空を見上げる。青い青い空に白い雲、冬は空気が澄んでいるから星がよく見えるというが、日中も同じ原理で空がより綺麗に見えるのだろうか? 今は早春だから、どうなんだろう?とアリスは思う。 まだ、肌寒い季節、京都はやはり冷えこんでいる。 少し薄着だっただろうか? アリスは自分の姿をざっと見直した。 ソフトブルーのざっくり編んだ着心地が気に入っているセーターにブラックジーンズ。オフホワイトのトレンチコートに従兄弟からもらった、少し早い誕生日プレゼントの綺麗なラベンダー色のマフラーをひっかけている。 アリスに自覚はなかったが、とてもキュートな装いだった。 ここは北白川。もうすぐ火村に逢える。そう思うとアリスは自然に頬がゆるんだ。 締め切りをやっと終えて原稿を宅配便で送り、その足で来たのだ。ばあちゃんに最近美味しいと評判の和菓子も買ったし、うりやこう、モモの顔も見たい。そう思うとウキウキと足取りも軽い。 「で、どうしてそんな困った顔してるんや?」 せっかく来たら火村は困ったような、不機嫌そうな顔で迎えてくれるし、ばあちゃんもいるはずなのに、姿を見せない。 「ああ。まあ、上がれよ。」 ひとまず、部屋には上がることにしよう。 靴を脱いでそろえる。手早くコートを脱いでたたみ、上がりこんだ。 「実はばあちゃんの旦那さんの命日なんだよ。当然寺に頼んでお経を上げてもらうようにお願いしてあったんだが、その坊さんもいい年なもんだから、ぎっくり腰で来れなくなっちまったんだよ。ばあちゃんは明日から近所の友達と旅行の予定があるから、勝手に明日には延ばせないんだ。俺が代理でもできればいいんだが、明日はどうしても休講にはできないし、なんていっても補講だからな・・・。」 「そうなんや・・・。俺は明日でも暇やから代理でおってもいいけど、それではばあちゃんが納得せんよな。自分でおりたいやろし。」 「ああ、結局はそうなんだ。人に、任せることなんてできないだろう、旦那さんの供養なのに。だから、せめてもって、さっきから一人でお経を読んでる。」 アリスは考える。一人でお経を読んでいるばあちゃん。火村のような無神論者が一緒にお経を唱えてくれる訳もないだろう。 「俺、ばあちゃんと一緒にお経読んでくるわ。火村も来る?」 アリスは首をかしげて聞く。 いくら無神論者でも常識は持ち合わせているらしく、ばあちゃん一人の供養に参加するアリスにつきあうことにしたようだ。アリスの後を着いてくる。その火村の後に3匹の猫が付いてくる。一人でも一匹でも多い方がいいだろう。 アリスは仏壇のある和室のふすまをそっと開ける。 「ばあちゃん、俺も一緒してええ?」 「有栖川さん。こんにちは、もちろんですよ!ありがとう。あら、火村さんも?」 ばあちゃんはにっこり微笑む。 アリスは許しを得たのでばあちゃんの横まで来て座る。火村はその後ろに、その横に3匹の猫が。 「ばあちゃんここの宗派って、何?「般若心経」って割にどんな時でも唱えていいって聞いてるけど、俺があげてもええ?」 「もちろんええですよ。宗派なんて関係ありまへん。気持ちが大切なんです。きっとあの人も喜んでくれはります。でも、有栖川さんよく知ってはりますなあ。」 くすり、とアリスは笑って、 「ちょっと。」 そう言って手を合わせて唱え出した。軽く目をつぶって、経典も開かずに。 まかはんにゃはらみった しんぎょう ( 摩訶般若波羅蜜多心経) かんじざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう どいっさいくやくしゃりし しきふいくうくうふいしき しきそくぜくうくうそくぜしき じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ しゃりしぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅうむしきむじゅそうぎょうしき むげんにびぜつしんいむしきしょうこうみそくほう むげんかいないしむいしきかい むむみょうやくむむみょうじん むろうしやくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこぼだいさった えはんにゃはらみったこ、しんむけげ、むけげこむうくふ、 おんりいっさいてんどうむそう、くきょうねはん さんぜいしょぶつ、えはんにゃはらみったこ、 とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみった、 ぜだいじんしゅ、ぜだいみょうしゅ、 ぜむじょうしゅ、ぜむとうどうしゅ のうじょいっさいくしんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅう、 そくせつしゅうわつぎゃていぎゃていはらぎゃてい はらそうぎゃていぼじそわかはんにゃしんぎょう ( 以上を3回繰り返す) それはお経というよりも歌っているようだった。 アリスの心地よいテノールが部屋に響く。 猫たちには子守歌になったようで、すやすや眠ってしまったようだ。 チーン。チーン。チーン。 「有栖川さんありがとう!」 ばあちゃんはとても、とても嬉しそうだ。表情には感謝の念が表れていた。 「美味しい。」 アリスは持参したお菓子とお茶を頂きながらにこにこしている。まだしまえない炬燵に座りアリスの右側に小次郎、左側にうりが丸くなって眠ってる。一方、向かいに座る日村の膝にはモモがしっかりと居座っていた。 「お前の家族は経まで読めるのか?」 聞きたくて、でも聞きたくないが尋ねてしまった火村である。 「はあ?そんなことあらへんで。俺だけ、たまたまや。」 アリスは軽〜く言った。 火村は毎度のことながら、疲れたように、 「たまたまお経って読めるものなのか?お前丸々空で唱えてたじゃねか・・・。」 「あれしかできへんよ。それに本当にたまたまなんや!!」 アリスは思いだしたように微笑む。両側にいる猫に視線を向けその背中を優しく撫でながら火村に向き直った。 「小学校の頃夏休みってラジオ体操があるやろ。火村も毎朝通ったはずや。その場所なんやけど、近所のお寺の境内を借りてたんや。終わるとお寺の和尚さんがボランティアっていうか趣味で「般若心経」を教えてくれたんや。本堂の階段にみんなで座って待っとった。小学生にわかるように全部ひらがなで書いたプリント見ながら一緒に繰り返し唱えるんや。夏休み40日あまりを6年間もやれば、嫌でも覚えるで・・・。」 ふう、とアリスはため息をつく。 「それを今でも覚えているのか?」 「覚えたたけやったら忘れたと思うけど、ちょうどいいってお盆とかに家でやらされたし。でも、笑えるのが小学生やったからひらがなで覚えたちゅうか口伝で覚えてしもうたもんやから、自分で唱えてても漢字になってへんわ。音を発してる、って感じや。久しぶりに唱えたけど、さびれてへんで良かったわ。ばあちゃんの前で恥かかんで良かった・・・。」 アリスははにかむように、ほっとしたように笑う。 今回火村は感心していた。いつもアリスには驚かせられているし、いろいろ起こしてくれるから冷や冷やさせられっぱなしだ。けれど「お経」は予想外であった。アリスとお経・・・。似合わない。しかし柔らかいテノールで唱えていると心地よくて歌っているようだった・・・。 「ばあちゃんも喜ぶから、時々は一緒にお経でも上げてやってくれ。」 ばあちゃんにはとっても親切な火村は言う。 「ええよ。でも君には唱える気はあらへんで、長生きしてな!!」 アリスはからかうように言う。 「ふん。勝手に殺すなよ。」 火村はキャメルを取り出し火をつけようとライターに手をのばした。 すると、アリスがライターを奪い取り、にまにまと微笑んだ。 「『君がため惜しからざれし命さえ 長くもがなと思いけるかも』なんやろ????」 火村はアリスをまじまじと見る。 「俺と長生きしたかったら、たばこは控えめにしないかん!!!」 アリスは不敵に、最強の笑顔を付けて言い切った。 火村の手からたばこがぽろりと、落ちたことは言うまでもない。 END |
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