「森田君の多忙な一日」






「おはよう〜」
「おはよう」
 爽やかな一日が始まる。
 朝、まず最初にすることは、小学生の弟を起こし、ご飯を食べさせることだ。
 トーストにハムエッグ、コーヒーと簡単な朝ご飯。
「今日はバイトがあるから。冷蔵庫にご飯があるから暖めて食べるだぞ、毅史」
「わかってるって。兄ちゃんもバイトばっかりしないで、たまには遊びに行きなよ!俺のことはいいからさ」
 毅史はパンを口に詰め込みながら、そんなことを言う。
 小学生のくせに、生意気だぞ。
「いってらっしゃい」
「いってきます!」
 元気があり余っているようで、走っていく弟の後姿を見送る。
 さてと、俺も用意するかね。敏樹は己の準備を始めた。
 
 現在両親は忙しくて、家に帰ってこれない状況である。
 「森田法律事務所」を経営しているため、多忙極まりない両親だ。父親が弁護士、母親が税理士とくれば、家に帰って来ないことはざらだ。
 俺はいいいけど、毅史はまだ小さいのに……。
 言ってもしかたないけれど、可哀想だと思う。
 半分しか血の繋がらない、かわいい弟。
 敏樹の母親は小さい時に死んでしまい、父親は毅史の母親と再婚した。それが現在の母親なのだが、彼女は税理士ということもあって、これを機に二人で事務所を持つこととなった。おかげで、現在の場所に引っ越して来た。それから随分経つ。
 新しい母親は家事や育児をするより、仕事が好きな人だ。確かに仕事をしている時、彼女はとても輝いている。俺もそれでいいかと思う。
 おかげで、家の事は一通りできるようになった。
 さて、今日も家事……洗濯、掃除とやることはいっぱいある。
 でも、大学に通いバイトしている身としては、それほど家のことはできない。
 こうした時お手伝いさんがいてくれるとよかったと思う。けれど他人に家の中に入って欲しくないと言ったのは自分だ。でも、週に2度くらいだったら、考えた方がいいかもしれない、と最近思い直す。自分だけでは行き届かないことが増えたためだ。毅史も少しずつ大きくなってきたし。
 さて、洗濯は夕べやっておいたから、後片付けをしたら大学へ出かけよう。


 定時の電車に乗れそうだな。
 俊樹は腕時計を見て、やれやれと思う。
 これで遅刻は無くなった。
 足早に改札を抜けようとすると、目の前にふらりと女子学生が現れ、じっと見つめられる。
 これは、ひょっとしたらと思っていると案の定、
「すいません」
 と声をかけられた。
 制服から高校生とわかる。グレーのセーラー服に赤いスカーフ。プリーツスカートが上品に翻る。このあたりでは有名なお嬢さま学校だ。
 下を向いているので、長い髪がさらりと落ちる。
 恥ずかしそうに頬を染めておずおずと手紙を渡された。
「受け取って下さい……」
 勇気を出しているのだろう。声が震えている。
「ありがとう」
 にっこりと微笑む。
「でも。ごめんね」
 俺の心にはちっとも響いてこない。申し訳なけど、子供に見えるんだよね。
 だからと言って、妙齢な女性ならときめくかと言われるとそうでもないのが、目下の悩みどころだ。
 敏樹の返事を聞くと、泣きそうに顔をゆがめて、それでも我慢するように唇を噛みぺこりと頭を下げると女子高生は走り去った。
 その可哀想な後姿を見ても心が痛まない。
 毎度、どうしようね、これ。手紙をどう処理するか、頭が痛い問題だ。家で弟の目に触れることは避けたいし、親の目にとまっても困る。かといって大学で友人に見つかるのはもっと避けたい。
 ひとまず、鞄へ入れておこう。そして、内密に処理しよう。





