「明日咲く月」トラウマ1




 

 その日臨也は帝人と一緒に出かけた。以前訪れたサンシャインに行くためだ。一日では見切れないからと、もう一度行こうと約束していたのだ。楽しい日になる予定だった。
 だが。穏やかに話しながら、歩いていると突然それは起こった。
 
 キイイーーーー。ドン。
 悲鳴のような音がしたと思ったら、衝撃。鈍い音がした。
 
 車体の前方が大きく潰れている。大型トラックと正面衝突したようだ。トラックは急ブレーキをかけたが間に合わず少し曲がったところで止まっている。
 周りは騒然となって、騒ぎ出した。
 
「……っ。やっつ。ヤーーーーーーーーーー」
 帝人が悲鳴というより絶叫して頭を抱えしゃがみ込んだ。
「帝人くん?帝人くん?」
「ヤーーーー、ヤダ」
「帝人君?」
「……、いやだ。たす、け」
 臨也が呼びかけても目をつぶり、いやいやと力無く首を振る。
「ヤ……」
 臨也が帝人の身体を支えても見えていないかのようで、遠くにサイレンが聞こえてくると帝人はがくがくと身体を痙攣させて、やがて意識を失った。
 臨也はすぐにタクシーを捕まえた。そして、数少ない友人の場所を告げる。
 後部座席で帝人を抱えてなるべく振動を防ぎ青白い顔を見る。
 車が今でも苦手だろう帝人だが、今は意識がないから不満を言うこともない。だがそれより、もっと事態は重大だった。
 
 
「新羅!」
 駆け込んだのは高校時代から友人であり闇医者でもある岸谷新羅だった。
「臨也?入って」
 電話で急患を連れていくことは告げてある。
「ああ」
 臨也は帝人を抱えながら室内に入り、診察室のベッドの上に寝かせた。
「で、事情を話して」
 新羅は診察しながら、臨也に説明を求めた。痙攣を起こしたことなど症状は伝えてあるから新羅の動きはよどみない。
「ちょうど交通事故を目撃したら、絶叫して。周りも認識できなくて、遠くでサイレンの音が聞こえて痙攣を起こして意識を失った。帝人君の両親は交通事故で亡くなった。帝人君自身も同乗していて、奇跡的に軽傷で助かった。この3月のことだ」
 まだ、ついこの間のことだ。帝人が笑っているから忘れがちになるが、立ち直るにはなんと短い。
「……それ、相当なトラウマだよ」
「うん。交通事故を見るとどうなるかは俺も知らなかった。多少のことはわかっていたんだけど。今でも帝人君は車に乗るのが苦手だ」
「車か。病院は?」
「もちろん、行ってる。事故で頭を打ってるから脳波も調べたし」
「トラウマなんて現れてみないと認識できないよ。引き金が何かも。交通事故の瞬間をふつうの人が見る確率はとても低いんだ。本人だって知らなかっただろうし」
 新羅は流れるように処置をしながら、深刻な顔で告げた。
「点滴もしておくし、安静にしないといけない。が、目覚めた時も厄介だよ。だって、この子、それならまだ事故の中にいるんだよ?」
「……!」
 臨也は息を飲んだ。
 
 
 
