「天使がいる」 そんな、うわさを聞いた。 下宿生の飲み会に無理やり付き合わされた時だった。 大学での下らないうわさや教授やレポートの愚痴、他学部の女の話。飽き飽きした。 付き合ってなぜ、美味しくもない酒を飲まなければならないのか、はなはだ疑問だ。 いいかげん開放して欲しいと思っていた。その時同じ1年の田島が火村にそれは熱く、詳細に語ったのだ。 「法学部に天使がいるって聞いて見に行ったんだ。最初は男なんてどんなに綺麗でもごめんだなと思ったから話のタネになるかと。でも実物を見て考え直したんだ。見ているだけで、幸せになるんだよ。すごく綺麗で可憐で、彼が現れると、その場が光輝くんだ。全体的に色素が薄くて、優美で、こう『天上の美』っていうのかな。でも、森田っていう男がいつも一緒に居て近付けない!蹴散らされるらしいんだ。そいつがまた、『似合いの一対』とか呼ばれてて、むかつくんだよ」 国文学部の田島は多彩な言葉で賛美せずにはいられないらしい。 そして、興奮したようで、ごくごくとビールを煽る。 「天使は実は「眠り姫」とも言われてるんだ。どうしてか!それはだな。時々木の下で昼寝してるんだってさ。それがまた、すっげえ可愛いらしい!まさに『眠り姫』だよな。これまた森田が絶対隣で見張ってて、近付けない。誰が付けたか『眠り姫と騎士』だってさ。姫を守ってるから、騎士。腹立つだろう!だってな、これがいい男なんだって。顔もいいし、頭もいい、女にももてる。ああ、火村みたいな奴だよ。あっちの方が格段に愛想がいいらしいけど」 田島は火村の顔を見て、嫌そうに言う。 「顔のいい奴ってずるいよな……」 ぼそぼそとつぶやく。 彼は最近彼女に振られたらしい。 「本当に、一度近くで見たいなあ。俺の『天使』。にっこり笑ってもらえたら、すごく幸せなんだけどなあ」 田島はもう火村を見ていない。完璧に酔い潰れていた。 こいつ大丈夫か?所詮男だろう? そんなに、うっとり語るなんて、頭おかしくないか?心配だ……。 火村は煙草を灰皿に押し付け、火を消す。 内心あきれていると3年の細田が、 「火村は納得いかない、って顔してるな。でも、本当なんやで。一度見てみるといいわ。お前もわかるさ。性別なんて関係ないんや。まるで人間の理想とか希望を集めたみたいな人物やで」 そう言って、にやりと笑った。 「とっても美人やで。あんな美人そう拝めんわ」 ついでにと付け加えた。 細田はかなり事情通だ。どこからか、正確な情報を耳に入れてくる。 信じられなかった。 「天使」なんて存在いる訳ないと思っていた。 人間は欲の生き物だ。そんな綺麗な存在がこの世界にあるわけがない。 仮に、もしいたとして、自分とは正反対だとも思った。 俺は悪魔か死神だろうから……。 どう考えても天敵だろう。 相容れるわけがない。 男だっていうのに、(天使は男が有名だが)どうしてそんなに騒ぐのかわからない……。 その「天使」の名前は「有栖」と言った。 不思議な響きがした。 運命の日はやって来た。 なんて、ことだろうか? 目の前には一人の人間が眠っている。 ここは、大きな木の下。ちょうど木陰ができて、昼寝するにちょうどいい場所だ。 人もあまり近付かないから、火村も一人でぼんやり本でも読むか、と都合のいい場所を探していたのだ。 眠っている人間は火村が来たというのに、起きる気配がなかった。 熟睡しているのだろうか?すやすやと気持ち良さそうに眠っている。 周りには誰もいなくて、火村はそっと音を立てないように、彼の傍らに座った。 風がふわりと火村の頬を撫でる。 暖かい午後の一時だ。 見下ろす先には、この景色にぴったりと当てはまる如く人間。 そう言えば、田島は「眠り姫」と言っていた。 木の下で眠っていると。 自分はその現場に遭遇したらしい。 傍らには「騎士」呼ばれているらしい男もいないようだ。 穏やかな風が彼のシャツの裾をヒラヒラとはためかせる。 同じように彼の髪を撫で、揺らす。その穏やかなのに、これ以上ないくらい天上の光が溢れているというのに、無性に胸が掻きむしられる。 彼に触れたい欲求にかられる。 これは俺が彼と相反する存在であるからなのだろうか? その時、人の気配に意識が浮上したようだ。 まぶたがぴくり、とふるえる。 ゆっくりと、瞳が開く。 火村は、動けない。 桜色の小さな唇が言葉をつむぐ。 「う……ん。と、しき?」 