金木犀の木の下で。 想うのは君のこと。 この香りが消え、君に届かなくなるまで。 夜も昼も朝も、君を待っている。 ぼんやりと闇夜に浮かぶ月は、雲をたなびかせながら地上に銀色の光を注ぐ。 遠くに聞こえるのは木霊するサイレンだけ。 深夜を迎えた住宅街には喧噪も人の気配もないのが常だ。 そこは高台にある公園。 樹木に覆われ、昼間は遊具や広場で子供達が遊び走り周る空間。 けれども、闇に包まれたこの夜は一人の人間が静寂の中に佇んでいた。 彼を包むように降り注ぐ月光は青白く照らし、その蒼い瞳を賛美するように輝かせた。 彼は無言で月を仰ぎ見た。 輝く星々を従えたかのようなその天に映る女神。地球のただ一つの衛星。 彼が何を思うのか、その横顔からは伺い知れない。 ただ白皙の美貌は何かを待ってるかのように遠くを、眼下に広がる夜空、夜景を見つめていた。星の光は街の明かり。それでは、地上にある月の光は……? どこからか、その場に白い影がよぎる。闇色の空間に浮き上がる白い人型。 ふわりと降り立つ姿は純白に彩られたこの世のものではない使者だろうか。 幻想か幻覚か。 月光を浴びながら優雅に一礼するのは、誰が呼んだのか、『月下の奇術師』怪盗KID。 地上にある月の光を纏わせて、彼は美貌の主の前に立つ。 「ごきげんよう、名探偵」 「……KID」 「今宵も、こうしてお逢いできて光栄ですよ」 「そうか?それにしては遅かったようだけど?」 「稀代の名探偵が仕掛けてくれましたからね。私でも簡単には参りません。お待たせしてしまいましたか?」 「……そうでもない。まあ、合格ラインじゃないか?」 くすりとその美貌が花開くように微笑んだ。 怪盗KIDの相対するのは今日の仕事で警備に裏から助言していた名探偵と誉れ高い工藤新一その人だった。 現場では専属の警部がKID逮捕に熱意を注いでいて、他者の介入を良しとしない。それでも無理矢理押し掛ける探偵も中にはいるのだけれど、警部同様その努力が実を結んだことはない。今回新一が助言をしたのは、暗号解読を依頼されたからだ。ついでのようにやんわりと警備の手薄なところ、KIDが進入しそうなところを花の笑顔と警視庁では褒め称えられている微笑みで言い置いてきた。そうでなかれば警部はKIDが認める名探偵の新一の言葉さえ聞こうとしない。普段はいい人なのだが、一度KIDが絡むと人が変わったように激情を迸しらせて激昂するのだ。部下もしょうがないなあ、と見守っているらしい。 「合格ですか?……それでは、報酬を頂きますよ、新一」 うっとりと愛おしげに囁くと新一の細い腰に手を回して引き寄せる。滑らかで華奢な身体を腕に納めると、頬に指を添えて撫でるように添えて耳を掠めて漆黒の髪を梳く。柔らかな感触を楽しんで後頭部を支えると、見上げてくる蒼い瞳と出逢う。KIDが優しげに微笑みながら顔を寄せると新一は目を閉じた。長い睫毛が影を落とす美貌は月が作った人形のようだ。 唇で触れて温度を伝えあう口付け。何度も重ねて吐息を奪う行為は、言葉にしなくても、互いの思いを雄弁に物語る。 何時の間に決まったこと。KIDが無事に仕事を終えてから逃走経路に降り立つ場所に待つ名探偵。どれだけの時間で帰ってこれたら合格だなどと、はっきりしている訳でもない。獲物を奪い逃げて来るだけでも鮮やかな手並みである上、名探偵がいつも待つ訳でもない。彼は自分を必用とする事件ががあれば、そちらに赴く。 だから、この逢瀬自体も久しぶりのことだった。 KIDはそっと新一の唇を離しても、抱きしめた身体はそのままに佇む。 「甘い香りがしますね、新一」 彼の髪から鼻をくすぐる匂いがする。 「甘い香り?」 「ええ。何でしょう、甘い花の香り。これは……」 「金木犀だ」 新一はKIDの問いに断言する。 「それですね。公園のどこかにあるのでしょうか?でも、新一からもしますよ」 「……お前が来るまで時間があったから、そこら辺回ってた時に見つけた」 黄色い小花に触れたから、大方その時に付いたのだろうと新一は呟く。 「匂いが髪に移っているんでしょうね。とても強い香りですから。でも、新一の方が甘いですけどね?」 耳元でそう囁いて、髪に口付けを落とす。 「……馬鹿?」 新一は呆れたようにKIDを見上げる。 そんな素直でない言葉しか言わなくても、KIDには新一の気持ちが手に取るようにわかった。 「この花は貴方に相応しい花ですね。どれだけ離れていても姿が見えなくても、その存在を主張している美しい華。花言葉は『気高い人』『変わらぬ魅力』というのだそうですよ?『謙虚』という言葉もあるようですけど、『検挙』ならぴったりですし」 KIDはそう言いながら面白そうに目を細める。 「『検挙』ね。俺は警察じゃないから関係がないけど、お前だけは検挙の協力も実を結んでいないな……」 肩をすくめて、見せつけるように新一は一度吐息を付いた。 「でも、金木犀はお前の方が似合うんじゃないか?中国では『桂花』とよび、月の世界から地上に伝わった仙木だとされている。『月下の奇術師』の異名を取るお前にぴったりだろ?」 首を傾げながら瞳を瞬かせる。その瞬間さらりと新一の黒髪が揺れて白い首筋が露になる。そんな無防備な仕草にKIDは内心煽られながら、それでも平静を装って怪盗紳士として振る舞う。 