「たからもの」





「バイトしたいなあ」

 有栖が漏らした言葉に火村はキャメルを持つ手が止まり、敏樹はカップコーヒーを口に運ぶ瞬間空中で停止した。
 二年生になって、本格的にバイトを探そうかと有栖は考えていた。
 一年時のバイトは母校である高校の試験監督だけだった。
 卒業生は、卒業後一年間だけ高校の模試の試験監督ができるのだ。
 新卒業生が毎年試験監督ができる、つまり毎年繰り上がる訳だ。地元に残ったメンバーは登録しておくと学校側から電話がかかってきて日程の都合が合えばめでたくバイトとなる。
 たいてい、土日。土曜日半日、日曜日一日との二日間。
 やることは、とても簡単で答案の回収整理、試験時間中の監督、監督中は暇で(本当は違う。でも、その間にレポートを仕上げたこともある)1.5日で10,000円ととても魅力的だった。
 本当はそれ以外にもやりたかったのだけれど、家族、親族にひとまず、生活に慣れてから考えるように言い渡されていたのだ。今時、両親や親族の意見もないものだが、実は高校時代にちょっとしたバイトをした時、トラブルに巻き込まれた。それ以来何かと心配するまわりを顧みて、さすがに一年間は我慢しようと有栖は思った。
 やっと約束の一年間が過ぎて、有栖は晴れて自由にバイトが出来る身となったのだ。
 両親としてはバイトなんてして欲しくないというのが本心だったが、有栖はしっかりと無視させてもらうことにしていた。
「バイトだって?有栖」
「うん。本屋がいいなあ」
 有栖はもうすでに、本屋でバイトをする気でいた。
 やるなら、好きな物を扱う仕事がいい。本に囲まれる生活はとても幸せで、きっと楽しいに違いない。新刊の情報も早くわかるし、すぐに手に入る。その手で大好きな本を店頭に並べることができるのだ。
 有栖の期待に満ちた瞳を見ると、有栖がその気になっていることがありありと二人には伝わってきた。
「急にどうしたんだ?アリス」
「急やないもん。ずっと考えてたんや!するなら、本屋やて」
 有栖と本屋、というか本。それは似合い過ぎるくらい似合っている。
 かなりの読書家で将来は小説家、それもミステリ作家を目指す有栖には確かに美味しいバイト先であろう。
 けれど、本屋でバイトする有栖を想像してみて二人はぞっとした。
 なんて、恐ろしい……。
 反応の良くない二人に有栖は唇を突き出すようにして、ふくれる。そのふくれた顔がまた可愛くて、頬をつつきたくなるくらいだ。
「火村なんて、家庭教師の他にバーでもバイトしとるやん。夜だと自給がいいからって!敏樹は家庭教師とお家の事務所の手伝いしてるんやろう?皆がんばってるやん。俺もやりたいの。なんで、そんなに心配するんや?何も夜中のバイトでもないのに」
 せめて、あまり人目がない場所のバイトにして欲しい二人は思った。
 こんなに綺麗で無防備な有栖が例えば本屋のレジに居たとする。
 ありがとうございました、と愛想良く微笑まれたとして、勘違いしない奴が現れないとは言いきれないではないか。
 これでは毎日有栖見たさに通いつめる客が現れるに違いない。
 それも地元の大阪でバイトしたら、何かあっても二人にはフォローもできない。
 第一、頻繁に覗くこともできないじゃないか、と二人は心から思った。
 もっともな意見ではある。
「図書館で司書が手伝い探してたぞ」
「それだと、帰るの遅くなるやん。地元がいいの。両親も心配するし」
 やっぱり、地元。
 両親は図書館の方が絶対安心に決まっている。けれど有栖はそんなことは想像もしないに違いない。
「本屋だと、1割引きで本が買えるんやで。火村や敏樹の分も買ったるで」
 にっこり。極上の笑顔を見せる。
 ……。
 ……。
 そんな事しなくていいから、止めて欲しい。二人は切実に思う。
「とにかく、バイトするの。止めてもだめ!」
「有栖!」
「アリス、本気か?」
 敏樹と火村の反対にあって、かなり気分を害した有栖はもう意見なんて聞くものか、と両耳を手で押さえて首を振る。