 大学である。
 ああ、毎日何が楽しいって、有栖の顔を見ることだろう。
「おはよう、有栖」
「おはよう、敏樹!」
 笑顔を付けて名前を呼ばれると、さっきのことなんて、どうでもよくなる。
 今日もなんていい日だろうと思う。
 授業が始まるまでの短い時間は有栖との楽しいおしゃべりタイムだ。
 今日の話題はゼミ教官だ。
 三年時にはゼミが始まるため、この二年の秋、ゼミ教官を決めなくてはならない。
「どこにする?もう決めた?」
 前回のノートを有栖に渡しながら聞く。前回のこの授業を有栖は熟睡していたのだ。
「佐伯教授がいいなあ」
「有栖は佐伯教授が好きだからね」
「そういう訳でもないんやけど……。でも好きは本当」
 有栖はノートを写しつつ、素直に答える。
「まあ、佐伯教授でいいんじゃない?きっと喜ぶよ。有栖が希望しないと寂しがるかもね。佐伯教授も有栖のことすごく気に入ってるから」
「そうかな?」
 有栖は首をかしげる。
「周知の事実ってやつだよ。だって、出欠取る時、『有栖川君』って優しく呼ぶだろう。有栖は出席番号1番だし。にっこり微笑みまで付けて。あれはクラス中知ってるね。だって、有栖が休みの時、そりゃあ、寂しそうに風邪かねえって、言ってたんだよ。そして、俺は後で呼びとめられた。大丈夫なのか?って。大学の教授は一人の生徒が休んだだけで、そんな心配はしないって、普通。有栖、わかってる?」
 全然わかっていない有栖に敏樹は力説する。
「ああ、『高橋みさえ』のゼミだけは取るなよ。絶対に。あの女はダメだ。あいつ、出欠取る時、一度『有栖ちゃん』って言っただろう。あの時、クラス中が凍ったぞ。冗談にしても質が悪い。って冗談のつもりはないのかもしれないが。あいつは綺麗なものが大好きらしいから、有栖がゼミなんて取ったら『夏の虫』になる!」
 敏樹とは思えないほど、言葉が荒くなる。
 それだけ、危ないということだろうか?有栖は首をひねった。
「確かに、ちゃん付けで呼ばれた時は困ったことを覚えてる……。恥ずかしかった。でも、『夏の虫』て、ひどいで、敏樹」
 有栖は脳裏に思い出した。その時のことを。さすがに居たたまれなかった。大学生の男を捕まえて、ちゃん付け……とは酷いと思う。
「有栖は甘い。女だからって、油断したらダメだ」
「油断って、敏樹」
「何かあっても、女性に有栖は手を上げられないだろう?」
「そりゃあ、女性に手なんて出さへん。でも何かなんて、あるわけないわ」
 有栖はのんきに笑う。
 ああ、だめだと敏樹は思う。
 どんなに、危機感を持ってほしくて忠告しても全く自覚がない。
「とにかく、佐伯教授にしておきな。絶対それがベストだよ」
 敏樹はちょっぴり疲れたように言った。
「うん。もともと希望はそうなんや。だからいいんやけど……」
「ああ、俺も佐伯教授に付くから」
「え?敏樹もなんか?」
 有栖はノートから顔をがばっと上げた。
「そうだよ。どうして、驚くかな」
「だって、敏樹だったら、法律学の方がいいんやないか?」
「それは問題ないよ。弁護士の勉強は家でもできるし、参考書もたくさんある。親が教師みたいなものだからね。ゼミは純粋に興味のあるものを勉強したいと思ってる」
 敏樹は安心させるように微笑む。
 本当は忙し過ぎて父親が教師となって、敏樹に教える時間などないのだが、そんな事はどうでも良かった。敏樹にとって大切なのは有栖と同じゼミを取ることだけだ。
 ちなみに、敏樹はそれでも弁護士の試験に合格する自信があった。
 有栖にしか見せない、私にもあんな風に微笑んで欲しいと学内の女性から言われている、特別に優しい微笑みを浮かべ有栖を見つめる。
 しかしその笑みが有栖限定であり愛情に溢れているということが、当の有栖にわかっているかどうかは、不明だ。


