「HONEY」3





 穏やかな暖かい土曜日の午後。
 結人は親友を連れて帰ってきた。


「ただいま!!!」
 結人が帰宅を告げるために、玄関から大きな声で叫んだ。
「お帰りなさい」
 姉の響子はキッチンから顔を出す。
 そして、一緒にいる友達達を見つけて、あら?という顔をした。そして、にこやかな笑顔になると玄関まで出てくる。
「英士くん、こんにちは」
「響子さん、こんににちは。いつも姉がお世話になってます」
「英士君たら、相変わらずね。祥子にはこっちもお世話になってるわ」
「いや、絶対姉貴が世話をかけていると思うよ。姉貴も響子さんを見習って欲しいもんだね。嫌なことは首を縦にも振らないくらい怠惰な人だから……。響子さんみたいに料理もできないし、不器用だし。取り柄は顔と頭しかないね」
「英士君……」
 英士の姉、祥子は英士に似て切れ長の黒い瞳に日本人形みたいな顔立ちだ。成績も優秀で響子が学年首席なら祥子は次席であった。が、それ以外は不器用な上に、やりたくないことは絶対しない、指一本動かさないほど怠惰だった。
 しかし、弟を介して家族同士の付き合いが始まってから響子も祥子も気が合うようで、弟を抜きにしても仲良くなり、今では同じ学校に通うほどの親友である。
 この二人は黙っていれば美人であるが、話すと響子は主婦のようにとても現実的だし、祥子は毒を吐く。おかげで、影では校章に使われている花の菊と百合に例えて菊姫、百合姫と言われているのに、あまり告白されるということがなかった。もちろん、それでも皆無ではないのだけれど、それは内緒である。
「これからも、姉貴をよろしくお願いします」
 英士はぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ。祥子には仲良くしてもらってるのよ。だから、心配しないでね?」
 響子はそう言って英士の頭を撫でた。そして横にいる一馬に微笑んだ。
「こんにちは、響子さん」
「こんにちは一馬君。美也子ちゃんは元気?」
「元気です。今度遊びに来たいって言ってました」
「本当?いつでもいいから、遊びに来てね」
 一馬には妹がいる。その妹は美也子といい現在中学1年生で、とても響子に懐いている。まるで姉のように慕い、何かにつけて響子お姉ちゃんと言い付いて回る。響子も妹のように可愛がり、その度にお菓子を一緒に焼いたりと親交を深めている。
「今度来る時は教えてね。美也子ちゃんの好きなシフォンケーキを焼くから」
「はい。美也子に言っておきます」
「うん」
 にこにこ。
 にこにこ。
 一馬と響子が会話をすると、ほやや〜んとした空気が漂った。美也子も一馬と雰囲気がよく似ているため、3人が一緒にいるとぼけぼけとした会話になるのが常だった。
「うふふ、ちょうどいい時に来たわね。おやつがあるんだ〜。結人、運ぶの手伝ってよ!」
 響子は微笑しながら結人に向き直って告げた。
「あ、僕たちも……」
 いつも若菜家に来る度にお菓子やご飯を食べさせてもらっているため、手伝おうと申し出た。けれど響子はにっこり笑って手をふる。
「いいのよ、結人にやらせれば。ねえ、結人」
「はいはい」
「じゃ、待っててね」
 姉弟がキッチンに消えると、残された英士と一馬は勝手知ったる他人の家ということで結人の部屋に向かった。



