「いらっしゃい。待ってたで」 火村を目がけて有栖は玄関まで駆けて来る。それも、にこやかな笑顔付きだ。 とても機嫌がいいようだ。今日は何があったのだろうかと有栖の顔を伺いながら火村は心中思う。 有栖は些細なことで、喜ぶし、楽しむ。 幸せを見つける才能がある。春を見つけたと、つくしや雑草を摘んできたり、美味しいもの食べたとか、占いが良かった、買い物でおまけしてもらえた、とかとか。 火村にはわからない次元の話もたくさんある。 「アリス、何かいいことがあったのか?」 火村は率直に聞いてみた。 「うん、そうなんや」 にっこり笑顔で有栖は肯定する。そして火村のためにキッチンへ入っていった。 火村はリビングに入ると上着を脱いでソファにかけ、指定席にどっかりと座る。 ああ、疲れた……。 火村は今日までずっと東京に出張していたのだ。最近学会の準備などで、東京出張が多い。 いくら、新幹線があるからといっても、やはり遠い。 いつもなら、移動時間に本や書類に目を通したりするが、今日は疲れていつの間にか寝てしまった。 これは本格的に疲れているな、と火村は自覚した。 東京を出る時に、今日は夕方にここに着くからと有栖には電話を入れて置いた。 真っ直ぐどこにも寄らずに、ここに来たかった。有栖のいる場所に帰ってきたかった。ただ、有栖の顔が見たかった。 その有栖は、火村のためにキッチンでお茶を入れている。 食器の立てる音、コポコポというお湯の音、有栖の動くスリッパの音。聞いていると、落ち着く。ここに帰ってきたんだと心の底から安堵する。 「火村、お茶入ったで」 有栖はテーブルに紅茶の入ったカップを置く。湯気とともに、いい香りが立ち上がる。そして今日のお茶請けはケーキだった。美味しそうな、タルト達。 「これ、どうしたんだ?」 見たことがないケーキだ。また新しい店でも知らない間に開拓したのかと火村は心中首をひねる。 「これな、片桐さんが持って来てくれたんや。お昼くらいに来て、打ち合わせしたんやけど。なんでも、東京の南青山にあるタルトのすごく美味しいお店のなんやて!」 だが、有栖は嬉しそうな声で真相を告げた。 ああ、片桐だ? 火村は顔には出さずに不機嫌になる。 有栖の担当の片桐はよくこうして有栖の好きな物を持ってくる。食い物で釣ろうとしていることが、見え見えだ。 「東京でこれ買って、大阪までどれくらいかかると思ってるんだ?大丈夫なのか?」 「ちゃんと保冷の袋に入ってたで」 南青山で朝一番にケーキを買って、東京から新幹線で大阪に来て、夕陽が丘まで何時間かかる?ざっと考えただけで、大変な労力だろう。片桐の手間の掛け方に腹が立つ。いくら担当作家といえど、それは掛け過ぎってもんだろう? 有栖は火村の考えに気付いた風もなく、「食べよう、火村」と誘う。 ケーキに罪はないか。 火村も大人げない自分を、ほんの少しだけ反省する。 火村の前にはいちごのタルトが置かれている。 ケーキの上にふんだんにいちごが乗っていて、中はカスタードクリームが詰まっている。そんなに甘くなくて、美味しい。何より、いちごが甘くて美味しい。もう少し時期が過ぎると、いちごも酸味が強くなって来てこの純粋な甘さがなくなる。 疲れた身体にはちょうどいい甘さだ……。 片桐からの貢ぎ物かと思うとシャクに触るが、まあいい。 火村はケーキの美味しさに満足する。 有栖は疲れた火村の様子を見守ていたが満足そうに食べる姿を確認して、いただきますと言って自分のケーキを口にした。 有栖のケーキは「甘酸っぱいりんごのタルト」だ。名前は片桐がいい置いていったらしい。小さく角切りになったりんごが軽くカラメルゼされ、カスタードクリームの上に所狭しと乗っている。りんごが宝石みたいに輝いている。 ぱくり、と口に運び有栖は味わう。 きっと美味しいと、満面の笑顔を見せるに違いないと火村は思う。 有栖はいろんなことが顔に現れる。楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、悩んでいること、不機嫌なこと、美味しいこと。そのどれも火村は好きだ。どれもこれも、愛しい。 目の前の有栖はまさに、そんな時。 けれど、今日はちょっと珍しい。 「う……」 と言って、なぜか、「切ない」顔をする。 瞳を閉じて。口をきゅっと付きだして。顔をしかめている。 「どうした、アリス?美味しくないのか?」 火村は少し心配そうに聞いた。 「へ?美味しいで。とっても」 「切ない顔してたぞ、お前」 火村の指摘に、有栖はとても驚いた表情を浮かべた。 「どうして?すごく、美味しいんやけど……?甘酸っぱくて、りんごはしゃっきり、シナモンが効いてて、クリームも絶妙や」 有栖は悩む。 だが、ひょっとして……。有栖は何かに思い当たったようで火村に意味深な笑みを見せた。 「火村も食べてみて、はい。あ〜ん」 そして、一口サイズに切ったタルトをフォークで刺して、火村の口の前に持ってくる。 火村は一瞬絶句した。 しかし、誰も見ているわけでもないしと瞬時に考えた。そして言われるまま口を開け、指し出されたタルトをパクリと食べる。 すると、りんごの甘酸っぱさとクリームの甘さが、口の中に広がる。 美味しい……。 しかし、火村は知らず顔をしかめてしまう。顔中に甘酸っぱさが広がるのだ。 有栖は火村の表情をしっかりと観察して、至極満足そうに笑った。 「やっぱり、このタルトはあまりの美味しさに切ない顔になるタルトなんやな」 謎を解いたように、有栖は得意げだ。 有栖らしい、というか何というかと、火村は思う。だが、有栖が幸せなら火村に問題はないのだ。 「すごく、美味しいよな〜。このお店」 有栖は美味しさを噛みしめながら、視線を飛ばしどこか遠くを見た。 火村は嫌な予感がした。 「アリス、まさか片桐さんに今度連れていってもらおう、とか思ってないだろうな」 「え?何でわかったんや?今度東京に行く事あったら、教えてもらおうと思って」 それじゃあ、片桐の思う壺だろう……。 絶対有栖好みのケーキで関心を引き付けておいて、今度行きましょうと誘う気だったに違いない。まったく、油断も隙もあったもんじゃない。 「俺が買ってきてやるから、行くな」 火村は命令する。 「でも、大変やで、火村。無理しなくていいんや」 「片桐に出来て、俺に出来ないわけはない」 心配そうな有栖に、助教授は言いきる。 「火村?俺は君と美味しく食べられたら何でもいいんやけどなあ」 なぜこんな展開になったのかわからない有栖は首を傾げる。 「俺も、アリスとなら何でもいいんだけどな」 火村はにやりと人が悪そうに笑った。 「アリス、ケーキもいいんだが、俺はアリスを味わいたいなあ」 そう甘く言って、火村は有栖を引き寄せる。腕の中にしっかり有栖を抱きこんで、耳元にそっと囁く。 「ダメか?」 有栖は瞳を見開いて驚いていたかと思うと、耳や、首すじを真っ赤に染める。 「あほっ」 せっかくだから火村とお茶をしておしゃべりしようとは有栖も思うのだけど、久しぶりに抱きしめられて、嬉しい自分も確かにいて。困ってしまう。 この腕の中が気持ち良くて、安心する。 自分の素直な気持ちに、ああ、仕方がないかと有栖は諦めた。 でも、せめて。 有栖は伸びあがると火村の耳元に甘く柔らかく囁く。 「ちゃんと、味わってな」 そしてにっこりと小悪魔めいた微笑み。 有栖の誘惑に火村はころりとまいった事は言うまでもない。 その後、火村は後悔した。 南青山の店でケーキを買って来る、と約束したことを。 その店は行列のできる店だった。ケーキ屋なのに! 買うだけなのだから大丈夫と店内に足を踏み入れると、そこは当たり前だが女性客でいっぱいだった。火村がケーキを買う姿はとてもとても目立った。店内の客、並んでいる客、店員の突き刺さる視線にさらされて、愛する有栖のために火村はケーキを買った、らしい。 END |