「HONEY」1





 若菜家の朝はまるで戦争のようである。
「寝坊した〜〜〜!!!」
 と母、佐知子が出勤するためスーツを着込み、書類がたくさん入る鞄を掴みキッチンに入ってくる。
 その前に、ご飯とお味噌汁、鮭の焼いた物、卵焼き、ほうれん草のお浸しが並べられた。
「ありがとう、響子!」
 母親は娘響子に感謝の言葉をかけると、急いでご飯をかき込む。口に入れてはお茶を飲んで、母専用の湯飲みに飲める温度で入れられている、ごちそうさまと言い捨てると、洗面台に走っていった。簡単に化粧してばりばりのキャリアウーマンに変身するためだ。
 母、佐知子はある私立大学の助教授であった。専攻は心理学。
 忙しい毎日のせいで、夜遅くなることも日常茶飯事とくれば、朝寝坊もするだろう。よって、娘がその役目を受け持っても何ら不思議はなかった。
「おはよう、響子」
 次は父親の、人也。これで「ひとなり」と読む変わった名前である。穏和そうな瞳で、可愛い娘に朝の挨拶をする、至極一般的な雰囲気が漂う。
 父親は味噌汁を飲み、
「美味しいね。響子の味噌汁が一番美味しい」
 と通常なら妻に言う言葉を娘に惜しげもなく使う、ちょっと感覚の変わった人だった。
 卵焼きをつまみ、お浸しを食べて、にっこり微笑んでいる父は時間に余裕があった。9時半始まりの会社は家から近い。通勤時間は30分ととても恵まれた環境である。そんな父は現在課長という立場にある管理職である。
 最後に起きてくるのは、弟の結人。
「ぎゃ〜〜〜遅刻する!!!!」
 白いシャツは着て、制服のブレザーは手に持っている。ネクタイはまだ結ばれていない。
「ほら、結人」
 響子は結人の前にご飯と味噌汁を置く。
「姉ちゃん、ありがとう」
 お礼もそこそこに結人は急いで食べ始めた。寝坊することが多いくせにご飯はたくさん食べないと気が済まない育ち盛りの少年だ。あっと言う間に食べ終えてお茶も飲み干し洗面台へ走って行くが、母と一緒になり、私に譲りなさい!と言われて、押し出されているのが毎日のことなので誰も気にしなかった。(つまりは父親と娘の響子が。本人同士は真剣だ)
 準備を整えて、それぞれが出発する時間になると、
「行って来ます〜。今日遅くなるから!」
「行って来ま〜す。今日は練習ないから!」
「行って来ます、父さん、鍵お願いね。あんまりのんびりしていないでよ」
「いってらっしゃい。わかってるよ、響子。父さん今日は9時くらいになるから、ご飯先に食べていてね」
 などの会話がなされる。
 誰がどの台詞かなんて見ないでもわかるだろう。




 昼間はあんなに晴れていたのに、夕方から雨がぽつぽつ降り出し、現在は本降りである。
 窓から見える景色は薄暗く、雨の跳ねた滴がガラスに丸くなって張り付いている。
 結人は練習が元々なくて良かったと思っていた。
 これで中止だったら、ストレスが溜まってしまっただろうと予想される。身体を動かすことが大好きで、サッカーが大好きで仕方がない結人はサッカー馬鹿だった。
 小さい頃から父親に連れられて公園で遊んだり、父からスポーツを一通り教えてもらった結人はその時からサッカーが好きになった。父はスポーツ万能で何でもこなす。多分結人は父親の血を色濃く継いでいる。顔は母親似であるが、間違いなく中身は父親似であった。
 お腹空いたかな・・・。
 結人は先ほど帰ってきたのだが、姉より早かったためおやつがなかった。買い置きのお菓子が少しあったが、(若菜家は非常食などが多く保存されている。お菓子、カップ麺、冷凍食品、レトルト食品など。個々に忙しい人間の固まりのため、個人の負担にならないように、いざという時はそれでしのぐことに決まっている)結人は姉の作るご飯やお菓子が大好きであったたため、市販のお菓子は味気なく少し摘む程度であった。
 その時、結人の携帯が鳴った。
 そう、若菜家は全員携帯を持っている。いざという時のため、連絡ができるように持たされているのだ。
 先日友達に入れてもらった「モーニング娘」の軽快な曲が流れる。
 着信を見ると、姉の響子からだった。
「はい、姉ちゃん?」
『結人?今どこ?』
「もう、家に帰ってるよ」
『本当???あのね、今駅なんだけど、迎えに来て!』
「はあ?どうしてさ」
『雨降ってるでしょう。傘持ってきてなくて』
「傘くらい駅でも売ってるじゃん。どうして買わないの、姉ちゃん」
『だって、ビニール傘買うなんてもったいないじゃない。どうせ長持ちしないしさあ。それなら、いい傘買うわよ。でもこの駅ではそんなの売ってないんだもの。だから、結人迎えに来てよ』
「姉ちゃん・・・」
『だって、走ればいいかと思ったんだけど、荷物あるから重いし』
 結人が走れば5分の距離も姉が走れば8分だろう。その間にずぶぬれになるだろうことは必至だ。しかし、荷物とは何か?
「荷物って何?」
『学校の近くの薬局で特売してたのよ、結人!あんまり安いから洗剤とラップ買っちゃった』
「・・・」
 嬉しそうに言う響子に少しだけ結人は頭を抱えた。制服姿で黙ってればミステリアスな美人なのに特売で洗剤買うなよ・・・。そして、そんなどこかの主婦みたいな会話をするな!と結人は思う。しかし姉の主婦感覚は絶対後天的なもので、家庭環境の賜物であることはわかっていたため、何も言わないでおこうと思う。
「わかった。迎えに行く。だから、なるべく駅の構内で身体冷やさないようにして待ってて。5分で行くから」
『ありがとう、結人!』
 響子の嬉しそうな声が聞こえたので、側にあった上着を取ると玄関まで走った。



