「La vie en rose」

〜 お試し版です〜



「新一」
 自分を呼ぶ声がする。
「新一……?」
 優しい優しい声だ。心地いい声音はもう馴染んだもので自分を安堵させる働きがある。
「……快斗?」
 工藤新一は黒羽快斗の声に意識を浮上させて、ふわりと瞼を開けた。
 どうやらソファで本を読みながらうたた寝していたらしい。間近で顔を覗き込んでいる快斗の顔に気付いて新一はにっこり微笑んだ。
 その寝起きの無邪気な微笑みに快斗は目を細めて、新一の頬にそっと羽根のようなキスを送る。
「……かい、と」
 くすぐったそうにそれを受ける新一は一度目を閉じた。
「日当たりが良くて気持ちいいのわかるけど、せめてブランケットを掛けてね」
 風邪ひくだろうと快斗は心配そうに新一の耳元に囁く。
「うん。寝るつもりじゃなかったから。今度から気を付ける」
「気を付けてね。これからお茶にしようか?」
「うん」
 新一は軽く頷いて起きあがる。


 二人の新しい生活が始まった。
 ここは日本から遠く離れたアメリカの地だ。
 なぜ、このようなことになったのか、と言えば。KIDと新一が駆け落ちして……本人承諾のもとKIDが浚って……翌日、二人は工藤家を訪れた。その際に快斗はKIDではなくマジシャン黒羽快斗として、挨拶に来たのだ。
 
「いらっしゃい」
 有希子は嬉しそうに微笑んで二人を迎える。すでに事情だけは優作から聞いていたのだろう。対応も落ち着いたものだ。
「やあ。快斗君」
 優作も昨夜のことなど、なかったように穏やかに笑う。
 そんな両親に新一は泣きたくなる。
 自分の好きにすればいいと言ってくれた父親と大丈夫よと励ましてくれた母親。この両親に育てられて自分は確かに幸せだった。
 感謝がこみ上げて涙が滲みそうになるのを、微笑みで誤魔化した。
 客間に移りそこでお茶を飲みながら4人は談笑した。そしてしばらく和やかな時間を過ごしてから快斗は表情を改め背筋を伸ばして優作に向き直った。
 快斗は挨拶をしにここに来たのだ。
 このまま新一を浚っていいわけがなかった。
 工藤家の大切な一人息子である新一だ。
 もう、絶対に自分から離せないけれど親元から引き離すのだから、両親にしっかりと願い出ておくべきなのだ。
「優作さん、新一をアメリカに連れていきたいのです」
 快斗は真剣な顔をして、決意を告げた。
「……アメリカか。それもいい手かもしれないね」
 一方、優作は口元をゆるく上げながらそれに好意的に賛成した。
「そうね、アメリカなんて今じゃあ飛行機ですぐね?いつでもあえるわ」
 有希子も反対することなく、手を叩き笑顔で承諾した。
「……父さん、母さん」
 新一は二人を切なげに見つめた。
 自分勝手に出ていく自分にどうしてこんなに優しいのだろうか。
 今更選択を変えることはできないが、それでも申し訳ない気になる。

 黒羽快斗はマジシャンである。日本だけではなくアメリカや世界で活躍する若手実力者だ。仕事を考えると、実はアメリカを拠点に置く方が都合がいい。実際アメリカには家も買ってある。
 そこで新一と暮らしたいと快斗が望み、新一も同意した。新一としては快斗が行く場所ならどこへでもついて行くつもりだった。快斗としては、新一の健康と安全第一を考えかつ、自分と一緒にいられることを考えた結果の結論だ。
 
