「こんにちは」 ふと声がかけられて城之内が顔を上げると入り口の扉を片手で開けて笑顔の新一が立っていた。その背後にキッドがいるのはもちろん当然だった。 「おう、こんちは。ちょっと久しぶりか?」 「そうだな、3週間ぶりくらい?」 新一が首を傾げながら前回オフィスに顔を出した時期を考える。 新一とキッドは仕事の打ち合わせなどでオフィスに来る以外は自宅での仕事が主だ。あまり出歩く事が望ましくないため在宅勤務が常であり、それでも月に一度はオフィスに顔だけは出すのが決まり事だ。 新一はゆったりと城之内の側まで歩み寄ると目の前で止まり、自分より少し頭上にある顔を見つめた。そして、綺麗に微笑む。 「はい、城之内」 城之内の鼻先に差し出されたのは、黄色の花一輪。セロファンに包まれオレンジ色のリボンが結ばれている。 「……俺?」 不思議そうな城之内に新一は瞳を和らげてこくんと頷いた。 「そう。今日はヴァレンタインだからな」 今日は2月14日。ヴァレンタインデーだ。親しい間柄でカードや贈り物を渡しあう日。 だから日頃の感謝を込めて城之内にもらって欲しいと新一は言う。 「サンキュー」 城之内は頬を緩ませて一輪の花を受け取った。素直に嬉しい。 花先に顔を寄せると、黄色の可憐な花びらから僅かに甘い匂いがする。春の香りだ。 「ガーベラ?」 「ああ。ガーベラの花言葉は希望、辛抱強い、常に前身。……城之内らしいだろ?花屋で見かけて、絶対これにしようと思ったんだ」 花屋の色とりどり咲き乱れる花々の中で自分にはこれだと思い出してくれる幸せ。 城之内は満足そうに微笑むと、もう一度ありがとうと呟いた。心まで暖かい気持ちや心使いが伝わってくる。 城之内は我に返ると徐に自分の机の引き出しから小さな包みを取り出した。 「俺も、これ。日頃の感謝を込めてもらってくれ。……キッドもな」 小さな紙の包みは上部がピンクのリボンで結ばれている。城之内は一つを新一に、もう一つを無言で新一の背後にぴったりと控えている男、キッドに差し出した。 「ありがとう、城之内」 「……ありがとうございます」 包みを手にした鮮やかな笑顔の新一がキッドを見上げると表情の読めないキッドが小さく頷きながら受け取った。それでも若干口元が笑みを浮かべている事がわかって城之内は安堵する。 「へへ。俺と静香からなんだ。二人で焼いたクッキーなんだけどさ。静香からも逢えた時に渡してくれって言われてて、また逢いたいですって伝言」 「そうか。静香さんにもありがとうと言っておいてくれ。俺でよければいつでもいいし」 照れくさそうに頭をかく城之内に慈愛を込めた瞳で新一は見つめる。 「ああ。と、海馬社長」 城之内から視線を移し先ほどから無言で仕事に勤しむ社長を新一は呼んだ。 まるで今あった事など聞こえていないかのように、さりげなく無視していた海馬に新一は近寄ると机の前で立ち止まりいつもの笑みを浮かべた。 「こんにちは、海馬社長」 「ああ。息災で何よりだ。……報告か?」 オフィスに新一とキッドが顔を出す時は、仕事が常だ。海馬から呼び出される事もあれば出来上がった仕事を持ってくる事もある。月に一度顔を見せるという約束事はあるが、それは3週間前に果たしている。 海馬が視線を上げて青い瞳で新一に話を促す。 「今日は違います。……はい、社長にも」 新一は後ろ手に持っていた花を差し出した。城之内に渡したものと同じガーベラ。セロファンに包まれ濃紺のリボンが結ばれている。花の色は蒼。 明らかに、海馬にあわせた色だとわかる。海馬の瞳の蒼。 「……」 一瞬瞳を見開き驚きを表すが海馬はすぐに元に戻すと、ああと受け取った。 ただ日頃の感謝を形にと新一が渡す花を海馬とて無下に突き返したりなどしない。まさか自分に城之内同様花が渡されるとは思ってもいなかったけれど。 「いつもお世話になっていますから、気持ちです。常に前身というのは、社長らしいでしょう?」 なあ、キッドと新一は後ろを振り返えり同意を求める。キッドははいと頷いた。無駄な事を一切言わないキッドらしく言葉を発しても必用最低限だ。 「……俺は何もないぞ」 海馬はぼそりと言う。 城之内は予め渡すために用意していたようだが、海馬は全く気にしていなかったから何もない。 「何もいりませんよ。普段仕事を回して頂いているだけで十分です」 海馬から何かもらうなど考えもしていない。 新一から言わせて貰えば、自分のような厄介な事情を持つ者に何の条件もなく仕事を回してくれる海馬に感謝してもしたりないくらいなのだ。 気は心とはいえ、こうしてヴァレンタインだからと持ってきた花一輪では示せないほど。 深く感謝している。 返せるものもないけれど……。 「そうだ、キッド。マジックやって。キッドならそれで十分お礼になるから」 自分だけではできなくても、キッドのマジックなら見応えがあるはず。 いい事を思いついたと新一は手を叩いてキッドを見上げた。その視線を受けてキッドは軽く頷く。 「私でよければ」 キッドは基本的に新一には逆らわない。逆らうという次元ではなく、彼が望む事はキッドにとって幸福なことなのだ。それに新一ができもしない我が儘を言う事など今までなくその点はキッドは理解している。