 そして、何が嫌かって、昼食の時間になると、火村に会うことであろう……。
「火村!」
 有栖は嬉しそうに火村の座っている席の前に腰を下ろす。
 火村はまたもやカレーだ。
 こいつ、カレーしか食べたないのか?と思う時がある。もちろんそれ以外も食べているのだが火村のイメージがカレーなのだ。敏樹の脳にはそう刻まれている。
「火村、今日大丈夫?」
「ああ、予定通りでいい」
 この間から約束していた、火村の下宿に遊びに行くらしい。
 今日、俺はバイトだ……。敏樹は内心激しく嫉妬していた。
 有栖が自分以外の友達と付き合いがあることが、腹立たしい。ましてや、相手は火村である。その他大勢とは訳が違うのだ。何より有栖のなつきようが、一番の問題だ……。
 自分にこんな独占欲があると初めて知った。
 今までこれほど大切で、大切で、愛しい存在など、存在しなかった。
 ずっと、自分は淡白な人間だと思ってきた。それほど夢中になるものもなく、がむしゃらに努力することもなく、大抵のことがそこそこにできた。高校時代はずっとバスケットをやっていて全国大会まで出場できたし、勉強は言うに及ばずだ。
 そのせいで女性に大変持てた。
 たくさん告白もされて、結構可愛い女の子とも付き合ったりしたが、のめり込む程のこともなかった。確かに女性は可愛いし会話していて楽しいんだけれど、それより小さな弟の方が気になった。両親が忙しく、自分が一緒にいてやらなければ、誰も弟の傍にいない。
 寂しい思いをさせたくなくて、なるべく一緒にいた。そのためか兄弟仲はとても良くて、己のバスケットの試合にも弟は応援に度々付いて来た。
 そう、有栖は家族以外で初めての「愛しい存在」だ。
 誰にも渡したくない、と思う。
 目の前の火村にも譲れない。
 実は火村が結構いい奴だということは、付き合う内にわかった。いい奴だと一言でいってしまうには問題があると思うが……、有栖には限りなく優しく、それ以外の人間にはそっけない。俺は誰にでも愛想はいいけれど、実際に大切な存在だけ優しくすれば十分だと思うから、火村の態度は納得がいく。でも有栖が関われば、どんなに「いい奴」でも「嫌な奴」だ。なぜなら、火村の有栖に向ける感情も友達ではないから。
 きっと俺と同じように有栖を想っているから。
 だから、火村ばかりに有栖を独占させたくない。
 有栖が今日火村の下宿に行くのなら、今度はうちに来てもらおうと心中で決めた。
 敏樹は隣の有栖に彼らしいにっこりとした微笑みで言葉をかける。
「有栖、今度家に遊びにおいで。弟も待ってるよ」
 そう、実は我が弟が有栖をとても気に入って、今度はいつくるの?と昨日も聞かれたばかりなのだ。我が弟ながら、趣味が良すぎる。
 子供だからって、どさくさに紛れて家に遊びに来た有栖に堂々と抱きつくのもどうかと思うが、この際利用させてもらおうか。
「弟くん、元気?」
「ああ、とってもね。毅史が今度は有栖がいつ来るんだって、うるさいよ」
 にっこり。だから、おいで。
「うん。行く〜。毅史くんに今度お勧めの本持って行くって言うといて!」
「伝えておくよ。有栖と同じミステリ好きだからね。最近は小学生用のホームズの本を読んでるよ」
「そうなんや!今度逢うのが楽しみやわ〜」
 有栖が楽しそうに微笑む。
 有栖は弟を小さな同士だと思っている。ミステリが本当に好きなのだ。だから、小学生だからといって決して馬鹿にしない。真剣にミステリについて二人は年を超越して話す。
 よし、弟を口実にしたが、有栖を家に誘うことに成功した。
 火村ばかりにいい思いはさせない。
 心の中で宣戦布告である。





