「あれ、早く着いた?」 遅刻するのではないか、と駆け足で待ち合わせ場所に出向いてみればほんの5分前に着いてしまった。普通であったら問題はない。5分前は早くもなく遅くもなく上出来な部類だろう。 しかし、こと進藤ヒカルには問題だった。 彼が約束より早く来ることなど稀である。いつも遅刻ばかりして約束相手に怒られている。仲の良い気安い相手であれば苦笑しながらも許してくれるが、今日の相手はそうも行かない相手だった。 君は約束の時間も守れないのか、手合いは守れて自分の時間に遅れてくるのはおかしいだろうと、目を険しく釣り上げて激しく責められる。 その相手は塔矢アキラ四段。囲碁界の有望な若手棋士である。その凛々しくて端正な顔と相まって人気は鰻登りだ。雑誌で特集を組んで紹介されたため、今は碁に興味のない女性にも知られる地味な囲碁界の救世主と言われている。 ヒカルもその容姿と段は低いが実力が相まって塔矢と同じくらい人気が高いが本人の意識には欠片も残っていなかった。 そして、アキラとの待ち合わせでヒカルは以前「早く来るな、待っているな」と言われたことがある。そんな横暴なことがあるか、と思ったが彼は頑固に言い放った。しかし、そのアキラにとっては忠告が必用であることが今まではなかった。相変わらずヒカルが遅刻していたからだ。 そんな経緯を経て、今日はほんの5分だがヒカルが先に着いてしまっていた。 たった5分である。 そして、そういう時に限ってアキラがいない。アキラは時間に厳しいから、きっとその内さほど待たずにやってくるに違いないと判断して、ヒカルはアキラの忠告など頭の隅に追いやってその場で待つことにした。 「すみません………」 「え?」 「あの、ここに行きたいんですけどわかりますか?」 地図の紙を片手に困ったように微笑んでいる男性がヒカルの前に立っていた。紺色の洒落たスーツを着こなしていることから社会人とわかる。それも新人ではなく、そこそこ慣れた感じがスーツの着慣れた風情とあわせたネクタイから漂っていた。ヒカルも手合いでスーツを着る機会があるから、少年の年齢であっても男性から滲む雰囲気などがわかった。 ヒカルはその地図を覗き込んでみると、印の付いている場所は知っている所だった。確かに知らない人間にとってはわかりにくい場所にある。ヒカルは安心させるように男性に微笑んで、目の前の道路を指差す。 「ここはですね………、あのビルわかりますか?高層ビルを右に曲がって真っ直ぐ行った大通り、そこにある歩道橋を渡って………そこで渡らないと少しの間信号とかないんですよ………。それで真っ直ぐ行けば割合目立つ建物だからわかるんじゃないかな?ちょっと変形したビルなんです」 ヒカルは丁寧に、自分のつたない日本語で説明をする。いつも言葉が足りないと言われているからこれでわかるだろうかと不安に思いながら。男性は、ふんふんと頷きながらヒアルの話を聞いて確かめるように自分の腕で教えられた方向を指差しながら反復する。 「………うん。ありがとうございます。助かりました………」 そして、行き方を頭にたたき込んでヒカルに頭を下げた。 「えっと、わかりました?それなら、良かった」 ヒカルは手を振って、照れながら頭をかく。 「ええ。とてもわかり辛かったんです、すみませんでした。これで大丈夫だと思います」 「いいえ」 男性が地図をポケットに入れてこれで迷いませんと微笑するので、ヒカルも安堵してにっこりと微笑んだ。そんなヒカルを男性は目を細めながら見つめて、肩に軽く手を置いた。 「お礼にジュースか珈琲でも奢りますよ。………そこに缶で悪いけど、自販機あるし」 ヒカル達がいる角から距離にして20Mだろうか。道路沿いに自動販売機が見える。 「そんな、道教えただけだし」 「感謝しているんですよ、なかなか聞き辛いから困っていたんです。それを君は親切に教えてくれた………」 遠慮するヒカルに男性は強引さを滲ませない丁寧さで誘う。 「ね、缶珈琲くらい奢らせて下さい」 人好きのする笑顔を浮かべて男性は優しくヒカルを促すように背中に手を回す。 「………はい」 すぐそこに見える自販機。そこならもしアキラが来てもすぐにわかるだろう。 ヒカルは頷いた。 「どれがいいですか?」 