「さてと、臨也も少し落ち着いて。お茶でも飲んで」
 白衣を翻し、新羅はカップを持って戻ってきた。
 重い息を吐いて、臨也は珈琲を飲む。
「でさ、彼が臨也の大事な子なの?昔自慢していた」
「……あれか」
 あまり嬉しくてつい新羅に見せた写真。沙耶香と帝人が笑顔で映っている画像は携帯にたんまりとあって、新羅に見せて自慢した。
「そうだよ。可愛いだろってさんざんのろけてた。臨也にあるまじき上機嫌だった」
「可愛いんよ、本当に!それに、可愛がってるのは俺だけじゃないし。家中でこれでもかって可愛がってる。帝人君になにかあったら、間違いなく家族からぼこられる」
 別に怖くないが、それによって帝人とあわせてもらえなくなるのは遠慮したい。あの家族ならそれくらいする。
「家族がぼこる?」
「そう。家族中帝人君のこと大好きなんだ。息子の俺よりずっと大切なの。これは帝人君が一人残されたからじゃない。昔からのこと」
「臨也のとこって変わってる?うちも相当だけど、おもしろいよ」
 新羅の父親は変人である。ついでに付け加えるならば、ただの変人ではない。
「いろいろ変わってるというか、でも、普通だよ。家族仲よくて他から羨ましがられるくらい。まあ、中心にいる二人の人間のおかげだったんだけど」
「臨也の家族が人も羨む家?なのに、なんでそんな風に育つかな?」
「俺は元々の資質だから。環境だけで直らないんだよ。でも、そのおかげで歪んでいても歪み切ってないよ。だって、つなぎ止めているものがあるから」
「それが帝人君ね。お母さんもか」
 昔の写真を思い出し、新羅が納得する。見るからに可愛い親子が写っていた。写真からでも人柄が伺えた。
 臨也が膝の上で両手を組んで長い吐息を付く。
「帝人君さ、姉の子供だから俺の甥に当たるんだよ、戸籍上は。けど、姉も両親を事故で亡くしてうちに養子に入った。本当は従姉なんだ。帝人君はだから血縁的には従姉の子供?今は俺の実家に住んでる。昔から仲よくてさ」
「へえ……」
 興味深そうに新羅が相づちをうつ。実際臨也の家庭の事情など聞いたことがない。
「姉が帝人君を連れて頻繁に帰ってきてて、家族みたいに育った。小さくて可愛くて俺を慕ってくれて。八歳も離れているけど、そんなの気にならなくてずっと親交あって。俺が家を出てもメールくれたり、なにかの折りにいろいろ二人で贈ってくれて、俺も送り返してさ。俺の人間らしいとこは二人に向いていた。二人にしか向いてなかった。けど、いるだけすごいだろ?」
「……頷いちゃう自分が友人としてあれだよね〜。でも、よかったじゃない。そういう相手がいて。僕のセルティだよ」
 新羅にとって大事なものはただ一つだ。最終的に彼女さえいれば後は誰を裏切っても切り捨てても構わない。
 それと同じ存在がいるのなら、人間として幸せだろう。本望だ。
 臨也は一度頷いて、続けた。
「でも、交通事故で姉とその夫は亡くなった。一人帝人君が残された。……その日は帝人君の十四回目の誕生日だった。折原の家で一緒に祝うために、車でこちらに向かっている途中のことだった。対向車線のトラックがつっこんできた。トラックでは乗用車はひとたまりもない。運転席と助手席にいた二人は即死に近かったらしい。後部座席にいた帝人君はあらゆる偶然が重なって軽傷だった。救急車が到着するまで、今にも死んでいく両親と一緒に車の中に閉じこめられていたらしい。帝人君事故直後瞬間意識が飛んだけど、すぐに意識を取り戻したらしいから。想像するだけで、気が狂う」
 重いため息を臨也が付く。
「臨也……予想より酷い状態かもしれない。それだと帝人君がまだいる事故の最中は、気が狂いそうな状態だ」
 事故の後遺症というものはある。事故に巻き込まれて目の前で人が死んでいく体験をした人間が、その後外へ出かけられなくなったりする。
「最悪なんだよ。心に深い傷を負うのに条件が揃いすぎなんだ。自分の誕生日に事故で両親を失って、自分はその死んでいく足音をまざまざと聞いていた?なにもできずに?十四になったばかりの子供が?」
「ああ……でも、帝人君はしっかりしていたらしい。もちろん、多少ぼんやりしたり考え込んだりしたけど、だからといって誰かに悲しみを訴えることをしなかったと聞いている」
「その状況でしっかりしている子供の方がおかしいだろ?なんで子供が誰にも泣きつかない?」
「……喪主も無事に努めたって。両親ともどもいなくなったから、いざ誰に連絡するとか家の貯金とか、様々なこと帝人君が知っていて聞かれることは全部答えたらしい」
「……臨也。間違いなく、帝人君の傷は癒えてない。傷が癒える期間が短いからじゃない。根本的な部分で、癒えてない」
「……」
 新羅の言葉は臨也の心をえぐった。
 なんとも言えない雰囲気が漂った時。臨也は異変に振り返った。


