。
しかし、最近事情が変わってきたのだ。
もちろん、悟空である。
悟空が行くところ、散らかる、汚す、騒がしいの三拍子であり、食事もいつもの何倍も用意がいる。金蝉が面倒を見ているとはいえ、限りがある。
そんな理由から、人を入れようと決まったのだ。
その時点で熟練した女官でも良かったのだが、悟空の側に少しでも若い者を、との配慮だった。なにせ、周りは大人も大人、何百年と生きている神様ばかりなのだから。
が選ばれた理由は偏に、若く、利発で子供好きな点だった。
そそっかしい点もあるが、悟空とあうだろうという観世音の軽い言葉で採用された。
観世音が、また面白くなりそうだな、と密かに思っていたとは側にいた側近女官の知るところである。

、お茶をいれましょう」
「はい、連翹様」
は金蝉様付き女官筆頭の連翹に付いて仕事を学んでいる。
炊事場にはお茶をいれる道具が揃っている。
緑茶、白茶、黄茶、青茶の銘茶や香り高いお茶、花茶など硝子の瓶に入れられて並んでいる。
茶器も白色を中心に深い色合いのもの、薄い桜色、緑色と蓋椀が10客ずつ。
まず、お湯を沸かす。
鉄製の大振りな薬缶からは湯気が立ち上がり、ふつふつと沸騰している音がする。
茶器に一度湯を入れ、暖めてから捨てる。
茶葉を入れる。竹製の簡素な茶杓で人数分すくう。
熱湯を注ぎ込み、蓋をして茶葉が開くまで待つ。その間に蓋椀を暖める。
選んだ茶葉は「金葫芦」。
緑茶でひねられた茶葉が白毛を水面に浮かべながらゆっくりと開き、濃厚で果物のような香りが立ち上がる。
今日、使う茶器は白磁に一輪だけ花が描かれたもの。
それに、たっぷりと注ぐ。
は上手に入れられたか不安な顔をして茶碗を見つめる。
一番初歩の入れ方だ。
これが美味しく入れられなければ上達の道は遠い。
「連翹様。いかがでしょうか?」
は連翹を見上げながら、そっと聞く。
それに、にこやかに微笑むと、
「それでは、金蝉さまにお持ち致しましょう」
連翹ははっきりと言った。


盆に乗せた蓋椀と茶器。
丁寧に、こぼれれないように注意して運ぶ。
「失礼します」
扉の所で声をかけて、金蝉の執務室に入室する。
「ああ」
金蝉は書類から一端目を上げると再び視線を戻す。執務机の上には積まれた書類が山となっていて、どうやら立て込んでいるようだ。
「こちらに、置かせて頂きます」
はお茶など用意する上質な木材でできた小さな台の上に盆を置く。
よし、今のところは大丈夫だわ、とは心の中で自分を励ます。
なにせ、金蝉さまに飲んで頂く初めてのお茶・・・。これで、まずかったらどうしたらいいのだろう?
上等な茶葉を使っている上、金蝉に差し出すのだから責任重大である。
「金蝉様、ご休憩になりませんか?先ほどから根を詰め過ぎですわ」
その様子を観察していた連翹が金蝉に声をかける。
優しく、穏やかな心配する声にはさすがに金蝉も仕事を続けられない。
顔を上げてを見ると、
「もらおうか」
と言った。
「はい、ただ今」
は緊張して答えると、蓋椀を手に乗せて書類に占領されているため、机の空いている部分に置く。
金蝉は蓋を開けて置き、茶碗をそっと持ち上げた。
ふわりと立ち上る果実のような甘い香りを楽しみ、こくりと一口飲む。
をどきどきしながら、反応を待つ。
「まあまあだな」
見つめた金蝉は片方の眉を若干持ち上げながら、そう評した。
はほっと息を吐く。極度の緊張のため息を止めていたらしい。
「ありがとうございます」
思わずぺこりとお辞儀をするに金蝉は口元をほころばせた。
初々しい態度もそうだが、基本的な姿勢が好ましいと金蝉は思う。
観世音の人選は時々問題もあるが、間違ったことはなかった。金蝉に危害を加える者を近づける訳がないのだ。一番の問題は何でも面白がることで、退屈しのぎに付き合わされる度に、ほんの少しでも感謝していた気持ちがどこかに飛んでしまう。
くそばばあ・・・、と思わずにはいられないのだ。
「うちには猿がいる。食べ物は際限なく食う、騒ぐ、散らかすとどうしようもない。世話もかかるが、がんばってくれ」
金蝉はそう、に言う。これから一番大きな仕事となるだろうから・・・。
夢のようだとは思う。
このように声をかけてもらえるなんて・・・。
「はい。喜んで努めさせて頂きます」
だから、はっきりと喜びを伝えたかった。
このご主人に仕えるのだから。
の笑顔は喜びに満ちていた。


連翹は穏やかに主人と新人女官の姿を見ていた。
どうやらは金蝉様のお気に召したようですわね・・・。
どんなにいい女官でも、相性というものがある。虫が好かない、と言えば乱暴だが生理的にどうしても受け入れられないという場合がある。
そんな者を主人の側に置くわけにはいかない。
連翹はそのたおやかな外見からは想像もできないほど主人に対して忠実であり、主人を守るために厳しかった。




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