「心理学的恋愛の分析」




 強風が吹き抜けるビルの屋上。
 遠くに見えるのは闇夜に浮かぶネオンだけ。
 耳に入ってくるのは風の音と時折木霊するサイレン。
 新一は張り巡らされたフェンスに背を預けて腕を組み視線をどこか彼方へ漂わせて思考の海に沈んでいる。
 上着や髪を悪戯な風にはためかせたまま蒼い瞳を彼方へ向けている彼は見る者があったなら、ここにはない意識を自分に向けたくなると同時にしばらく眺めていたくなるほど美しかった。

 「どうしました?名探偵」

 その何者も侵さなかった場に純白の怪盗が降り立った。
 清涼で怜悧な存在感が一瞬にして屋上に漂う。
 新一は顔を上げてKIDを真っ直ぐに見つめた。KIDはその思考していたためか存外真剣な眼差しを受けて新一の側まで歩みを進めた。もう一歩で手を伸ばせば触れる距離で立ち止まり、再び新一を伺うように覗き込む。

 「こんばんは、名探偵。どうしましたか?考え事ですか?」

 いつものように優雅に腰を折り挨拶をして新一に微笑する。
 犯行を終えた後の怪盗は逃走経路の中継地点にビルの屋上を選ぶ確率が高い。それを割り出して赴くのは、すでに習慣化されたようなものだった。
 KIDを捕まえる訳ではなく、ビックジュエルを受け取って世間話に花を咲かせる。どこから見ても敵同士、怪盗と探偵には見えない関係だった。

 「KID」
 「はい」

 名前をよぶとすぐに心持ち首を傾げて新一の言葉を待つKID。そんないつもと変わらず穏やかな風情で自分の前に立つKIDに新一は口を開いた。

 「………吊り橋の実験を知っているか?」
 「ええ。生理的な興奮状態を感情の発生と勘違いする事です。吊り橋という危険な場所では動悸、不安感、緊張感を感じます。その状態を恋と勘違いする事でしょう」

 ダットンとアロンの有名な実験である。
 人間はドキドキしたり息が詰まるような状態にある時に異性に逢うとその人に惹かれてしまう傾向がある。
 突然問いかける新一に律儀に答えながらKIDはどうしたのかと内心首をひねる。吊り橋の実験を新一が知らないはずがなく、KIDが知らないとも思っていない。知っていてあえて問いかけ答えさせる新一の意図はどこにあるのか。

 「単純接触効果を知っているか?」
 「はい。ある物事や人に繰り返し接触するとその対象に対する好意度が増すとい現象です」

 ザイオンスの研究でお互いが単に接触するだけでも好意を持ちえるという証明がされている。

 「パブロフの犬は?」
 「有名ですが、条件反射です。最初は無関係だった刺激と生理的変化を結びつけてしまう事………」

 エサを与える時にベルを鳴らしているとベルを聞いただけで涎が出るという、ある行動を習慣付け学習させた大層有名な実験結果である。

 「ロミオとジュリエット効果は?」
 「………恋愛において障害によって恋愛感情が一層増してしまう現象です」

 新一の問いに次々にKIDは答えた。新一はKIDから答えが返ってこないなどと露ほどにも思っていないようである。過去の世間話からKIDが博識であることを知っていたからだろう。
 一体この問いかけから新一は何がしたいのだろうか。何をKIDに言いたいのだろうか。
 だからKIDは逆に質問してみた。

 「………何がいいたいんですか?名探偵」
 「うーん。どうなのかなって考えてみた」
 「………何をです?」

 困ったように目を反らしながらぶつぶつと小さく呟き、頬をかく新一の仕草が妙に可愛かった。そんな自身も困惑気味な新一にKIDはそっと続きを促す。
 新一は今度は自分で語り出す。

 「光背効果とは、ある人物を評価する時にその人に1、2の顕著に良い特徴があるとその人の他の特徴を全てよく見てしまう事をいう。よくある例は、美人やハンサムな人間は性格も頭も能力もあると勝手に思い込むことだな」
 「それで?」
 「好意の相互性。人から好意を示されればその人に好意を抱くようになる。単純に誉められれば人を好きになる。これの一番有力な方法は最初に貶して次第に誉める事だ。相手から最も好かれる可能性が高い」
 「ふむ」