「あのね、くるみが入ったチョコケーキ焼いておいたの。結人、好きでしょう?」
「うん」
「味見してごらん」
 結人は四角くく切ったチョコケーキを摘む。
 口一杯に広がるチョコレートの甘さと苦みにくるみが絶妙に香ばしい。
「姉ちゃん、美味しいよ」
「そうでしょう?」
 うふふと響子は微笑む。
 結人のために作っておいたケーキだ。結人が喜んでくれるのが一番嬉しい。
 結人の友達達も大好きだったから、ちょうど良かった。
「お茶は紅茶入れればいい?」
「いいよ。英士も一馬も紅茶党だし。俺も姉ちゃんの入れたのなら紅茶がいい」
「何それ?」
「だって、外で飲むと美味しくないもん。姉ちゃんのが一番美味しいよ」
「そうなの?」
「うん、そうなの」
「そっか。じゃあ、今日はとっときのダージリン入れよう。この間買ってきたのがあるんだ!」
「やった!」
「じゃあ、入れるから結人お皿にケーキ並べてよ。後は、結人の好みで良いからカップ出して……」
「了解」
 結人は食器棚から花柄で縁が金色のカップを取り出した。同じ種類の皿にケーキを並べる。
 その間にも響子はお湯を沸かし、紅茶を入れる準備を整える。
 高そうな缶から茶葉を取り出し、お湯をこぽこぽと入れる。ティコージーを被せて、3分半ほど待つ。茶葉がブロークンタイプで早めに出るので渋みがでないうちにカップに注いで行く。
 湯気が上がり、香りが部屋に漂う。
「美味しそうだね」
「よし、じゃ結人こっちのお盆運んでよ」
 結人にケーキを運ばせて響子は紅茶の入ったカップを運ぶことにする。こぼさないように、注意して、平行を保ちながら歩く。
結人が自分の部屋のドアを開けたので、響子はそのまま入って小さなテーブルにお盆を乗せてカップを並べる。
「どうぞ。冷めないうちに食べてね」
「ありがとうございます」
「ありがとう、響子さん」
 響子のお菓子もお茶も美味しくて英士も一馬も大好きだった。もちろん彼女の人柄も大好きで、いつも優しく暖かく歓迎してくれる空気は大変居心地が良く彼らはここに集まることが多かった。
 お茶とお菓子を味わい交わす会話は学校であったこと、最近見たテレビ番組、発売されたゲームなどことかかないが、それでもサッカーの話題が一番多かった。
「今度高校生と練習試合があるらしいよ」
「レベルアップを計るって言ってたな?」
「負ける気はないけどな〜」
 真剣に語る3人の顔に響子は黙って耳を傾ける。
「この間、俺鬼ごっこさせられたぜ?」
「結構奇抜なアイデア出してくるよな、あの監督」
「やっぱ、瞬発力鍛えるためなのかな?」
「咄嗟の判断力だろ。マーク付かれた時、どう振り切るか、フェイントをかけるか」
「だろうね」
 響子はうんうんと頷きながら顔を綻ばせた。
「すごいね。監督さんの考え方で全然やること違うんだね〜。効果的に練習する方法を知ってるんだ」
「うん、そうなんだ。やってみると面白い」
 結人が大きく頷くながら笑顔を見せた。
「監督さん、皆の将来をちゃんと考えているんだね」
「それにしても、響子さんてサッカーしないけど、一緒にサッカーの試合の中継見るよね。ルールも詳しく知ってるし」
 英士は、そうだね、と返しながら、いつも感心していることを言ってみた。
「そりゃあね、これだけ毎日聞いていれば覚えるわ。もちろん皆が試合をしているのも、真剣にサッカー談義するのもテレビを見るのも楽しいし……。それでも私は絶対実践はできないけどね?」
 響子はくすりと笑う。
「うう〜ん残念だね」
 響子は頭脳はこれ以上ないほど優秀であったが運動神経はからっきしだった。それは、もう『運痴』と呼ばれるほど。走れば遅い、飛べば落ちる、球技は、球に遊ばれる………初めてそれを目の当たりにした時はこれほど運動能力がない人間がいるのか?と驚愕した程だった。響子曰く、父親の運動神経の良さは全て結人がもらい受けて生まれてきたのだ、と言うことだ。その分自分は母親の頭脳を全てもらい受けたので、平等だろうと言う。
 それを、両親も大きく頷いて認めたらしい。
「本当にね」
 しみじみと皆頷いた。
 ある意味それは失礼であるのだが、響子は全く気にしていなかった。世の中平等にできているのだと思うから。弟がサッカーで1番を目指すなら、自分は頭脳で1番を目指せばいいだけである。
「そういえば、響子さん。この間告白されたんだって?」
 そこへ、英士が爆弾発言をした。
「え?」
 響子は瞳を見開く。
 その情報源は、英士の姉の祥子以外ありえなかった。
「姉ちゃん、それ本当?」
 結人は響子を意気込んで見つめると、肩を掴んだ。
「ええっと、そうね、そんな事あったかな?忘れてたわ」
「姉ちゃん!本当なんだね?俺聞いてないよ」
 否、弟に報告する義務はないだろう、と内心英士は思った。けれど結人は真剣に響子に迫る。
「ちゃんと断ったのよ。だからすっかり忘れていたの。わざと言わなかった訳じゃないわよ、結人」
 響子は困ったように苦笑する。
「だって、何があるかわかんないじゃないか。もし、ふられた腹いせにストーカーとかになったらどうするのさ?」