 両親ばかりか、親友の二人まで反対することないやんか、と有栖は悲しくなる。
 有栖の悲しげな表情を見ているのは辛い。
「有栖、せめて立ち読みの客がいっぱいいるみたいな大型書店は止めておきな」
 敏樹が妥協案を出す。
 大型店なんて、どんな客がいるかわからないじゃないか。危なすぎる。
「家の近所とかの小さな書店はないのか?」
 火村も勧める。
 できるなら見知った客しか来ないような、店がいい。
「家の近くだと親が覗きに来るの。それだと意味ない。大型書店は何でだめなん?」
 なぜ、とはっきり答えられたらどんなに簡単だろうか。
 ああ、どうやって説得しようか、諦めさせようかというのが二人共通の心の叫びだ。
「反対はしない。だが、もう少し待て!アリス」
 火村は最後の手段とばかりに認めてしばらく待たせることにした。
 有栖は少し不服そうだが、小さくうんと頷く。
 有栖を踏み留ませることに成功した二人だが、実際はこれからが大変である。心中で盛大なため息を付いている火村と敏樹だが、それを知らない有栖は気を取り直して冷めたカップコーヒーに手を付ける。そして、一口啜る。
「そういえば、今日って、二人とも暇ある?」
「俺はバイトないけど?何、有栖?」
 機嫌の少し良くなった有栖に、途端にこやかに応じる敏樹である。
「今日は夜のバイトがある」
 火村は何かあったかと目で伝えていた。
 有栖に対して大層優しい二人だ。それも滅茶苦茶に。
「ちょっと、帰りに欲しい本があったんやけど……」
 そう言いつつ有栖は瞳をきらきら輝かせた。
「火村がシェーカー振ってる姿も見てみたいなあ。見に行ってダメ?」
 火村を上目遣いで有栖は見る。「お願い」とその顔には書いてある。
 こんな瞳でお願いされて、果たして断れるのかと火村はしみじみ思う。けれど、なるべくならああいった店には来て欲しくない。
 酔った客は何するかわからない。
「ね、火村。カクテルとか作ってるって言ってたやん。俺火村の作ったの飲んでみたい!」
 有栖のお願いモード発動である。
 こうなると、誰も逆らえない。例え、鋼鉄並の理性と言われる火村といえどだ。
「森田……」
「了解。有栖、俺と一緒に行こうよ。火村の格好いい姿を見に」
「やっぱり、敏樹も見たいんやな!行こう、行こう」
 有栖は嬉しそうに言う。
 誰が見たいって?勘違いも甚だしい。敏樹は内心とんでもないと思う。でも、
「そうだね。是非火村の雄姿を拝みたいね。きっとバーでももててるんだろうね、火村?」
 にやりと口角をあげながら揶揄する。
「それほどでもないぜ。森田こそ、この間社学一番の美人に誘われてたじゃないか。社学では有名だぜ?」
「それは、誤解だね。俺は彼女に火村のことを聞かれたんだ。親しいの?って」
「それこそ、口実ってやつだろう。この、色男」
「火村には負けるさ」
 二人の皮肉を含んだやり取りに有栖は気づかず、にこやかに応じた。
「二人とも、もてるんやな〜。背は高いし、ハンサムやし、頭もいいから当然やけど。敏樹は甘い感じのハンサムで火村はクールなハンサムやもん。女の子によく俺も二人のこと聞かれるんや。たまに男にも聞かれるけど。彼女でも取られたんかな?どっちかに」
 それは、違う。
 聞き捨てならない発言に二人のアンテナが引っかかる。有栖のことに関しては二人とも少しの情報も聞き逃さない。
「有栖、女の子は置いておいて、男に聞かれたことって、どんな事?」
「え、親しいんやろって、聞かれて。よく逢うのか、一緒にいて何してるって?特定の彼女はいるのかとか。だから、二人とも女の子に酷いことしてへんで、って言うといた。もてるけど、それはしょうがないやん。格好いいんやもん」
「格好いいって、有栖に誉められるのは嬉しいけどね。その男達、有栖のこと聞かなかった?ついでに今度遊びに行こう、とか?」
「世間話になった時は、自分のことも話したけど?飲みに行こう、とは言われた」
 やっぱり。
「アリス、そいつは俺たちの知ってるやつか?」