 今日のバイトは家庭教師である。
 綾ちゃんという中学生の女の子だ。
 結構頭がいい子だが、唯一数学が弱いのでそれを中心に教えている。
 テストも近いので、学校の予習より問題集を集中的に攻略する。一度理解していまえば、数学はいかに数をこなすかが、勝負である。
 彼女が机に向かい練習問題をかなり解いた所で、ドアをノックする音がした。
 一休みして下さいと母親が紅茶とお菓子を部屋に持ってきたのだ。
「ありがとう、ございます」
 敏樹はにっこりと愛想のいい笑顔で応じて、皿やカップの乗ったお盆を受け取る。
「休憩にしようか?綾ちゃん」
 敏樹は振り向きお盆に乗った紅茶とお菓子を指差す。頷くと綾はシャーペンを置いた。しばしの休憩だ。
 お茶を飲みながら、綾の学校の話や敏樹の大学の話に興じていると、突然綾は切り出した。
「先生は、彼女いるんでしょう?どんな人?」
 当然いるもの、と思われている。いる、というか、いないというか。
 本命は告白もできないくらい大切で、それ以外は適当な女友達だし。あれを彼女呼ぶのであれば。
「さあ?どうなんだろうね」
「教えてくれたっていいでしょう?だから大人って嫌よね。子供だからと思ってすぐにはぐらかすんだわ」
 綾は可愛らしくピンク色の唇を尖らす。
「そういう訳でもないんだよね。複雑な関係もあるんだよ。君も大人なんだから、わかるだろう?」
 にっこり。そう、大人のつもりなんだったら、もう人の事情に突っ込まないようにね。
「……。複雑な関係?」
 少し胡散くさそうだ。眉が寄っている。
「そう」
「わかったわ。先生がいっぱい遊んでるってことが」
「人聞きが悪いね。こんなに品行方性なのに」
「先生は遊んでるように見えないところが、質が悪いわ。先生の見かけに騙される女の子が可哀想ね。人を見る目がないのは自業自得だけど」
 綾は辛辣だ。処置なしと肩をすくめ首を振る。言っていることも仕草も随分大人びている。
「俺はそんなことしないよ」
 そう。子供には興味もないし、嫌がる女性には手は出さないし。合意の上だよ。とてもそんな事実は言えないが。
「先生、今日手紙もらってたでしょう。駅で」
 ふわりと綺麗な笑みを少女は浮かべた。どうやらそれが切り札らしい。15歳の少女のものとは思えない、大人びた笑みだった。
「見てたんだ?綾ちゃん」
「見てたわよ。しっかりと。先生もあんな風に告白できればいいのにね、本命に」
「本命って?なんのことかな?」
「ダメよ、先生。大切な写真はしまっておかないとね。まあ、普通は友達と撮った写真にしか見えないけど」
 写真ねえ。定期にいれている、有栖と何人かの友達と一緒の写真。当然女の子は映っていない。これは、ばれているのかな?
「どうして、そう思う?」
「だって、先生間違っても彼女の写真なんて持ち歩くタイプじゃないわ。そして、友達の写真もね。愛想はいいけど、そういうの嫌いそうだもの。束縛されるの、煩わしいでしょう?そんな先生が写真を定期に入れているなんて、特別な人のものしか考えられないわ。だから、片思いなのかな、と推測する訳よ」
 綾は頬にかかる黒いストレートの髪を邪魔そうにかき上げ、紅茶を一口飲む。
「すごく綺麗な人が隣で笑っていたわ。先生って、絶対面食いだから。すぐにわかるわよ」
 そして、「どうかしら?あたり?」なんて敏樹を見上げてくる。
 女って、怖いよな。鋭いことこの上ない。
 それなりに付きあっている女の子達は絶対言わないことを目の前の少女ははっきり口にする。それは15歳という潔癖さがそうさせるのか。真実から目を反らさない、まっすぐな瞳。ああ、少し有栖に似ているかもしれない。この、迷いのない瞳が。
 だからかもしれない。少女にこんなセリフを言ったのは。
「大切な人間ほど臆病になるものなんだ。上手くいったら君には報告するよ」
 少女はその言葉に満足そうに微笑む。どこか慈悲深い笑みだった……。



「森田君。今度どうかしら?」
 夜女友達から電話が入る。でも、断ってしまった。
 今日はそんな気分ではなかった。
「ほら、毅史。もう寝な」
 眠そうな弟を布団に入れる。
 今夜の夢は有栖が出てきそうだ。




                                                    END


 


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