しかし、もし新一が死ねと言えばキッドは躊躇なくそれを実行するだろう。決して新一が言うことはありえないけれど……。 それほどキッドにとって新一は絶対だった。 「今できることは簡単なものですが……」 キッドは新一から一歩下がり、部屋の空いている空間へ身体を移す。そして優雅に一礼した。 「それでは、短い時間ですが夢の世界にお付き合い下さいませ」 珍しく接客用のキッドの声と調子を聞いて城之内も海馬も目を見張る。 唐突なリクエストだから何も準備していないはずだが、キッドはカードを取り出した。時々奇術師の仕事をするキッドは簡単なものならいつでも披露できるようポケットに用意している。 流れるようなード捌き。 左右、上下に手から手へとカードが渡る。 今までマジックというものを見たことがあるけれど、こんなに綺麗なものなんだと城之内は思う。 一種、芸術的といていい。 まるで生きているようにキッドの手の中でカードが移動して行く。 「一枚選んで下さい」 城之内に差し出された裏返しのカード。扇形に広げられていて、城之内はそのうちの1枚を抜き出す。 「よく、覚えて下さい。そして、ここへ戻して」 城之内はカードを覚えてキッドが持つカードの束に戻す。それを何度もシャッフルして城之内にも一度カードを切らせ、キッドは目を閉じて伏せたカードの中から1枚選び出す。表を向いたカードは……。 「どうですか?」 「ああ、このカードだ。ハートのキング……」 テレビでも見る極一般的なカードマジック。けれど、自分が目の前で体験するとこんなにも感動するものなのかと城之内は思う。密かに妹の静香にも見せてやりたいとシスコンらしいことを考えたが。 次々にキッドはマジックをしていった。 大げさではないけれど、その手から紡がれる夢が確かにある。 それを、城之内も海馬も新一も見守っていた。 やがて終わりを告げて、キッドは一礼する。新一は満面の笑みで拍手を送る。 「ありがとう、キッド」 「……見事な腕前だな」 城之内と海馬の賛辞にキッドは僅かに笑みを浮かべるが、表情はあまり変わらなかった。しかし、新一がキッドに近づき良かったぞと抱きつくと、キッドは至極幸せそうに目を細めた。新一はキッドの背中を叩いてすぐに離れると、目を丸くしている二人に振り返りにっこりと微笑んだ。 「キッドからの、感謝の気持ち。受け取ってくれよな。……じゃ、帰ろうか」 新一はそう言い切ると、キッドを促して去っていた。 今までになく、嵐のような訪問だった。 思わず無言で手もふらず見送ってしまった。城之内は二人が消えた扉を見つめていたが、海馬に視線を向ける。そこには、同じように扉を見つめる海馬の姿があった。 自分だけではないのだと、城之内はおかしくなる。 滅多に見ることのないキッドの笑み。 キッドに抱きついた新一。 思い出すと、心が温かい。 「仕事の続きするか……」 城之内は仕事に戻るため椅子に座ろうとするがその前に海馬の低い声が響いた。 「……お前はあるのか?」 「何が?」 「感謝の気持ちというものだ……」 「……」 城之内は海馬の言いたいことがわかった。 そう、キッドのマジックで忘れ去っていたが、新一は日頃の感謝を込めて花を海馬に渡していた。キッドもマジックを披露して。 自分は新一とキッドにクッキーを渡している。 自分の分はあるのか、と海馬は言いたいのだろう。 城之内はちらりと横目で海馬を見た。そこには些か憮然とした表情の海馬がいた。自信満々で不遜な顔とは少しだけ態度が違う。 城之内は一度ため息を付くと、諦めたように机から先ほど二人に渡したと同様の包みを掴みだした。上部がピンクのリボンで結ばれた紙の袋。中身は静香と作ったクッキーが入っている。ただ、二人に渡した包みより大きかった。 「ほれ。いつもお世話になってる社長さんへ。俺達兄弟妹からだ。……モクバと一緒に食べてくれ」 城之内はそう言いながら海馬の手の中に落とした。 海馬は手の中の包みを見つめて、口元に笑みを浮かべると城之内に向かって尊大に言い放った。 「いつもあれだけ世話をしてやっているにしては、ささやか過ぎないか?」 「お前な……」 「まあいい。……食事くらいは奢ってやる。貴様ら兄妹の食べたいものを考えておけ」 にやりと、意味深に海馬は笑う。 「……お返し、な訳?……お前が?」 胡乱げに城之内は聞き返した。 海馬がヴァレンタインのお返し。想像が付かない。第一、新一から花を貰った時は俺は何もないぞと言ったはずだ。 「そうだが、いらんか?」 「……ありがたく、頂きます」 偉そうな態度の海馬に城之内は諦めて承諾した。 食事をするのを断るのは勿体ない。静香に美味しいものを食べさせてやりたいし。どうせモクバも来るだろうし……。 城之内がそう結論付けると海馬は珍しく瞳に満足そうな色を乗せた。蒼い色が優しい色を浮かべている。 城之内はそれを認めて、内心驚く。 なんか、ヴァレンタインはいつもと違う事が起こるのだろうか?それとも日頃の感謝を表すから普段見えない部分が見えるのだろうか……。 心の中でしきりに首を傾げて悩む城之内がいることを海馬は知らなかった。 数日後の麗らかな午後。 4人で楽しそうに出かける姿が街で目撃された。 END |