「……っ!」
 ベッドの上で帝人が痙攣している。臨也は数歩で距離を縮める。
「帝人君?」
「や、……あああ!」
 ショック状態だ。臨也は躊躇なく帝人の口に指をつっこんだ。がりと歯が当たって噛んだ衝撃で血が滲む。
「帝人君?帝人君?俺を見て」
「……や、やっ」
「帝人君?」
「……」
 血の気の引いた青白い顔で怯えたようにびくびくと震え続ける身体が痛々しい。ぎゅうと目を瞑り世界を閉じている帝人が切ない。
「俺がいるから。どこにもいかないから。帰ってきて」
 そっと囁くように柔らかい声をかける。帝人に声が届くように祈りながら。
 
 その横で新羅が臨也の指を消毒していた。帝人が舌を噛まないように自分の指をとっさに差し出した臨也。とっさの判断を誉めてやっていいだろう。
 
「沙耶香さんも竜也さんも死んでしまったけど、帝人君は生きているんだよ」
 帝人の白い額にそっと臨也は自分の額をあわせる。
「だから、こっちに戻ってきて」
 触れているところから伝えられるように、心から願う。
「帝人君……!」
 やがて、帝人の瞼がかすかにふるえる。
「帝人君?聞こえる?目を開けて?」
「……っ、ぁ」
 唇が何かを形作り、目尻から涙がこぼれた。頬に伝って落ちていく透明な滴。
「なに?帝人君。もう一回言って……」
 そっと閉じられていた瞼が開き、その反動で再び瞳から涙がぽろりと流れた。数度瞬いて、帝人と視線があった。
「……いざ、にぃ?」
 掠れた声。小さな頃のつたない呼び方に臨也の方が泣きそうだ。
「そうだよ。帝人君。俺だよ」
「ほっ、と?」
「ああ。どこにもいかない。そばにいる。一人じゃない」
「臨兄、臨兄、臨兄!」
 帝人は力無い腕をそれでも伸ばして臨也に抱きついた。そしてぼろぼろと涙を流す。臨也は両手でしっかりと抱きしめた。すでに右手は包帯を巻いて治療が済んでいる。
「臨兄!臨兄!」
 首にすがるように腕を絡める帝人を安心させるように優しく抱きしめ、背中を撫でる。
「うんうん、俺だよ。今度はちゃんといるよ。一番苦しい時一緒にいられなくて、ごめんね」
「臨兄、臨兄、臨兄……!」
 帝人は涙をこぼして、臨也を離したくないといわんばかりに抱きつく。
「大丈夫。これからは一緒だから」
 臨也が耳元で小さくだが真摯な声音で何度も言い聞かせると、やがて力が抜けてぐったりと臨也の腕の中に落ちた。
「ああ、寝ちゃった?気力使ったからね。落ち着いたみたいだから、今度はゆっくり眠らせてあげよう。臨也も一応怪我しているんだから、少し休みな。帝人君が気づいた時臨也が怪我して顔色悪かったら気にするだろうし」
「わかった。なあ、帝人君と一緒でいい?」
「まあいいけど。……ああ、なるほど。それじゃあ仕方ないよね。居間のソファに移動しよう」
 帝人は意識がないが、臨也の服を掴んでいる。まるで子供が親にどこにもいかないでと言っているようだ。
 臨也は帝人を抱き上げて居間のソファに運ぶ。そして自分はソファの端に座り、帝人の頭を自分の膝におき、身体はできるだけソファにおさまるように寝かせてやる。
 とても甲斐甲斐しい態度に、新羅の方が痒くなる。自分が今まで見てきた臨也は偽物ではないかと疑いたくなるほどだ。だが、大事な存在の側にいる時なら誰でもそうなる。だから臨也も一歩彼と離れたらいつもの酷い男に戻るのだろう。
「ほら、今度は紅茶。ミルクも砂糖も入れてあるから。これでちょっとカロリー取って」
 臨也は渋々だがありがたく飲むことにした。









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