「うん。宮下、社会学部の。あと、経済学部の園田。この二人は覚えとる。あとは知らん人やった」
「宮下ね」
 火村は敏樹に視線をやる。その視線の意味を敏樹は瞬時に察する。
「園田は知ってる」
 敏樹は心得たように頷く。
「その二人がどうかした?まさか、本当に彼女取ったんか?」
「それはない」
「とんでもない」
 同時に叫ぶ。
 本当に、どうしてこう鈍いのだろう?もっと危機感をもって欲しい。
 そして、ちょっと目を離すとすぐに虫が寄ってくる。殺虫剤も効きやしない。
 困ったものだ。
 有栖の知らない間に虫は駆除しなければならない。
 二人はそれぞれ目を光らせ、網にかかった虫を排除していく。
 別に二人が仲がいい訳ではないのだが、協力して駆除しておかないととんでもないことが起こるのだ。実際認めたくないが二人そろえば完全無欠だ。これ以上ないパートナーに違いない。
 思えば、二人が知り合った頃、まだ共同戦線を張っていない時に事件は起こった。
 それは、火村と敏樹が互いに言葉を交わした日から、わずかしか経っていない日。





「火村!」
 己が聞き間違うことなどあり得ない耳に心地よい柔らかな声に振り向く。
 そこには小さく手を振る有栖の姿。隣には火村には不機嫌そうに見える森田敏樹。表面はにこやかだが、火村を見る目には明らかな敵意があった。
「アリス」
 火村は片手を上げる。
「ランチが売り切れとったから、カレーやわ」
 有栖はトレーを置き、火村の正面に座る。その隣に敏樹。
「火村もカレー?おそろいやな」
 有栖はふんわりと嬉しそうに笑った。そして、隣はこれっぽっちも嬉しくなさそうだ。
 まあ、当然の反応だろう。
 その同じ場所に集った見目麗しい三人をまわりは気にしていないかのように素知らぬ顔をしているが、しっかり聞き耳を立てていた。興味のないはずがない。
 彼らはとんでもなく目立つ三人であるのだから。
 ついこの間までは、二人と一人でそれぞれ目立っていたのだが、つい最近三人組で見かけるようになった。何が起こったのだ、どうやって知り合ったのだ、それとも三角関係か、というのが周囲の大まかな意見だ。
 片や、法学部の似合いの一対。「眠り姫と騎士」とあだ名される二人。
 「天使」の通り名をも持つ、影のミス英都。無邪気で無防備、超絶美貌の「有栖川有栖」。
 法学部随一の秀才。「弁護士」現役合格間違いなし、正統派ハンサムの「森田敏樹」。
 片や、社会学部の期待の星。末は博士か?クールな頭脳と性格と容姿の「火村英生」。
 これで、気にするなというのが難しい。
 有栖を挟んで火村と敏樹が会話しているが、どうも空気がずっしりと重く感じる。
 なぜ、有栖は平気なのだろう?
 皆は不思議だ。でも有栖なら当然なのかもしれない、と変な納得もする。なぜなら、あの両極端にいるハンサム二人が同じ場所にいるのはひとえに有栖のせい、いや、おかげだろうから。
 大学中から集めたような美形3人を「いいもの見たな」と鑑賞しラッキーと思うものも多かった。けれど、決して全てではない。苦々しく思うものも確かにその場にいたのだ。
「学食のカレーも美味しいよな〜」
 ご機嫌の有栖は美味しそうにカレーを頬張る。
 火村はあらから食べ終わっていたので、目の前の幸せそうな有栖の顔を見て、ちらりと横目で敏樹を見る。こちらはラーメンと単品のおかずだ。あまり美味しそうに食べてはいない。火村にもその理由はわかっていた。
 自分が目触りらしい。
 「眠り姫と騎士」というあだ名を持つに至るまでの森田の苦労は大したものだったに違いない。その分、当然有栖を独占して来たわけだ。
 けれど、だからといって「はい」と引き下がるのも馬鹿らしい。
 「天使」と言われる有栖。
 清浄な空気をまとい、光輝くように微笑む。その姿形はまさに天上のもの。
 自分とはかけ離れている。まさに正反対の場所に居る。
 けれど、火村は自身にも不思議なほど有栖を気に入っていた。
 自分の中に巣くう闇を彼に消して欲しいというのだろうか?
 己はそれほど弱いのだろうか?誰かに縋るほど?
