恋愛をしていると、ウキウキする。 逢いたくて、でも逢えないと寂しくて眠れぬ夜を過ごす。 せめて声だけでも、なんて思ったり。 夢の中で逢えたらいいのになんて殊勝に思う。 逢えたら逢えたで嬉しくて、顔を見るだけで満足で話をして愛を囁いてキスをして過ごす時間は瞬く間に過ぎる。 短い逢瀬は甘美な夢。 「でも、こういう場合はどうなんだろう?」 毎日逢える訳でもない。 相手の真実の姿も名前も知らない。 過ごせる時間は限られていて、月の輝く夜。それも彼が犯行をした日だけ。 これで世の恋人は満足するのだろうか。 世間一般からいえば、遠距離恋愛の方がましであると言うだろう。 好きだからこそ、それでいいのかと。 辛い恋など世の中に溢れるくらいある。 人に隠さねばならない秘める恋。誰にも言えない辛い恋。相手に届かない絶望的な恋。叶わない儚い恋。同じ形の想いなど一つもない。 新一は頭上に輝く月を見上げながら、吐息を付く。 「別に、不満なんてないけど」 確かに、なかなか逢えない事や相手について知らない事は猜疑心を沸き上がらせて破局する可能性が高いだろう。 例えば、自分の知らないところで浮気しているのではないか。 自分を騙しているのではないか。 飽きたのではないか。 面倒になったのではないか。 重荷になっているのではないか。 考えれば切りがない。 恋をしていれば、誰でももつ漠然とした不安。 己の中にあるモノは何だろう。 胸に手を置いて自身に問いかけるように目を閉じる。 これっぽっちも不安がないなんて嘘だ。相手を信じているから大丈夫なんて欺瞞だ。 もっともっといつでもどこでも逢えたらいいって思うに決まっている。それを望む心は確かにある。 でも。 それ以上にKIDを見ているのが好きなのかもしれない。 月夜に現れる魔術師。 存在自体が夢か幻かみたい。 恋に落ちた事が奇跡。 つまりは現実味が薄いということだろうか。 好きでも、大好きでも遠くにある月に恋するような気持ち。 手が届いたはずなのに、手の中にはない。 あやふやで掴めない恋。 それでも、恋している気持ちが嘘でも思いこみでもないことくらい知っている。そうでなかったら、こんなに感情が高ぶらない。心待ちにしてこの場所に来たりしない。 「KID………」 新一は月に向かって片手を伸ばす。見ているだけなら掴めるような銀色の彼の守護神がその先にある。 「そんな寂しそうな声で、どうしましたか、新一」 振り返る視線の先に純白の怪盗、新一の恋人が立っていた。 例えば自分がKIDという怪盗でなかったら。 例えば彼に出逢わなかったら。 例えば彼が自分を見てくれなかったら。 例えば普通の日常生活で全く別の出会いをしていたら。 例えば、彼がもう逢いたくないと言ったら………。 ビルの屋上で月明かりだけの下、彼との逢瀬はKIDにとって唯一の至福の時だ。 恋人と逢える時間はとても短くて、いつもあっという間に時間が過ぎる。 怪盗であるKIDは偽りの姿でしか彼の前に立てない。 素顔を晒すことも名前を名乗ることも、太陽の下で逢うこともできない。 どれだけ真実を告げてしまいたいか。 どれだけ自分を知って欲しいか。 しかし、それはしてはならないことだ。 KIDの信念、女神の名をもつ宝石を探し砕くこと。父の意志を継いで白い衣装に身を包んでから、絶対にやり遂げると決めたこと。それに伴い父の命を奪った組織から狙われKIDの周りは危険に満ちている。何時何が起こるかわからない。 犯罪者であるKID。 危険に満ちているKID。 本当なら、名探偵とよばれる彼に相応しくない。 己の危険性を考えたら近付いてはいけない。 それでも、KIDはもう手放せなかった。 KIDの愛してやまない名探偵は、姿形だけでなく存在そのものが心惹かれる程美しい。その蒼い瞳に見つめられると、甘いしびれが身体全体を伝う。 恋とは不思議だ。そして、偉大だ。 こんなにも心奪われる存在に出会えるなんて思いもしなかった。危険だとわかっていても逢うことを止めることはできない。逢えばそれだけ強くなれる。強くあれる。 「絶対」なんてありえないのに、「絶対」を可能にしようと思う。 弱くもなるが強くもなる。 彼がこの現状をどう思っているのかと不安に心配になる。あまりにも側にいられない恋人だ。何を、できない。 屋上に降り立つ度に、もし彼が来ていなかったらと思う。 彼がいない場合、事件の要請があったのか、体調が悪かったか。理由はどちらかだ。しかし、その場にいない事を確認するとこんな恋人は嫌だと、こんな恋はたくさんだと言い出すのではないかと疑心暗鬼に捕らわれる。 わかっている。 己が降り立つと笑顔で迎えてくれる度。嬉しそうに微笑んでくれる度。 それは杞憂だと。 