「まあ、日本を離れた方がいいだろうな」
 優作はそう同意もした。
 日本にいるには新一は有名過ぎた。
 まだそれほど顔を売ってはいないとはいえ、彼の容姿は一度目にすれば忘れることなどありえない。
 社交界では知る人は知る存在であるし警察にも知られ過ぎていたため、日本で二人で暮らすには無理があった。
 工藤家の子息が何故、家を出て快斗と暮らすのか。
 日本にいて社交界に顔を出さない訳にもいかなくなる。
 その点、海外に行っていれば、留学しているとでも何とでも言えた。工藤家に縛られる必要はなくなる。
「うん、そうしなさい。協力は惜しまないよ」
「父さん」
「いいじゃないか。留学とでも言っておけば誰もが納得してくれる。この家に縛られることはない。好きになさし」
「……ありがとう」
 父親の言葉に新一は心から感謝の言葉を口にした。
「まあ、どこにいても私たちの子供に変わりはないからね」
「そうよ。それさえ忘れなえければ、大丈夫よ。だって私たちの可愛い子供ですもの。どこにても、誰と一緒でも、いくつになっても愛しているわ」
 愛されている。こんなにも両親に愛されている。それを今実感するんなんて……。
 新一は言葉が出なくて、ただ頷いた。
 その新一の肩に手を回し、快斗も真摯な瞳で二人をひたと見つめる。
「約束します。必ずと。新一を連れていくのですから、幸せにすると誓います」
 両親の前で、まさに息子さんを下さいというよりプロポーズのような宣言をした快斗を、優作と有希子は、柔らかく笑いよろしくお願いと答えた。
 一方、快斗に後ろから抱き込まれるような格好で新一は頬を染めていた。
 
 
 
 
 
「ぼっちゃま」
 二人が甘い雰囲気を作っている中へ些か申し訳なさそうな声が響いた。
「寺井ちゃん」
「寺井さん」
 振り向いた先には寺井が立っていた。寺井は現在快斗の付き人をしている家族同然の人物だ。元々は父盗一の付き人であったのだが、今では快斗の付き人兼マネージャーになっている。KIDをしていたことも知っていることから……親子共々の協力者であった、事情はすべて話してある。
「頼まれていたものを持って参りましたが、いつも仲睦まじいですね」
 手にした紙袋を少し持ち上げてみせながら、寺井は目を細めて己の主人とその恋人を見る。寺井は決して揶揄している訳ではないのだが、新一は途端顔を赤くする。
 その素直な様子が余計に寺井の顔を和ませる結果となるのだが、新一は生憎知らなかった。
「いらっしゃい、寺井さん」
 新一は赤くした顔を隠すようにしながら、挨拶した。
「ありがとう、寺井ちゃん」
 紙袋を両手で受け取りながら、快斗は寺井に椅子へ座るように促す。
「お茶でも飲んでいって」
「ありがとうございます。では、遠慮なく」
 寺井は新一の向かいに座り、優しげな目で頷いた。快斗はそれを認めキッチンへと向かった。
「新一さまも、お変わりありませんか?」
「はい。大丈夫です」
「それはようございました。けれど、無理は禁物ですからご自愛下さいね」
「わかりました」
 寺井と新一はここアメリカで顔をあわせたことから始まる。新一が快斗とともにアメリカへと渡った空港で寺井が待っていた。車を手配させて新一に負担がかからないように待ちかまえて寺井だったが、主人の愛する人間に出会うことに内心は心躍らせていた。
 そして、その人物を見て納得した。
 それ以来、寺井は新一のためにも動くこととなった。快斗と話しあって決めたことが多々ある。
 アメリカは日本と比べて治安が悪い。二人が暮らすこの場所は高級住宅街にあり他よりはずっと安全であるけれどそれで安心が確保できている訳ではない。慣れていない場所で外国人が一人で行動するには危険が伴う。たとえ言葉が不自由なく話せたとしても、不慣れな外国人は目立つ。犯罪大国だ、街には大小の犯罪があふれている。引ったくり、恐喝など日常茶飯事だ。
 どんな人間も飲み込む人種のるつぼであるアメリカであっても、新一は埋もれることなく目立つだろう。
 その容姿に纏う雰囲気が、人目を引く。
 元々資産家の息子として誘拐の危険性があった新一だが、それがなくなった訳ではない。新一を知るものからすればその価値は計り知れない。日本よりアメリカでの方が誘拐はし易しだろう。それをたくらむ人間がいないとは言い切れない。
 日本でさえ外出の際は護衛兼運転手が同行していたのだから。
 その上、健康上の問題として新一はこの場所の気候に慣れるまでが大変だった。
 只でさえ身体が弱いというのに、環境の変化が及ぼす影響は大きい。気温、湿気、季節、大気、水など住み慣れた国との違いは知らない間に身体に現れるだろう。まして、食べ物も違うとなれば、体調を崩し兼ねない。
 