ふんわり微笑んで、また目を閉じてしまう。 その拍子にさらりと、顔に茶色の柔らかそうな髪が落ちる。 誰かと間違えたらしい……。 それが悔しくて、自分の名前をよんで欲しいと切実に思う。 わずかに見た琥珀の綺麗な澄んだ瞳。瞳を閉じている分、作り物めいて見える小さな顔。誰かに向けられた、日だまりのような微笑み。無邪気に無防備に眠る天使。 この俺が見惚れてしまった。 すでに、惹かれてしまっている。間違いなく。 きっと彼は俺を知らない。 今の出来事も映像としてその瞳には映っていない。 それが溜まらなく、悲しい。 「有栖」それが「天使」の名前だ。 それからはどこにいても見つけられようになった。 ふと、食堂や図書館で周囲をめぐらせば、いつのまにかそこにいた。 ただ、見つめるだけの日々。 どうにかしたいとは思わなかった。 自分とは人間の種類が違うと思った。 彼は光の中にいた。友達の中にいた。 このまま、見ているだけでいいかと、思った。 彼がそこに笑顔であれば、それだけでいいような気がした。 そうして、2年に進級したある日。 絶好の機会が巡って来た。 ゴールデンウィーク明けというのは、人が少ない。 4月中に履修した講義の出欠の仕方がわかり、絶対出席しなくてはならないもの、名簿が回ってくるもの、代返が効くもの、出欠を取らないもの、と判断がつくようになる。講義に出なくてもいい、と判断した時間はバイトに当てられたり、遊びに使われたりするのだが、おかげでいっきに人口密度が減少する。毎年の恒例行事のようなものだ。 大学から近い場所に住んでいる火村は、時間が空いていると他学部の講義も聴講している。 その日2限目は法学部の親族相続法を聴講していた。 講義室に入ると、やはり人が少ないようだ。 火村はどこに座ろうかと、室内を見まわした。それなりに有名人の火村は女性に声をかけられることがあり、面倒なことから逃れるため席を選ぶのだ。 すると、階段状になった講義室の一番後に彼がいた。 誰も隣に居ない。とても珍しいことだ。いつも誰かいて囲まれているのに。 火村は引き寄せられるように、彼の一つ空けた隣の席に座った。 すぐに教授が来て、講義が始まる。 この講義はかなり平淡な講義だ。一応聴講しているが、講義自体はかなり下手だとう思う。だから後から見ていても居眠りをしたり、内職をしたりしている人間を簡単に見つけられる。 隣の彼もカバンから何か取り出して、書き始めた。 レポートだろうか? しかし原稿用紙に書き綴っているのだが?火村は疑問に思う。 レポートであるなら大学指定のレポート用紙があるし、原稿用紙に書くものなどないはずだ。ということは、個人的なのもなのか? それにしても、夢中になって書いている……。 一心不乱で、回りが視界に入っていない。隣にいる自分にも関心などなく、まるでいないように感じてるのだろう。 それは悔しいと思う。自分でもとても意外な感情だけれど。 彼をそれほどまでに夢中にさせているものは、何なのか興味を引かれた。 目の前には書き綴られた原稿用紙の束が置かれている。火村は手に取ってみた。 何枚か読んでみる。 これは、ミステリー? 読み進むうちに殺人事件が起こる。人間模様が繰り広げられる。 淡々と事件は進む。どこか優しい文章で。 彼がこの話を書いている、ということが信じられない。 この、ふんわりと優しげな容姿、雰囲気、人柄で?もっとも火村は直接話したことがないのだから、見かけとうわさと想像でしか彼を知らないのだけれど……。 興味を引かれどんどん読み進む。 ついには、彼の今書いている原稿まで追いついた。火村はそっと覗き込む。 彼はさすがに自分の原稿を見ている火村に気付き、不審そうに見上げた。 それでも、原稿用紙に向かう。 頭の中にある文章を少しでも早く紙に写し取りたくて仕方がないという風情だ。 「今日はここまで」と教授の声がして講義が終わった。 彼は原稿用紙をカバンにしまう。 火村はこのまま別れてしまうのか、と思ったら声をかけていた。自分でも驚きだ。 「この続きはどうなるんだ?」 彼は一瞬驚いたように、瞳を見開く。そして、自信ありげに、 「あっと驚く結果が待ちうけてるんや」 「気になるな」 「ほんまに?」 とても、嬉しそうな表情だ。 「アブソルートリー」 火村の答えに、おかしそうに目を細めると、にっこりと花がほころぶような笑顔。 それだけで引き寄せられる、と思った。 