圧倒されるほどの芳香と月明かりに加え僅かな照明で陰影ができ、実際の色より深く染め上げられた花の姿。目の前には色とりどりの薔薇がある。見渡す先まで続いている艶やかな花。 新一はそれを見た瞬間、息を忘れた。 そして、それを見せた張本人である隣に立つ男を見上げる。 「………」 「………何?」 「どうして?」 「そんなの決まっているでしょう。約束だからですよ」 「約束?したっけ?」 新一は首を傾げながらあるかもしれない記憶の破片を蘇らせようと思考するがとんと覚えがない。 「………忘れてしまいましたか?」 「………」 自分がこの男との約束を忘れるなど、ありえないのだが。 内心そう思いながら眉根を寄せて新一は動揺する。 「確かに、新一は約束したつもりはないかもしれませんが、私は確かにその時に決めたのですよ」 「いつ?」 「貴方を好きだと告白した日です。貴方に贈ると決めたのです。百万回のキスと薔薇を」 「………お前って実は馬鹿だよな」 新一はなんだと苦笑しながら息を吐いた。 自分の記憶力を危うく疑ってしまったではないか。 KIDが自身で決めた約束は二人の想いが通いあった日のことである。新一の問いかけで百万本の薔薇を贈るのは困難であるし迷惑であるだろうと聞いたら、KIDは自分なら薔薇園ごと贈ると言ったのだ。その後の百万回のキスは現在も実行中であるが………。 いつものようにビルの屋上での逢瀬。 予告通り宝石を盗み出し警察を巻いて、白いマントをはためかせて逃走経路であるビルの屋上にKIDは降り立って新一まで近付く。毎回警察だけでなく新一の元に贈られる格別難解な暗号になった予告状には二人の逢瀬の場所が書かれている。次回の約束をしたためた、まるでラブレターだ。一輪の薔薇も添えられていることから、愛しい相手に贈る手紙としては、たとえ怪盗から名探偵へ当てたものであろうとも合格ラインだろう。 「KID………」 「こんばんは、新一。お待たせしましたか?」 「いや。さっき来たところだ」 「そうですか?………でも冷えていますよ」 KIDは新一の指を取り、冷えている指先に口付ける。このような強風の中外気に晒されていると、僅かな時間でも身体は冷え込む。冬などは身体の芯まで凍えるくらいなのだからいつもいつも防寒には気を付けて下さいと言い続けていた。今は冬ではなく、春から初夏に向かう季節であるが、澄んだ空気は以外に冷たい。KIDはその腕に新一を抱きしめて自分の腕とマントで包むように暖めた。 「………なんか、暖かい」 新一はその頬に当たる上着に顔を押しつけるようにしてすり寄ると、背中に腕を回した。 しばらくこうしていたいな、と互いに思う。 相手の体温を感じる時、伝わってくる熱が心地よくて離したくなくなる。 「新一………」 「………?」 そっと大好きな声音で名前をよばれて新一は顔を上げた。 「これからお連れしたい場所があるのですが、いいですか?」 「いいけど、どこ?遠いのか?」 「そうですね、それほど遠くはありませんが近くもないと言ったところでしょうか。それまで私と一緒に夜空を飛びませんか?」 「行く。行きたい」 KIDと夜空を飛ぶ事。それは新一のお気に入りだ。 大好きな恋人の体温に包まれながら眼下に見下ろす都会の夜景は格別に綺麗だと思う。ひっそりと静まる夜中が一番いい。昼間の喧噪を忘れた闇の中、月光を浴びながらその化身であるKIDと共に夜空の海を漂うのは新一だけの特権だ。 「それでは、失礼。………よろしいですか?」 「ああ」 KIDは新一を抱き上げて重力を感じさせない程身軽にフェンスの上に立つと、夜空に飛び立った。 やがて白くて小さな建物、ローマ建築を模した薔薇園の四阿に降ろされた。 「でも、嬉しい。ありがとう、KID」 新一はにこりと微笑んで恋人らしくお礼をする。少し背伸びをしてKIDの首に両腕を回し顔を近づける。目を伏せて軽く唇に触れた。 一回。 二回。 三回。 小さく触れて、今度は長く味わうように深い口付け。 四回。 新一が睫毛を揺らしてしがみつくように身体を預けてくる。KIDはそれを嬉しげに受け止めていたが、抱きしめるように腰へ回した片腕に力を込めてもう片方の手で新一の頭を支える。 深く、深く。 吐息も意志も心も。 何もかも絡めあって、奪い合って、与えあって。 その瞬間だけ、互いは互いだけのモノで何者も脅かすモノはない。 時間さえも、二人を妨げない。 「お気に召しましたか?」 唇をほどいてKIDは潤んだ瞳で見つめる新一に聞いた。 「うん」 頷く新一に満足そうに微笑むと、再び今日何度目かになるキスを贈る。 これも、約束。 きっと死ぬまで贈る約束。 折角の薔薇園を二人が堪能するのは、まだまだ先時間が必用だった。 END |