 結人が走ればやはり5分で駅まで付いた。
 きょろきょろと見回すと駅の隅にある大きな柱に響子は立っていた。
 長いストレートな黒髪は湿気を含んでいるようで、さわったらしっとりと指に絡みそうだ。大きめの漆黒の瞳はどこかを見つめている。もう成長は止まったわと言っているが身長も高くて結人より若干小さいくらいだ。どこを見ても父親に似ていた。そして、頭の方が母親に似ていて、すこぶる出来がいい。近隣の進学校に危なげもなく合格するとそのまま首席続けている。
 結人の目から見ても姉は大層美しかった。
 自分とは似ていなくて、二人で歩いていると血のつながりなどどこにもないようで、年上の彼女に見えるようだ。
「姉ちゃん!」
 呼びかけると響子ははっとして結人を見上げた。
「結人!」
 響子が嬉しそうに笑いかけてくる。結人は何だかそれだけで満足だった。姉の手からスーパーの白い袋を奪うと、行こうと則す。響子はうんと頷くと結人と並んで歩き出す。
 持ってきた傘を響子に渡して、結人は自分の傘を広げる。が、響子はもらった傘をそのまま手に下げて、結人の傘に入った。
「姉ちゃん?」
「この方が濡れないわ」
 そんなことは絶対にないはずである。1つの傘に2人は定員オーバーだ。肩とか濡れてしまうかもしれないと結人は思って聞く。
「濡れない?姉ちゃん?」
「大丈夫だって、結人と一緒の方がいいの」
 くっついた方がいいよねと腕まで絡めてくる。すると結人の身体に響子の身体が密着して結人はどうしたらいいかわからなくなる。実の姉だろうと、女性に至近距離で身体を触れさせられれば、男子中学生が困るのは、当然だろう。
「姉ちゃん・・・」
 結人は困ったように、言い淀む。
「何よ結人?」
 しかし、姉は何も気にしないようだ。それは、そうだろう。姉にとって、弟は弟以外の何者でもないのだから。男だという認識がないのだ。弟は男に属していない、結人にとっては迷惑な話である。
「帰ろう」
 はっきり言って、結人の困惑など物ともしない姉はにっこり笑った。それに結人が勝てた試しがない。いつもいつもそれに負けっ放しである。
 黙ったままの結人に響子は思案顔。
「帰ったら、おやつに何が食べたい?今晩の夕飯は何がいい?」
 途端に結人は顔を上げる。
「ホットケーキがいい。ハチミツととっときのジャムとフルーツいっぱい乗せて。夕飯はカレーがいいな」
「了解。リンゴと缶詰のパイナップルがあったからそれを乗せようね。カレーは野菜たっぷり入れようか?ポテトサラダと後は何にしよう?」
「プリン作って」
「デザートはプリンなの?いいわよ、じゃあそうしよう、結人」
 すっかり食べ物で釣られた結人であるが、幸せなのでまあいいかと思った。姉の作るおやつがすごく楽しみである。どうしてあんなにふんわりとホットケーキが焼けるのか今だもって結人には謎だ。母親が昔作ってくれた時はもっとぺちゃんこだった。それを母に言うと拳骨をもらうので言わないけれど、間違いなく若菜家の家庭の味は響子の味である。母親の料理の腕は無惨なので、どこで姉が習ってきたか知らないが、とても美味しいのが不思議である。
 もっとも、響子としては学校の調理実習から始まり、本などで勉強して作る練習と実地の賜物であり、それこそ初めの頃は今一歩の物を食べさせたのだが、結人の頭の中からは綺麗さっぱり抜け落ちていた。まあ、料理はセンスであるので、響子はセンスが良くてなおかつ努力したのだろう。
 雨の中、相合い傘で歩く二人はどこか彼氏彼女に見えた。
 しかし、本人達は気にしなかった。
 結人にしても、密着することに困惑しただけで、一緒に傘に入ることなど問題でもなかったし、響子に至っては何も感じていない。
仲良きことは美しきこと。
 その言葉がぴったりの姉弟だった。
 明日もきっと、朝の戦争から始まり、平和な夜があるのだろ。


 

                                           END


 

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