田島が「にっこり笑ってもらえたら、幸せ」と言っていたことを思い出す。まさしく自分は彼の言う幸せを体験しているのだ。そして、火村もその微笑みに幸せを感じた。 「感想聞いてもええ?ご飯一緒にどうや?」 「おごるよ」 およそ人に物をおごったことなどないのに、火村はそう答えていた。 食堂で二人は火村のおごったカレーを食べながら話をしていた。 「俺、有栖川有栖ていうんや。よろしゅうな」 「俺は火村英生。社会学部だ」 「火村くん?へえ」 「火村でいい」 「火村?俺も有栖川はいいにくかったら、有栖でええよ」 「有栖、ね。アリス?」 「うん。火村が呼ぶと「有栖」もなんか違って聞こえる」 「いい名前だな。作家を目指すなら好都合だ。へたなペンネームを考える必要がない」 「ほんまに??嬉しいわ」 にっこり。首をかしげつつ天使の笑顔だ。 さて、まわりの人々はどうしてこの組み合わせ?と内心不思議だった。 二人とも有名人であるが、接点がない。今までも並んだ姿を見たこともない。 ものすごく、二人は視線を浴びていたが有栖は気付かないし、火村無視していた。 有栖の傍にある森田の姿もない。 本当にどうしたことだろうか?食堂の人々は顔には出さないが様子を伺っていた。 一方火村も好都合だが、片割れはどうしたのだろう?と内心思っていた。 「似合いの一対」「眠り姫と騎士」と呼ばれている、いつも有栖の傍を離れず、守っている森田という男が見当たらない。いたら、今ごろこんな風に話していないし、声もかけていない。突然ここに現れたりするのだろうか? 有栖には今日初めて逢ったことにしてあるので聞きたくても、聞けないのだ。 「完成したら、読んでな!」 にっこり。よく、笑う人間だと思う。それがとても似合う。 「ああ」 火村もつられるように、わずかに唇の端を上げて笑った。 「火村もハンサムやね。きっともてるんやろうな。声もいいもんな」 有栖に賛美されるのは嬉しい。他の人間が口にしたら思いっきり無視するが。 「バリトンっていうのかな?女の子の耳元でささやいたら、うっとりするで」 有栖はテーブルに頬杖をついて、火村を見上げた。 その瞳がきらきらと瞬いていてまるで引力が働いているように引き込まれると思う。 別にそこらの女にうっとりしてもらわなくてもいいし、耳元でささやきたくもない。 有栖に見つめられる方が、よっぽどいい。自分の思考に驚きながら、火村はご魔化すように、有栖の好きそうな本の話題をふった。 有栖はかなりの読書家のようで、ミステリが多いがそれでもいろんな分野を読んでいるようだ。楽しそうに、最近読んだ本の話をする。 まだ手にいれていない本を持っていると言うと、 「その本貸してや!」 瞳を見開いて、意気込んで言う。 「いいぜ。持って来てやるよ」 「ありがとう!」 一々反応が可愛いし飽きない。 「なあ、この後時間ある?」 「ああ」 せっかくの有栖の誘いを断る訳ないだろう。 有栖は食堂を出て、廊下を一番奥まで進み裏庭へ出た。 そして、裏庭をまたまた抜けて木々が覆い茂る場所へ。 火村は有栖の後を付いて行く。 この先は?ひょっとしてと思っていると、火村が有栖を初めて見かけた、あの場所に着いた。かなり奥まった場所で誰もいない。 「ここで時々昼寝してるんや。いい天気やし。すっごく気持ちいいんや」 有栖は大きな大木の下に行き両手で抱えきれない程の幹に手を付く。 内心、知ってると火村は思った。けれど露ほども感じさせない声で、 「いい場所だな」 と言った。 「そうやろ?」 有栖は火村に嬉しそうな顔で振り向いた。 腕を空に伸ばして身体をしならせ、有栖は深呼吸した。 「気持ちいい。夏の匂いがする」 「夏の匂い?」 「うん。草の匂いや、木から伸びる葉の匂い。これから芽吹く新緑の香りや」 そう言って芝生の上に座った。 風が優しく吹く。有栖の茶色の髪を撫でて戯れながら、過ぎてゆく。 太陽の光にきらきらと輝く有栖。笑顔がまぶしい。 なんて、光だろうか?俺とこんなにも違うというのに、そんな事を感じさせないくらい自分の中に入ってくる存在。 火村も有栖の隣へ座る。 二人でごろんと横になって寝転ぶ。 草の感触が気持ちいい。 有栖は気持ち良さそうに目を閉じている。 火村も有栖と同じように目を閉じた。 有栖の言う、新緑の香りを風が運んでくる。 自分にも自然を肌に感じ、幸せを思う気持ちも残っていたんだと知る。 