(それは考えすぎだ、結人!!!)

 結人以外の人間は皆そう思った。
 最近は危ない人間も多いが、そんなこと考えていては断ることもできないではないか。
「大丈夫だって、結人」
「何を根拠に大丈夫なんて言えるのさ?姉ちゃん、何かあってからでは遅いんだぜ?」
「それはそうかもしれないけど………。今のところ本当に何もないわよ?これからも気を付けるし」
「本当に?」
「本当よ、結人」
 響子は、ね?と首を傾げながら結人を伺う。
「響子さん、やっぱりもてるんだね?」
 些か間の抜けた口調で、一馬がほややんと言った。
「当たり前じゃないか。姉ちゃんは父さん似なんだから」
 結人はきっぱりと言い切った。
 なにげに問題発言である。「父親に似て」ということは「母親似」では駄目ということなのだろうか?
 もし母親が聞いたら目をつり上げて睨まれることを結人は言った。
 確かに父親は端正な顔であるが……。
 結人は、かなり冷静さを欠いていた。
「美人だもんね〜」
 一馬の素直な賞賛に響子はありがとう、と微笑んだ。
「姉貴に言っておくから、そろそろ納得しなよ結人」
 英士が涼やかな笑顔を見せて結人に有無を言わせないような声音で言った。
 それは英士を知っている人間にはひんやりと冷たく、反抗すると恐ろしい目にあうとわかる笑顔だった。それを知るのは、結人と一馬と姉の祥子のみである。当然、響子には向けられた事はない。その上、英士は響子の前で小さな猫を被っていた。性格はばれているけれど、笑って地獄に突き落とす悪行はその笑顔の下に隠していた。響子が知る必要がなかったから………。
「わかった」
 結人は大人しく頷いた。
 できるなら英士の怒りのとばっちりを受けたくなかった。
 そう、英士も響子をかなり好きなことを結人は知っていた。実の姉よりも愛情をもっているのではないかと、思う瞬間があるのだ。
 けれど、絶対響子のためにならないことはしない。それだけは信じられた。
 だって、ファンの女の子に向ける愛想笑いとは全く違う本物の笑顔を響子に見せる。
 恋とは違うものだろうと、本能で感じる。それは肉親に向ける感情に一番近い。

(なぜ、姉はこういう人間に好かれるのだろう?)

 実際のところ英士以上に恐ろしいのは響子の親友であり英士の姉である祥子である。
 その執着ぶりは、響子に近寄る者を排除する姿から容易に想像できた。
 それでも、響子に決して絶対に悪いことはしないと信用できるため、結人は安心していられた。
 こんな人間ばかりに囲まれた響子に果たして彼氏が無事にできるのか、定かでない。が、本人は全く不都合を感じていないのが唯一の救いであろう。

(でも、俺だって姉ちゃんの彼氏なんて、絶対認めないけどさっ)

 結人は心密かに決意していた。
 それは幸いなことに、響子は知らない。




                                           END


 

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