「万有引力の法則」




 物体が、落ちる。
 上から下へと。
 高い場所から落ちれば、小さなものでも相当の衝撃がある。重ければ、当然それなりだ。
 それは誰もが知る不変の理だ。

 昔ニュートンがりんごが木から落ちるのを見て「万有引力」を発見したといわれる。
 りんごが落ちる等は作り話だけれど、月はなぜ地球に落ちてこないのかと考えたらしい。
 万有とは「全てのものが持っている」引力とは「引き合う力」。つまり「万有引力の法則」は「全てのものは引き合っている」ということを示す法則であり、言い換えるなら「二つのものがある時、そこにはいつもくっつこうという力が働いている」ということを示している。
 りんごが落ちる、つまり「万有引力によって地球に引っ張られる」ということになる。
万有引力は二つの物の重さが重くなればなるほど強く引き合い、距離が離れれば離れるほど弱くなってしまう。
 我々が地球の重さと比べると比べ物にならないくらい地球の方が重い。だから我々がりんごを引き付ける力よりも地球がりんごを引き付ける力がはるかに強く、りんごは地球に、地面に落ちる。

 公式は、
 F=mg (重力の法則)
 F=GMm/r2 (万有引力の法則)


 ということで、重力に従い上からモノが落ちてくるのは普通だ。
 落ちてこなかったら、それは宇宙空間かもしれない。


 つまり、そんなことが言いたいわけではなくて。

 ぐるぐる思考にはまっていた彼は突然頭上から落ちてくるモノを手を伸ばしてどうにか拾った。りんごよりもずっと大きなモノだけれど。だからといって、そのままにはできなかった。
 階段の一番上からふらりと落ちてきたモノを、一番下、つまり廊下にいた己が拾ったのだから、相当な衝撃だった。おかげで尻餅を付いたけれど、無事に落とさないですんだ。

 「つっ………」

 咄嗟に手すりで一旦衝撃を止めたせいで身体にかかる負担は減っているが、打ち付けた腰が少々痛む。床に片手を付いて身体を支えながら彼は自分の上にいる人物に声をかけた。

 「大丈夫か………?」
 「あ、ごめん」

 その人物は謝りながら顔を上げた。
 飛び込んできたのは青い青い綺麗な瞳。お天気のいい空の蒼。どこまでも澄んでいる冬の空。間近にある白い顔。ぱちぱちと瞬きして長い睫毛が動く。薄く開いた唇からふうと、小さな息が漏れる。さらさらの漆黒の髪が顔にかかってくすぐったい。抱き留めている身体は女性ではないから凹凸はないが、とても細くてしなやか。

 「………」

 がつんと頭を殴られたような衝撃だった。
 受け止めた衝撃など目ではないくらいの大衝撃のため、鼓動が早い。
 彼は思わず手を伸ばしていた。そっと目の前にある人物の頬に指を添えて、

 「怪我してないか?」

 勝手に口から言葉が出ていた。

 「ああ、大丈夫みたいだ………」

 青年は頭を軽くふって確かめる。彼はそんな仕草にも目を奪われる。

 「ごめん、重いだろ」

 突然彼の上にのしかかっていることに気付いたようで、青年は慌てて上から降りようとした。それを手伝って彼も一緒に起きあがる。そして、服に付いた埃を払う。

 「あ、まずい」

 青年はしまったとう顔で腕にある時計で時刻を確認すると一瞬眉をひそめて、ついで彼を見上げてにっこりと微笑むと片手を上げた。

 「ほんとに、サンキュー。ちょっと急いでるから………!」

 そして、後ろを振り返ることもなく去っていた。

 「え?」

 ちょっと待ってくれと彼が上げた手が宙に浮いて行き場を失い落ちる。

 「………」

 彼は青年が消えた先を見つめたまま立ちすくむ。
 
 衝撃的に落ちてきた綺麗な人。
 にっこりと微笑んだ笑顔が目に焼き付く。
 一瞬だけ触れ合った身体は同じ人間とは思えないほどで、重さを全く感じなくて軽かった。
 名前も聞く間もなく去ってしまったが、また逢えるだろうか?
 




 彼はカフェで一人珈琲をすすっていた。手に持った本は開けているが読んでいる気配はない。ぼんやりとした様子でどこか彼方を見つめていかにも物憂げにため息を付く。
 そんな彼を知る人は一様に首を傾げて通り過ぎていく。
 声をかける雰囲気ではないのだ。
 普段はもっと話かけやすい人間なのだが、纏う雰囲気が「私、悩んでいます」と語っていたから、不審に思いながらも皆遠巻きにしていた。一応この東都大学では有名人の彼だから、どこにいても目立ち彼の名前と優秀な頭脳と稀な特技は皆の知るところだった。
 名前は黒羽快斗。入試では首席の成績を納めている上に、特技のマジックでは最近売り出し中の身だ。
 