二人は自動販売機の前で並んでいた。 男性は小銭を入れて、ヒカルを見返す。 自販機に珈琲、コーラ、紅茶、炭酸飲料、果汁飲料、スポーツ飲料と見本の缶が並ぶのを見上げて、首を傾げながらヒカルは自分が好きな炭酸飲料を正直に指差した。 男性は頷いてそのボタンを押す。 ガチャンと落下音がして落ちてきた缶をヒカルに渡し自分も珈琲のボタンを押して受け取り、ヒカルにどうぞと言ってプルタブを開けて一口飲み干す。 ヒカルもそれを見てうんと頷いて缶をあおると、炭酸の爽やかな刺激が口中に広がる。そのままごくごくと飲み干して、缶を自販機の横に設置されたゴミ箱に入れる。男性も同じように缶をゴミ箱に入れたので、改めてヒカルはお礼を言った。 「ご馳走様でした」 「どういたしまして、こちらこそありがとうございました。………これ、受け取ってもらえますか?」 男性は上着のポケットから名刺入れを取り出して一枚抜き取りヒカルの目の前に出す。 「私の名刺です、何かあったらどうぞ。これでも仕事柄いろんな事していますからお役に立てると思いますよ」 ヒカルがそれに目を落とすと、名刺の肩書きにグラフィックデザイナーという文字が綴られていた。 「頂けません」 「どうして?」 「どうしてって………、俺みたいな子供にそんなもの渡しても意味がないと思うし………」 ヒカルは困ったように眉を寄せて、大きな瞳で男性を見上げる。 「君は、本当にいい子だね」 男性はにっこりと上機嫌に笑う。 「丁寧に道を教えてくれるくらい親切で、遠慮深い。普通だったら利用できるものならもらっておこうと思うくらいなのに。………益々気に入ったよ」 「………俺、別に遠慮深くなんてないです。いつも図々しいって言われるし考えなしだって小言いわれっぱなしで………」 遠慮深いなんていつもとは正反対の言葉だとヒカルは思う。 お前は遠慮しないって和谷に言われている。アキラにも何かある事に説教をされている。行儀が悪いからで始まって、細かいことばかりだ。 「そうなの?」 「はい」 「でも、それは君がその人たちに心を許してるからじゃないの?ちゃんと初対面の人間にはそんなことしないでしょう」 男性はくすりと口角を上げて笑う。 「………」 言われてそうだろうか、と首をひねりながらヒカルは考える。 つまり、甘えられる相手には遠慮しないのだろうか。人を選んで甘えているということになるのか?ヒカルは、少しその考えに納得をする。 人見知りしない自分だが、やはり無理を言うのは馴染みの人ばかりかもしれない。 「だから、もらってくれないかな?」 「でも………」 「だったら、君の名前を教えてくれれば、同等だと思わない?」 「そんなものですか?」 「ああ」 男性はヒカルの手に名刺を握らせた。ヒカルはそれを見て男性の名前を覚える。 「樋口さん?」 「そう、樋口です。お仕事はグラフィックデザイナーだけじゃなくて、いろいろしてます。君は?」 「俺はヒカル、進藤ヒカルです」 「ヒカル君かあ………。うん、君にぴったりだね」 樋口はにこにこ微笑んでヒカルを見る。それにどう反応していいか迷いながらヒカルもどこか強引なのに憎めない樋口を見つめて苦笑する。 強烈に強引でも憎めない人物をヒカルは知っていたから………。 「進藤!君は何をしているんだい?」 「塔矢!」 突然割り込んだ声にヒカルは振り向く。するとアキラが眉間に皺を寄せて睨むようにこちらを見ていた。 「こちらは?」 「え?樋口さん………?」 アキラが樋口を機嫌が悪そうに睨み上げるのでヒカルは訳もわからず首を傾げた。そんな二人の反応の差に樋口は苦笑を浮かべる。 「ヒカル君、それじゃあ、ありがとう。またね」 樋口は手をふって、その場から去っていった。それをぼんやりとヒカルは見送り自分も自然に手を振り返す。 「進藤………?」 低い声で、地平線を漂う機嫌を隠そうともしないでアキラはヒカルを呼ぶ。 「え?何、塔矢」 しかし、アキラの機嫌が悪い理由がわからないヒカルはぱちぱち瞳を瞬かせて小首を傾げた。 「さっきの人は誰なんだ?それに、約束の場所から少し離れているだろう?」 君は何をしていたんだ、とアキラは目で聞いていた。 「え?樋口さん。俺お前を待っててさ。