その瞳を見れば自分を好きでいてくれると素直に伝わってくる。それがわからないほどKIDは馬鹿でも鈍感でもない。 己の気持ちが変わらないだろう自信があるのと同じくらい彼の気持ちを疑うなどできない。それを疑う事は彼に対する侮辱だ。 怪盗と相反する探偵である彼であるが、何よりも代え難いこの世の唯一の真実を見極める瞳は表面に惑わされることはなく心の奥底に眠る本人さえ知らない自分を見つめる。だから、対極に位置する怪盗であるとか自身が探偵であることは問題にならない。 一人の人間として見てくれている。 恋情を感じてくれている。 それがどれほどKIDを幸せにしているか彼はわかっているだろうか。月下の奇術師、平成のアルセーヌルパンと呼ばれるKIDだが、日本警察の救世主には全く形なしだった。 「KID………」 新一が振り返って瞬時に寂しげな悲しみを帯びた表情を変えて嬉しそうに微笑んだ。 「こんばんは、私の名探偵」 KIDはその憂いを秘めた新一の顔に眉をひそめながら白い手を取り甲に口付けを落とした。毎回変わらぬ気障な仕草で恋人にKIDは挨拶をする。 「今日も無事だな、良かった」 新一はKIDの全身を眺めてどこにも怪我がない様を認めると安堵したように吐息を付く。白い衣装やマント、シルクハットは僅かに汚れたり怪我をしたら言い逃れが出来ぬ程目立ち隠すことができない。それでも心配を掛けたくないのか怪我をしても隠して気付かれないようにするKIDを知っていたから新一は一概に安心できないのだが、いくら何でも銃で撃たれたりすればわかる。逃走してから時間もそれほどかかっていないことから、何もなかっただろうと新一は予測していた。 「もちろんですよ。………心配しましたか?」 「………したに決まってる。しない訳ない」 「すみませんでした。でも、大丈夫ですよ?………ほら」 KIDは新一を引き寄せて抱き込み身体を密着させる事で証明した。実際触れれば誤魔化しようもない。血の匂いは簡単に消せない上、僅かな違和感にも新一は敏感だ。 「………本当だ」 KIDの胸に顔を埋めて新一は目を閉じ背中に腕を回して抱き付く。 「………でしょう?」 「ああ」 こくんと頷いて、新一はKIDを腕の中から見上げた。 月光が新一の瞳を照らして輝かせる。 神秘的で綺麗な蒼い瞳に見つめられると心臓が跳ね上がる。しかしKIDはそんな自身をポーカーフェイスで押し隠し平常心を装うと新一の頬に指を滑らして撫で上げる。愛撫するように耳元を掠めて漆黒の絹糸のような髪を梳くと新一は気持ちよさそうに睫毛を振るわせて、小さくKIDと声に名前を乗せた。 その小さな囁きにKIDが誘われるて顔を寄せると新一はそっと瞼を閉じる。静かに触れた唇は何度か軽く慰めるように降りてきて、やがて深く重なった。 互いの吐息も意識も混じる口付け。 そこから流れてくる想いは、嘘がない。 (この手に掴んでいると、ここにいると心に体に刻んで………。実感させて。幻みたいに消えないで………) (名前も顔も正体さえ明かせない偽りの姿を持つ何もできない恋人の自分だけれど、絶対に離せない………。愛想が尽きたと言われても手放せない) 二人の想いが交錯する。 口に出さなくても触れている部分から感じる想いは確かにあり、見当違いな不安を伝える。ぎゅっと洋服が皺になるほど力を込めて縋り付くように、大切な存在を誰にも渡さないように抱きしめる。 「………新一」 「何?」 「愛しています。愛していますよ」 真摯な声と心でKIDは真実の言葉を形にする。 「俺も。KIDを愛してる。愛している………」 何度言っても、言い合っても満ち足りるということはない。どれほどの言葉を尽くしてもきっと全ては言い表せない。 この気持ちが目に見えればいいのにと幾度となく思う。 そうすれば、こんなに歯がゆいことはない。心を知っていてもわかっていても人間だから不安になる。 疑っている訳でもなくて信じていない訳でもなくて。 好きなら好きなだけ高鳴る想いに正比例して心に潜み浸食する暗い不安。 恋をしていれば誰もが経験する心。胸がときめき歓喜する時もあれば、押しつぶされそうな重くて深い想いの淵を覗き込む時もある。 自分で知りたくなかった醜い嫉妬や不安や執着に飲み込まれるのではないかという、相手に一番知られたくない心をひた隠していてもいつかは隠しきれなくなる。 (嫌わないで………) (拒絶しないで………) けれど想いは溶ける。 「愛している」と呪文のように繰り返し囁けば、不安は溶けて混ざって愛情に変化する。 だから、探偵と怪盗の恋も世の恋人達と同じように育まれるだろう。 やがて恋の蕾は、艶やかに見事に花開き咲く。が、それはもう少し先のこと。 END |