 ふう………。
 あれからどれだけ探しても逢えない。
 それはもう、今まで見たことがないすこぶる美人だったからすぐにわかるかと思ったけれど、予想に反して誰も知らなかった。見たことがないという。構内を歩いていても出逢うこともない。
 それとなく生徒や教授に聞いてみても、皆首をふる。
 
 ひょっとして、この大学の生徒ではない?
 最初はすぐにわかると思った。ここの生徒なら隈無く当たれば捜せるだろうと………。
 しかし、他大学の生徒という可能性もある。
 図書館などに文献を探しに来たとか、目当ての教授に逢いに来たとか、論文や研究のため用事があったとか。他大学や学問に携わる人間が大学を訪れる理由ならどれだけでもあるだろう。学生でなくてもキャンパスは開かれているから、誰でも入ってこれる。たとえどんな用事であろうと身分であろうと、彼は目立つだろう。それが、誰も知らないとはどういうことだろか。
 あの日だけ、たまたま来る機会があったとか。
 では、目撃した人は稀?
 自分は幸運にも遭遇したのか?
 
 手がかりは全くなかった。
 お手上げだった。
 他に手だてもなく仕方がなくあの日彼が落ちてきた階段を毎日用もないのに上っている。
 もしかしたら、出会えるかもしれないから。僅かな望みをかけて。
 
 
 「はあ………」

 快斗は大きなため息を付く。

 「どうしたんだよ、ため息なんて付いてさ、黒羽にしては珍しいじゃん」
 「岡田か………」

 快斗は大柄な身体を少々持て余し気味の、気はあうがある意味悪友の顔を見て呟く。

 「ああ?岡田かはないだろ?」

 岡田は快斗の横にどすんと座る。

 「それで十分だろ」
 「うわ、ひでえ態度だこと。それより、本当にどうしたんだ?」

 快斗の対応はいつものことなので岡田は気にせず聞いた。

 「別に」
 「別にって顔か。………さっきからため息ばっかり付いてて、まさか誰か本命でもできたのか?お前もてる割に遊んでないもんなー。勿体ない」
 「そんなんじゃない。………ただ、気になるだけだ」
 
 (………多分。そりゃあ、すごく逢いたいけれどさ)

 快斗は自身にいい訳する。

 「気になる?だから、恋だろ?」
 「………」

 黒羽は岡田の言葉に顔をしかめて、唸る。

 「何難しく考えてるんだ?好きなら告白すればいいだろ?お前なら大概いけるんじゃないのか?」
 「………名前も知らない」

 快斗は現時点の問題点を提示した。

 「馬鹿か。それくらい聞けよ」
 「どこの誰ともわからないんだよ。一度逢ったっきり」
 「………黒羽まさか、一目惚れ?」

 心底珍しいものを見たという表情で岡田は快斗をしげしげと見つめる。

 「………一目惚れ?………そうなのか?」
 「俺に聞くな。けど、一度逢っただけで気になるんだろ?忘れられないんだろ?それでため息まで付いて鬱いでたら十分な証明になると思うけどな。そんなお前初めて見た」

 岡田は笑う。
 顔が良くて器用で人当たりがいい快斗は人気者だけれど、何かに執着するのを見たことはなかった。

 「そうか。そうなんだ………」
 
 (恋だったんだ。どうりで切ない訳だ)

 今までこれほど気になった人間はいない。今までに付き合った彼女はいるけれど、その時は好きなつもりだったけど、実は真剣ではなかったと気付く。本気だったら、簡単に諦めることなんてできない。

 「名前もわからない、どこの誰かもわからないってのは、わかった。で、どんな子なんだ?」

 岡田は快斗の想い人に興味津々だった。
 彼が執着する人間なのだから、思い切り気になる。

 「めちゃくちゃ美人だった。瞳が綺麗でさわり心地良さそうな黒髪に、可憐な桜色の唇………」
 「………そんな美人、競争率高くないか?普通彼氏の一人や二人いるだろ?お前もまあまあいけると思うけどなあ。ていうか面食いだったんだな黒羽」

 黒羽の惚けたような語りを聞いて、岡田は肩を落とす。
 実は黒羽は面食いなんて………。そりゃ美人な方がそうでないよりずっといい。自分だって男だから気持ちはわかる。
 しかし、しかしだ。そんな稀なる美人に一目惚れとは、黒羽の未来は明るくない。折角やってきた友人の春だけれど、まだまだ冬は続きそうだ。

 「がんばれとしか、いいようがないけど。その前にその子見つけないと何もできないな〜」
 「逢いたいんだけどな………。逢えるのか?」

 いつもの彼に似合わず気弱な言葉に岡田は励ます。

 「………うーん、逢えると思えば逢える!思ってないと逢えるものも逢えない!もし万が一逢えたらチャンスは逃すなよ?せめて名前くらい聞けよ」
 「ああ、そうだな!」

 快斗は大きく頷く。思わず拳に力がこもった。
 



 
 あれから、一ヶ月。

 逢えないまま時は過ぎた。それでも諦められず、快斗は出会いの階段を上る。
 一段一段上りながら、彼が落ちてきた時のことを思い出す。心の中で盛大なため息を付きながら、レポート提出のために教授の研究室へ向かう。
 午後の日差しが頭上にある窓から入り込んでくる。ちょうど授業中であるし研究棟へ続く廊下のため静かだ。歩いていると自分の立てる靴音が大きく響くことがよくわかる。
 ふと上げた視線の先。
 見間違うことなどない記憶に焼き付く後ろ姿。
 それを認めて快斗は駆け出した。