その時、道聞かれたからちょうど場所わかったし、教えたんだ。そしたら、お礼に缶ジュースでも奢るって言われて遠慮したんだけど………、待ち合わせ場所の目の前の自販機だったから、お前来ればすぐにわかるし………。で、なんかよくわかんないけど名刺までもらって、さ」 ヒカルは先ほどからの行動を思い返しながら言葉にする。 「君、何をナンパされてるんだい?」 「何がナンパなんだよ、道聞かれただけだって!」 ヒカルが大きく反論する。しかしアキラは眉間の皺を寄り深くしてヒカルを見下ろす。 「普通は聞いたら、ありがとうで済むだろ。缶ジューズ奢るなんてありえるかい?下心がなくて、そんなことしないよ」 「男の俺に何の下心があるって言うんだよ?お前、考え過ぎだ!」 「だったら、名刺なんて渡さないだろ?おかしいだろ?」 「そりゃ、名刺はちょっとどうかと思うけど。心配症過ぎるんだって!ぜってー気を回し過ぎ」 「そんな鈍感なの君くらいなものだ。………君、名前呼ばれてたじゃないか?まさか、名刺渡してないだろうね?」 アキラはふと気が付いた。 名刺をもらったら渡すというのが一般常識だとヒカルが思っている可能性がある。 あの男は「ヒカル君」と呼んでいたではないか。 「渡してないって。………無闇に渡すなって言われてから渡してない。指導碁でも仕事のことでも話を通したかったら棋院へ連絡すれば済むんだからって」 過去にそれで問題が起きたため、和谷や伊角に説得されて以来ヒカルは名刺を無闇に渡さなくなった。現在も名刺はもっているが、どうしても必用な時に限る。 「だったら何で名前をあの男が知っている?」 「名刺もらう時に、聞かれたから………そうすれば対等だって思って」 「名刺を渡さなかった事は賢明だと思うけど、そんなに簡単に名前を名乗ってはいけない。不用心過ぎるだろう!」 「そんな事言っても、逢った全ての人なんて疑えるか。第一、あの人そんな悪い人じゃないぞ」 ヒカルは樋口の印象から強引だが悪い人間ではないと思ったからこそ、名前を名乗ったのだ。それについて、アキラに言われるのは腹立たしかった。 「君は、どうしてそんなに馬鹿なんだ」 が、アキラはそんなヒカルの言葉を呆れたように吐息を付いて受け止める。 「もう少し警戒心とかもて。誰構わずに懐くな。人は疑ってかかれ。ほいほい付いていくな」 「子供扱いするな!」 唇を尖らせて不満そうに、ヒカルは叫ぶ。 「子供の方がましだな。何度も言えば覚える。知らない人には付いていってはいけないという忠告は守るだろ?………そんなこともできない君の頭は鳥並か?」 「鳥とは何だ。そりゃ、お前は頭がいいかもしれないけどさ。俺はこれでも人間だから、猿より上だ」 進藤ヒカル二段、どこかずれている。 「3歩、歩けば忘れる鳥頭じゃねーぞ。もしそんなんだったら囲碁なんてできねーじゃん!」 ふん鼻をならしてアキラを見上げヒカルは言い放つ。 「誰もそんなことが言いたいんじゃない。君の頭脳も記憶力も囲碁だけに注がれている事くらい知っている。………棋譜は一度見れば記憶しているしね」 「おお、棋譜ならどれだけでも覚えてるさ。覚えようとしなくても、忘れられないってのかな?」 「………」 いつの間にか、囲碁の話になっている。 所詮ヒカルに何を言っても無駄であるとアキラはしみじみと思う。囲碁以外に関することは全く無自覚過ぎるのだ。 アキラは瞬時に頭を巡らした。 たった5分一人で立たせておくだけで、連れていかれそうになるヒカル。 絶対に一人で街中で待たせるべきではないのだ。 しかし、時間ぴったりに来るというのが実は大層難しいことくらいアキラにだってわかる。自分だって大凡約束の10分くらい前に着くようにするだけで絶対できる訳でもない。 結論としてはアキラが先に来ているしかないのだ。 これからヒカルと約束する時は、時間的余裕を見て絶対に自分が先に来れるようにしておかねばならないと、アキラは心中誓う。 自分の生涯唯一のライバルは、本当に人気があり過ぎる上に無防備過ぎた。 まさかライバルの環境までも自分が思いやる事になるとは思いもしなかった。 塔矢アキラ四段。若干16歳。 これからも、ライバルと共に歩む人生に苦労は耐えない。 おわり。 |
![]() |