「ねえ、結人、何食べたい?」 「………そうだな、じゃあ寿司でも食べる?」 「そうね、そうしましょうか。さすがにお寿司は努力してもお寿司屋さんに敵わないもの」 「そんなことないよ、姉ちゃんのちらし寿司すっごく美味しいよ」 結人はとんでもない!と響子に反論した。 「ありがとう、結人」 響子はにっこりと微笑んだ。 「じゃ、早く帰ってきてね。待ってるから」 「うん、速攻で帰ってくるよ。俺が本気を出せばあっという間だぜ」 結人は胸を張った。 若菜家の料理は姉の響子が一手に引き受けている。忙しすぎる母親に代わって料理だけでなく家事もほとんどこなす。母親のために、父親のために、弟のために、その青春は捧げられていた。が、響子自身は全く不便も不満も感じていない。料理や家事をする事を自己犠牲などと思いもしない、できる人間が、時間がある人間がすればいいと思う。その考え方は見かけと縁遠く理数系である。そう、学年首席の彼女の得意教科は数学と物理である………。ちなみに結人はその教科が大嫌いであった。 さて、今日は大学の助教授をしている母親は学会のため九州へ出張、父親は大阪へ出張で家を空けている。普段であったなら、響子がそんな事関係なく結人のためにご飯を作るのだけれど、いつも悪いからと母親が『是非(絶対)、外食してきなさい』と言い置いていったのだ。軍資金を豊富に押しつけて………。それに拒否の言葉は言えなかった。 そこで二人は何を食べようかと相談になった訳で冒頭に戻る。 家から少し離れた場所にある寿司屋「亀寿司」。 若菜家御用達の寿司屋である。何かあってお寿司が必要な時は必ずここから出前を取る。親父さんが毎朝仕入れてくるネタが新鮮だし、新潟の農家と契約している米を上質の酢で作った酢飯が柔らかで美味しいと若菜家でも評判がいいのだ。 「こんばんは〜」 「こんばんは」 「へい、いらっしゃい!!」 姉弟がのれんをくぐると威勢のいい声が店内に響きわたる。そんなに広くないけれど居心地がいい空間なのだ。 「あれ?今日は親父さんはいないの?」 いつも笑顔で迎えてくれる親父さんがいないので結人は中にいる跡取り息子、勝也に聞いてみた。 「すみません、親父、実はぎっくり腰なんですよ。しばらく起きあがれなくて今日はまだまだ半人前ですが私が握らせて頂きます」 「そうなんですか。お大事にして下さいね」 響子はにっこり微笑んで「それでは、お願いしますね」と勝也に言った。 その響子の微笑みを勝也は眩しげに見つめると、ありがとうございますと返した。その様子を見ていた結人は、にわかに機嫌が悪くなる。こいつは要注意かもしれない、と思う。確かに姉は美人だけれど、客に見惚れるな、と内心毒づいた。 「なあ、早く座ろう。お腹空いた」 だから、そう声をかけて響子をせかして席に座った。本当ならカウンターでも良かったのだが、離れた席に陣取る。 「そうね、じゃあ『おまかせ御前』2人前お願いします。あと茶碗蒸しも」 響子は注文をすると結人の前に座った。 運ばれてきた『おまかせ御前』は鮪、タコ、イカ、サーモン、イクラ、あなご、甘エビ、玉子、稲荷、巻物などなどが入っていた。それに、味噌汁と熱々の茶碗蒸しから湯気が漂い、食欲をそそる。 「いただきます」 「いただきま〜す!」 割り箸をぱちんと二つに折り、手を合わせる。 小皿にお醤油を入れて、茶碗蒸しのふたを先に取って少し冷まして置いて………。二人とも同じ行動を取るのは姉弟である証拠であろうか? 「あ、しまった………」 響子はぴたり、と動きを止めた。 「言うの忘れてたわ………、山葵」 ネタとシャリの間にある緑色が鮮やかに光る山葵を悲しそうに響子は見つめた。 そう、響子は山葵が苦手である。だから、いつも山葵抜きなのだ。ここまで食べに来る事は稀で出前が多い上に、いつもだったら何も言わなくてもわかっている親父さんがいるから、油断していたのだ。 「結人………」 響子は上目使いで物言いたげに結人を見上げた。その瞳は、雄弁に取り替えて、と物語っていた。 「わかった」 結人はもちろんその言葉を読みとり、頷いた。 「ありがとう」 響子はにっこりと安心したように微笑む。 「しょうがないなあ………姉ちゃん、これだけは駄目だよね。料理なら大抵できるのに」 そう言いながら結人は山葵の入っていない、あなごや玉子、巻物、稲荷などを響子の皿に入れる。響子は自分の皿から山葵の入った鮪、タコ、イカなどを結人の皿に移した。 