 KIDは顎に手を当てながら、先ほどから新一が並べ立てている事柄の共通性を考える。

 「私は名探偵ではありませんから、名探偵が何を言いたいのか、はっきりとはわかりません。しかし、憶測ですが………吊り橋の状態とはこの場所のような事ですか?どきどきしますか………?」

 そういいながらKIDは新一の心臓の上に手を当てた。
 彼の動悸が早くなるのが布越しでもわかる。

 「貴方とここで出逢うのは何度目になるでしょう。もう数え切れない程ですね。これだけ逢えば、好意をもって頂けますか?」

 新一の髪をさらりと梳いて頬に滑らせる。

 「カードを出せば名探偵がいらっしゃる。名探偵がいらっしゃればこうして時間を過ごせる、もう条件反射になっている」

 KIDは新一の顎に手を添えて持ち上げる。

 「貴方は探偵で私は怪盗。裁く者と裁かれる者。追う者と追われる者。障害などと生易しいものではありませんね。正反対だ」

 反らさない新一の瞳と片眼鏡越しのKIDの瞳がぴたりとあい見つめる。新一はそのままKIDを見上げながら言葉を紡ぐ。

 「正体は知らないけれど、暗号を生み出し警察を巻いて逃走できる頭脳と身体能力とマジック。本名も顔もどんな人間かも知らないけど、KIDたるお前を見ていると、素のお前もそうなのかと思う。………初めて逢った時は子供の姿で『怪盗は鮮やかに獲物を盗み出す創造的な芸術家だが、探偵はその後を見て難癖つけるただの批評家に過ぎない』なんて言った。それなのに今は、名探偵って呼ぶ………」

 新一の言い分にKIDは口元をゆるめて微笑む。

 「本当に名探偵だと思っていますよ。唯一無二の私だけの名探偵だ」

 KIDの優しい声音に勇気をもって新一は一番知りたいことを問う。

 「この気持ちは、勘違い?それとも………」
 「………どう思われますか?勘違いですか?状況で思いこんでいるだけですか?」
 「違う。違う、KID」

 新一は首をふって否定する。

 「確かにそういう事もない訳じゃない。でも、それだけでこんな気持ちにはならない。俺にはなれない………」
 「私もなりませんよ。そうでなくて、どうしてこんな近くに寄りますか?姿も顔さえも見える距離で探偵の貴方の側に」

 片手を捕らえるように腰に回してKIDは新一を引き寄せた。腕に抱き込まれた新一はすぐ近くに触れられる距離にあるKIDの顔に瞳を見開いて見つめると、手を伸ばしてKIDの頬から髪に触れた。

 「………好き」

 唇からこぼれ落ちる心。

 「好きだ………」

 繰り返してKIDに抱きつく新一を、KIDは両腕で力一杯抱きしめた。

 「私もですよ。名探偵が気が付く前から、ずっとずっと前から貴方を想ってきました」
 「前から?いつ?」
 「それは内緒です」

 KIDはくすくす笑いながら新一のこめかみに唇を落とす。くすぐったそうに新一は腕の中で身をよじる。

 「でも、貴方よりずっと想っていたことは確かです」
 「そうか?そんな事どうしていえる?俺だって好きなのに!」
 「だって、私は愛していますからね」

 さらりとKIDは告げた。

 「………」
 「愛していますよ、新一」

 あまりのストレートな愛の言葉に新一は赤面する。どう反応していいか慌てる新一が可愛くてKIDは寄り腕に力を込めて抱きしめた。

 その存在を離さないように。

 たとえ心理的に恋に落ちる確率が高かろうが、誰もが恋に落ちる訳ではない。
 同じ状態にあっても逆効果を生む事さえある。
 心から欲した相手なら、そこに発生する感情は恋以外のものであるはずがない。
 それは、己だけが知っている真実。
 



                                                    END



BACK