なんて、穏やかに時間が過ぎるのだろうか? 心も身体も暖かい光に浸されていると思う。 ふと、目を開けると真横に有栖の顔があった。綺麗な琥珀の瞳が火村を見ている。 澄んだ瞳にはびっくりするほど、穏やかな自分の顔が映っていた。 どきりと心臓が波打つ。 ふいに、有栖が微笑んだ。 「火村。こうゆうの、好きやろ?あまり表情に出ないけど、楽しそうや」 確かに楽しいが、俺も好きって今初めて気付いたばかりだよという言葉は飲み込んで、 「そうだな」 と答えておいた。 すぐ傍にある指にそっと触れて、 「ありがとう、いい場所を教えてくれて」 火村はいつもの何か含むものがありそうな笑いではなく、優しく微笑んだ。 有栖はちょっぴり瞳を丸くすると、 「そっちの方が、ずっといい」 と言った。火村の笑顔が好きだと有栖は思う。 もっと笑って欲しい。 だから、有栖は花がほころぶような笑顔を見せる。相手に笑って欲しかったら自分が笑わなくてはいけない、と母親に小さい頃から言われていた。自分もその通りだと思う。 有栖の最強の笑顔に火村がかなりやられたことは言うまでもない。 次の日。また食堂で逢う二人にまわりは、どうしたことだ?と思っていた。 昨日に引き続き、社会学部の有名人火村と有栖が一緒にいる。 森田はどうした?何してるんだ?いつも有栖に寄る人間を排除していたじゃないか!と疑問の声が実は裏で上がっていた。 こちらも美形二人で見目麗しく、すばらしく目立つが……。 あの二人がどうして知りあったのか、何を話しているのかとてもとても、気になった。 当然それとなく、聞き耳を立てたくもなる。 「ほら、昨日言ってた本」 火村は一冊の本を指し出す。 「ありがとう!!火村」 にっこりと微笑んで感謝を述べる。覚えててくれたんや、と有栖は嬉しそうに本を受け取り、パラパラとページをめくる。 火村は有栖の反応に安心した。昨日の出逢いはそこで終わってしまうのではないか、と柄にもなく心配したのだ。 この際聞いておこう、と火村は疑問を口にした。 「アリス、いつも一緒に食べる友達がいるんじゃないのか?」 「うん、おるよ。叔父さんが亡くなったって仙台まで行ってる。だから休んでるんや。昨日、もう少しかかるって電話があったわ」 なるほどね。しばらく休みな訳だ。どうりで隣で見張ってる人間がいないと思った。その人間は多分「森田」というのだろう。有栖の親友なのか、保護者なのか知らないが。 遠くから見ていた有栖の隣にいつもいた人物。 うわさ話には詳しくない火村だが、有栖と森田については情報を仕入れていた。同じ下宿の田島が聞かなくてもしゃべってくれた。二人はかなり仲がいいらしい。 いつも一緒に行動しているらしく、火村も仲良さそうに話しているのを見たことがある。 「いい奴やで。今度紹介するわ」 呑気にそんなことを言う。 きっと紹介されたら、ものすごく嫌な顔をされるのだろう。 それもまた楽しいかもな、と火村は思う。しばらく退屈とは縁のない生活ができそうだ。 2日のうちにすっかり打ち解けた二人はその後も毎日食堂で逢い、一緒に帰るようにもなった。 数日後やっと、敏樹が登校して来た。 しかし、どうも空気がおかしい。 何か含むものがありそうな、何か言いたげな回りの目……。 どうしたことだろう?敏樹は不審に思う。 しばらくぶりに見た有栖はとても可愛くて綺麗で、しみじみやっと有栖不足を解消したと思ったのだが。 そして、敏樹は知る。 食堂で、有栖に火村を紹介されて。 その瞬間敏樹は、なんてこったい!と思った。 ちょっと目を離した隙に、どうしてこんな男にひっかかるかな……。唯の虫じゃないだろう……、これは。害虫もいいとこだ。それにしても、有栖の懐き方が気になる。嫌な予感がする。とても。 火村は敏樹を見つつ、にやりと笑った。 その顔に敏樹もかちんと、くる。 本当に、偶然逢ったのか?という疑惑が頭をよぎる。怪しい……。 計画的ってことは、ないだろうな? 敏樹は温和な顔を珍しく歪めた。じろり、とどこか面白そうな火村を見る。 火村は敏樹の反応に当然だろうな、と肩をすくめた。 有栖は気付かないが二人の間にはばちばちと火花が散っていた。 その光景を食堂の人々は固唾を呑んで見守っていた。かなり興味津々な視線で。 鈍感有栖は、いい男が二人も並ぶとええもんやなあ、と満足げにふんわりと微笑んでいた……。 END |