「私は月の世界から来た幻ですか。確かにこの身は幻影のようなものです。けれど、貴方の前にいる私はここに存在しているのですよ?」 「知ってるさ、それくらい。……何がそんなに気に入らない?」 新一は若干柳眉を寄せてKIDを見上げた。KIDが何かに苛立ったことはわかっても理由が掴めない。 「怪盗KIDは月の幻か化身のようなもの。でも、貴方の前ではただの人間なのです。こうして触れることのできる、血の通った生身の身体と心をもった男です」 切なげにそう囁くと新一を一層強く抱きしめる。KIDの方が背が高いから、新一のしなる身体は半分宙に浮いている。 こうして彼に逢うことが叶うのも一時にしか過ぎず。 これ以上踏み込むこともできない。 真実の名前を伝えることもない。 怪盗KIDとしてしか、彼の前には立てない。 彼の前にいるのは怪盗KIDという幻でしかない………。 KIDは沸き上がってくる感情が仮面の合間からこぼれ落ちてくるのを自覚した。 「KID!待てって………」 新一はKIDの胸を叩いて抗議する。 「……何ですか?」 「苦しい……!少し力を緩めろ、馬鹿」 「……」 無言で少しだけ腕の力を抜いて、新一の足が地面に着くくらいにするがそれ以上KIDは離さなかった。 「何をせっぱ詰まっているか知らないが、お前がただの人間だってちゃんとわかってる。多少言動が気障だし真っ白のタキシードの格好もちょっとどうかと思うが、それも持ち味だろっ。昼間のお前なんて知らないけれど、ここにいるお前も間違いなくお前の一部だ。例え紳士気取っていても、簡単に本質なんて消せない。だから、どんな姿に変装しても声音を変えても俺はお前を見つけられる。それじゃあ、不服か?」 新一は蒼い瞳でKIDを睨み付けた。 台詞の中身は、そんなことを思っていたのか?という落ち込みたくなるものもあったが、この際関係がない。KIDにとって重要なのは、どんな姿でも自分を見つける、という新一の言葉だ。つまり、それだけ分、KIDを理解しているということ。本能で見つけてもらえるということ。彼の目にはどんな姿になってもいつも真実の姿しか見えないということ。本当の姿であったことはないけれど、彼なら見破ってしまうだろう。 それが、こんなに嬉しいだなんて。 KIDは新一を見つめて真摯な言葉で伝える。 「取り乱してしまって申し訳ありませんでした。不服などある訳ありませんよ。貴方に見つけて頂けるだけで、光栄です。誰も私を見破ることなどできません、それができるのは貴方だけです、新一」 「……」 「貴方はどんな姿でも見つけて下さるといいますが、私も貴方が傍にいればわかりますよ?この花のように貴方の香りが、存在があります」 近くにあるだけで、心が惹き寄せられる存在など彼しかありえなかった。 その存在感は犯罪者の自分とは違う。 真実を追い求める瞳が謎を解いた時、彼の纏う空気は普段の何倍も意志をもつように彼へと導かれる。見つめずにはいられないのだ。美しい蒼い双眼が暴く真相がどんなに悪意に満ちていようと、悲しみに彩られていようと彼はそこに留まる。 指し示す路は一つしかない。 「俺がわかる?」 「はい。どこにいても探し出せますよ、きっと」 「……そうか。お前から月夜の晩に身を隠すことは困難だろうな」 新一は微笑する。 「ええ。諦めて下さいね」 「ふん。……なあ、お前からも甘い香りがする。俺のが移ったのかな?」 「貴方からの移り香ですか?……それもいいかもしれませんね」 何やら納得するとKIDは失礼と断って抵抗の余地も与えず新一を抱き上げると、ふわりと跳躍して公園の一角にある、むせ返るような香りを漂わせる元凶の前に降り立つ。そのまま支えつつ地面に降ろすと、新一はKIDに掴まりながら安堵感に吐息を付く。そして、どうしたんだ?と聞こうと見上げた瞬間、背後の金木犀とKIDの腕に閉じこめられた。 その拍子に触れた金色の小花がこぼれ落ちる。 優しい花は風雨などにも弱くすぐに花が落ちてしまうほどなのだ。手荒に扱えばすぐに枝から姿を消してしまう可憐な花。 しかし、こぼれ落ちる程触れた時に強い香りが漂う。その枝に花に押しつけられている新一はむせかえる香りに眩暈を感じる。 「これで、しばらく身体から匂いが消えませんよ?」 「KID?」 新一は瞳を見開いてKIDを見上げる。 「貴方と私は同じ香りを身につけるのです。この香りが消えるまで、私のことを忘れないで下さいね」 「キッ……」 新一が何か紡ぐ前にその唇を塞いでしまう。 花の香りに包まれながら、唇を吐息を優しく激しく盗んで。 睫毛を揺らして陶酔した新一の表情をこっそり見つめてKIDは満足げに瞳を和らげた。 この香りが消えるまで、私のことを忘れないで。 この甘い匂いが香る度に、私のことを、この口付けを思い出して。 KIDの身体からこぼれ落ちる独占欲が強烈な香りと共に新一を包む。 それは彼の記憶に鮮明に刻まれることになる。 今度出逢った時は。 この想いを隠しておけるのだろうか? 金木犀の木の下で。 想うのは君のこと。 この香りが消え、君に届かなくなるまで。 夜も昼も朝も、君を想っている。 この香りがたとえ消えても、君を愛している。 END |