 「ちょっと、待った!」

 彼の腕を掴んで、どこかのお見合い番組の合い言葉のような台詞を吐いた。誰かが聞いていたら笑われるだろうことは必至だ。しかし本人はとても真面目だった。自分が何を口走っているかよくわかっていない。だた、引き留めたかったのだ。

 「え?」

 振り向いた彼は、待ち望んだ青年だった。
 快斗は息を整えながら、どうしても聞きたかったことを問いかけた。

 「名前は?」
 「は?」

 しかし、当然ながら相手は呆然としている。
 それはそうだろう。いきなり、名前は?と知らない人間から聞かれたら誰でも同じ反応を示すだろう。はっきりいって、怪しい人物だと認識されても文句は言えない。

 「ああ、違う。そうじゃなくて………」

 快斗もそれに気付く。
 あまりに動揺して間抜けなことをしていると内心思うが、そうそう簡単に平常心には戻れなかった。

 「俺は黒羽快斗。東都大学工学部2年生20歳。趣味と特技はマジック。スポーツはスケート以外なら大概何でも。家族は母親だけ、父親は死別。ペットじゃないけど、マジックに使う鳩はたくさん。身体は至って健康。以上!」

 快斗は自己紹介というよりまるで、身上書のようなことを一息で述べた。

 「………?」

 彼は首を傾げながら快斗を見つめる。そして破顔するとお腹をかかえて笑い出した。くすくすと笑い声が快斗に届く。やがてそれを納めようとしながら目尻に溜まった涙を拭う。

 「この間、助けてくれたやつだよな?………あの時はろくにお礼も言えなくて悪かった。サンキュー、あの後身体大丈夫だったか?」

 彼は快斗を覚えていた。それだけで快斗は嬉しさが込み上げる。

 「大丈夫だった。身体は丈夫だから」
 「そうか、良かった」

 安心したように彼は微笑む。

 「えっと何だっけ?名前?………俺は工藤新一。東都大学法学科2年に編入する20歳。これから通うんだ。それから?趣味は読書で推理小説がベスト。特技は観察力になるのか?一応探偵やってる。スポーツはサッカー。家族はアメリカに両親がいて、これから一人暮らしの予定。ペットはなし。こんなとこか?」

 彼は考えながら快斗と同じように答えた。

 「編入するのか?」
 「ああ。ちょうど先月逢った時手続きに来てたんだけど、急いで帰らないとならなかったんだ。飛行機の時間は待ってくれないからさ」

 本当に悪かったと、彼は謝る。

 「じゃあ日本にいなかったんだ」
 「ああ」
 「どうりで探しても見つからない訳だ」
 「………探したのか?」
 「探した。あれからすごく気になってたんだ。もう一度逢いたいって思ってた」

 快斗は彼に逢えなかった辛い一ヶ月を思い出す。そして、自分は千載一遇の機会に恵まれていると思う。

 「えっと、お友達からお願いします!」

 快斗はそういって己の片手を差し出して頭を下げる。見る者に再びお見合い番組のクライマックスを思い出させる台詞と態度だった。けれど、やはり本人にとっては一世一代の告白だった。

 「お友達からって何だ?………まあ、お前面白そうだから友達になったら楽しいだろうけど」

 彼は苦笑する。良かったのか悪かったのか彼はそのお見合い番組を知らなかった。両親と共に日本とアメリカを行ったり来たりしていたため、日本の世情に今一疎かった。

 「じゃあいい?」
 「ああ、よろしく黒羽」

 快斗が覗き込むように聞くので、彼は頷きながら手を差し出して握手をかわす。

 「よろしく、工藤。おれは快斗でいい」
 「快斗?」
 「そう」
 「わかった快斗だな。俺も新一でいい」
 「………新一?」
 「ああ」
 「新一………、今日でもいつでも時間があるなら構内案内するけど?」

 その笑顔に後押しされて、快斗は名前を呼んでみる。

 「いいのか?今日は、もう用事終わってるからじゃあ頼んでいいか?」
 「もちろん」

 快斗は請け負う。
 そして、彼のうきうきとした楽しげな表情に笑い返した。





 「万有引力の法則」
 二つのものがある時、そこにはいつもくっつこうという力が働いている。
 重力や、引力だけではなく。人間にはその力が働く瞬間がある。
 それは、りんごではなく。
 恋が降ってきた時。
 恋を拾った人間は「恋に落ちる」。古今東西決まっている法則である。
 
 
 
                                                 END



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