「料理は関係ないの。生姜はいいんだよ、生姜焼きとか美味しいし、薬味になるから………。芥子もちょっとぴりっとして料理が美味しくなるし。でもね、山葵はだめなの。もう、絶対だめ」 「どうしてかな?」 いろんな食材を使えるし料理上手であるし、辛い物も食べられるのに山葵だけだめというのが結人には疑問だった。 「そんなのわかんないもの。どうしてもあの味っていうか、鼻に来る辛味が駄目!!」 響子は唇を突き出して少々拗ねている。その仕草がいつになく幼くて結人は笑う。 「いいもの、山葵に栄養なんてないし。回転寿司に行ってもにぎりたてが食べられるわよ。山葵抜きでお願いしますっていうと、周りの人は同情的な目で見るけど」 「………それは数少ない利点だね」 結人はしかたなく頷いた。 「それくらいなくて、どうするのよ?せめて作りたてを食べても罰は当たらないわ!」 「誰も、罰なんて当てないって……」 「結人!」 響子は唸る。それに結人は我慢ならなくてお腹をかかえて、馬鹿笑いをした。笑いが納まらない結人を恨めしそうに見る響子にごめん、と言いながら笑いを納める。 「いいけどさ。誰にでも駄目な物くらいあるよね」 「結人は大概好きよね」 「姉ちゃんの作る物なら何でも美味しいから」 さらっと言う結人に響子は目を丸くする。けれど次の瞬間には嬉しそうに目を細めた。 「誉めても何も出ないわよ」 「いらないよ。あ、くれるならお菓子がいいな」 「お菓子くらい、いつでも作ってあげるわよ?」 「そうだよね、だから姉ちゃん好き」 「私だって何でも美味しそうに食べてくれるから、結人好きよ?」 二人でくすくすと笑いあう。 にこやかに今日あったことや、結人のサッカーの練習や試合の話をしていると時が過ぎる。 響子は出された物はほとんど食べるのが心情である。それは普段を料理を作る人間だからなのか、元々の資質の影響であるのか………どちらもなのだろうが、残すことが許せないのだ。 しかし、皿に巻物が残っていた。結人には御前だけでは足りないかもしれないと後で注文した分が多かったようだ。 結人もお腹いっぱい食べて満足したように、お腹をさすっていた。 「残っちゃうわ」 響子は巻物を見て切なそうに、宣う。 「………」 「出されたものは全て食べないと駄目よ。もったいないお化けが出るわ!」 「姉ちゃん……」 もったいない、というのが姉の口癖だ。 「ご飯を残したりすると、寝ている間に夢の中で、もったいないお化けが『もったいな〜い!もったいな〜い!』って現れるのよ、結人」 お前はいつの時代の人間だ?と結人は思う。 確かそんなCMをやっているが、あれを信じる人間が果たしているなんて夢にも思わなかった。冗談で言ってるにしては姉は真面目過ぎた。 頭いいくせに、理数系なのに、どうしてこんな思考回路をしているのだろうか?理解できない………。結人はしみじみと思う。 そんなことを真面目に俺に言うなよ、姉ちゃん。 結人は心の中で叫ぶ。けれど、決して口には出さなかった。 「わかった。ちゃんと食べるから安心してよ。だから今日の夢に、もったいないお化けは出てこないよ」 結人は断言した。 そう言わないと、「結人、怖いよ……」と言って、夜中結人の部屋に枕を持って押し掛けて来ないとも限らない。いや、来るだろう、この姉なら……。結人としてはそれは願い下げであった。何が悲しくて姉と一緒に寝なくてはならないのだろうか?否、一緒に寝るのが嫌なのではない、というか困る、めちゃくちゃ困るのだ。 以前怖い映画を見たとかで、夜中に襲撃された事があった。それはもう、強制的に布団の中に入り込み抱きついて離れなかった。………必然的に、眠れなかった。 誰が寝られるというのか? 血の繋がった姉だけど、姉だけど………柔らかくて華奢な身体が密着して、甘い香りが鼻をかすめて、さらさらした髪の毛が顔に触れて、寝息が伝わって来るんだぞ!と誰かに叫びたい、言い訳したい気分になった。 だから、結人はそんな事を繰り返す気は更々なかった。 響子ににっこりと笑って、お腹はいっぱいで苦しいが残ったお寿司を口に詰め込んだ。そしてごくりとお茶を飲んで飲み込む。 ふう。 これ以上は食べられないよ、と心の中で思う。 それでもあの体験よりは増しだった。 全く、この姉の弟は身が持たない。 けれど、誰にもこの場所を譲るつもりはないけれど………。 そんな事を思う結人の未来は、多分、明るい。 END |