 その結果、新一は現在一人での外出は一切していない。どこに行くにも快斗か寺井が同行する。どこかに行きたいならば、二人のうちどちらかと一緒でない限り新一は一歩も外へは出ない。
 さすがに、敷地内の庭だけは歩くことも許されているが、それでも気を付けるように言われている。例え庭であっても、あまり外側へは行かないように。
 身体のこともあって、家の中で過ごすことがほとんどだから、寺井が新一のため、多忙な快斗のために頻繁に必要な物を買ってくる。
 食べもの、日用品、生活雑貨、本など。
 現代なら、ネットで頼めばあらゆるものを買うことができるが、それを利用するには一つだけ問題があった。それは、家に新一一人だけで受け取ることはさせてはならないということだ。快斗がいて受け取るなら便利であるが、それなら本人が買い出しに行った方が簡単である。まったく利用しないという訳ではないが、気軽には使えない。
 業者の人間を信用することはできない。
 そんな気がない人間でも新一を見てしまえが、邪な気が起きないとも限らない。
 つい先日は熱を出して寝ていた新一だ。日本にいる時もよくあることだと新一は笑ったけれど、寺井も快斗も心配した。薬はどれがいいか、食べ物はどうしたらいいかなど悩んだ。
「そういえば、先日熱を出した時果物なら食べられるだろうとおっしゃっていましたが、どれが結局よかったですか?」
 その時寺井は手に入る良さそうな果物を大量に購入したのだ。
「どれも美味しかったですよ。……そうですね、苺やマンゴーとか桃とか冷やして食べたらとっても美味しかったです。喉越しがよかったからかな?」
 柔らかな触感なら熱を出して気力がなくても食べられる。しっかりと噛まなければならないものはたとえ好きでも避けたい。
「そういうものかもしれませんね。アイスクリームは冷たくて甘くて口で溶けるからいいようですし。バニラやチョコ味以外にお好きなものがあったら買ってきておきますよ?」
「……でも、快斗が好きだから冷凍庫に常備されているし。それで十分です」
 新一は小さく苦笑した。
 確かに甘いものが得意な快斗であるから、冷凍庫にはアイスだけでも大量にあるだろう。
「けれど、好みとかありませんか?好きなメーカーとか普通はあると思います。ぼっちゃまも、そうですし」
 実際、アイスなら何でもいいという人間は少ない。好きな人間は好みの味やメーカーがある。好きなら美味しいものが食べたいと望むのが人情だ。
「本当に、特にないんです。気を使わせてごめんなさい」
 食欲の薄い新一だから、真実かもしれないが、それはそれで問題だった。
 いかに栄養のあるものを食べてもらうか、悩みどころなのだ。快斗も試行錯誤して料理を作っているが、たくさん食べさせるのは未だ達成されていない。もっとも、快斗が作るものは美味しいといい食べているのだから、いい兆候であるが。
「新一さまは、普段我が儘を言われないんですから、これくらいいいんですよ」
 優しい眼差しで寺井は言う。
 新一の人間性で驚くところは、人に我が儘をいわないことだ。この年齢で自分を律することができる人間はそういない。
「そうかな?」
 困ったように笑みを浮かべる新一に寺井ははいと首肯した。それに新一は軽く肩をすくめてみせ、わかったと頷いた。
「はい。何か不自由があったら遠慮なくおっしゃって下さい」
「ないですよ」
「けれど、外出もままならないのは、お嫌でしょう?」
 即答する新一に寺井は言い募る。
 外に出るな、という意見を新一は文句も言わずに聞いている。しかし、どんな人間でもストレスがたまるだろう現状だ。それをないと言ってしまうことを見過ごすことはできない。心優しい人間は、我慢強いのだから。
「ううん、平気。寝込んでベッドの中から出られないことも頻繁だったし、小さな頃も外にはあまり出なかった。いつも送り迎えがついていて寄り道もほとんどなかったし。まあ親しい友達とかは別だから、遊んだけど。最近はそれでも我が儘言って現場とか行ってたな」
 新一が自分を振り返り過去を説明した。だから、ストレスなんて感じないと。
 新一の説明に寺井は言葉に詰まる。
 資産家の子息、とう枠だけでは軽くおさまらないくらい特殊な育ちをした新一にどう返していいか迷う。
「決して、親が厳しかった訳じゃない。それが必要だったって知っている。だから、今も平気だよ」
「新一さま」
「本当に。不自由なんてしていない。十分に幸せなんだ。信じられない?」
「……いいえ」
 真摯な眼差しで寺井を見つめる新一に嘘は見あたらない。真実だと確かにわかる。これ以上の追求は新一を否定することに繋がるため、寺井は信じますよと答えた。
 


 

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