 火村は有栖の存在をどう捕えていいのか、正直迷っていた。
 だからと言って、離れるつもりはこれっぽっちもない。できるなら、傍に居たい。
 森田に独占させておく気もない。
「アリス、この前言ってた本、持ってきたぞ。ほら」
 火村は鞄から無造作に一冊のハードカバーの本を取り出す。
「うわ〜。ありがとう」
 有栖は本を手に取り、満面の笑顔になる。見ているものを幸せにする、綺麗な微笑みだ。
 もちろん、火村も幸せな気分になる。
 おかげで彼にしては珍しく、微笑ましいという表情で薄く笑った。見守っていたまわりの人間は、驚愕した。一瞬空気も凍ったほどだ。微笑む火村など滅多にお目にかかれるものではない。
 一方、それを表面は穏やかに、内心は苦々しく見ていたのが敏樹だ。
 一体全体どうしてくれようと敏樹が考えていた時。
「有栖川」
 有栖の前に火村を遮るように現れた男が一人。
「岡部?」
 岡部浩一郎、同じ法学部である。以前も有栖にちょっかいをかけて、敏樹に追撃された過去がある。
 有栖は首をちょいと傾げて、不思議そうに岡部を見上げる。
「ちょっと、いいかな」
「うん。何かあった?」
 有栖はトレーを持って立ち上がる。
「有栖!」
 有栖は、名前を呼ぶ敏樹に安心させるように大丈夫だよと言いながら、
「敏樹、遅くなったら先に講義室行っててな」
 と告げ、本を少し高く持ち上げ示し、火村にありがとうと言うと、有栖は岡部の後を追った。
 残された二人は沈黙した。
 敏樹は目の前の火村よりも有栖のことが心配でしかたなっかった。
 相手は岡部である。ずっとしつこく有栖に付きまとい、敏樹がせっせと追い払っていたおかげで有栖は気づいていないが、いい加減諦めたかと思っていた矢先の出来事である。 イライラして落ち着かない。
 さすがに、後を付いていくのは気が引けるし、そこまで子供扱いするなと、有栖に釘をさされそうだ……。
「あの男、平気なのか?」
 火村は敏樹の態度から、有栖を連れていった相手が全く良くない人物であると推測していた。
「よくないに、決まってるだろう」
 火村相手に取り繕うつもりもないのか、敏樹は思いっきり不機嫌という顔で吐き捨てた。
「岡部に何かする度胸はないと思うけど……」
 一応、心配している火村にも意見を告げておく。
「度胸はなくても、人間せっぱ詰まると、何をするかわからない」
 火村は無表情の仮面の下に不安を覗かせて、言う。
 さすがに敏樹も態度を軟化させた。心から有栖のことを心配していることがわかったからだ。
「あの、岡部って男はずっとしつこく付きまとってたんだ。事あるごとにやれコンパだ飲み会だ、映画だと誘ってきて、俺に睨まれるとすごすご逃げ帰るような奴だ。けれど、こんなに正攻法でくるとは思わなかった」
「なるほど。アリスも無碍には断れない状況だろうな、あれじゃあ」
 いい男二人が何やら眉をひそめて相談している、端からはそう見える姿はとっても絵になった。一体何を話しているのか周りは知りたいと思ったが、内容はどれだけ推測してもわからなかった。
 そして、有栖は戻って来なかった。



「岡部、どうしたんや?」
 岡部の後を付いてきた有栖は空いている部室のような場所に居た。
 岡部所属するサークルの部室かな、なんてのんきに思う。
 この危機感のなさが、二人が子供扱いする要因なのだが有栖は気付いていなかった。気付くような人間だったら、もっと二人は安心していられるのだけれど。それさえも、傍にいられるなら、大した事ではないと思う彼らはかなり有栖にやられていた。
「有栖川……」
「うん?」
 真剣な岡部に、有栖は何か悩みでもあるのかと首を傾げるという可憐なしぐさで見上げた。
 それは、逆効果だろうという忠告をする者も残念ながらここにはいない。
「俺……」
「うん」
 有栖は辛抱強く待つ。
 話難い事なのかな。どうしたんだろう。俺で相談に乗れるかな。
 頭の中はそんなことだ。
 どのくらい待っただろうか。
「俺、有栖川が、好きだ」
 決死の告白である。岡部はじっと有栖を見つめ、言葉にした。
 しかし、有栖はどう考えても衝撃を受けたようには見えなかった。
「うん。ありがとう」
 にっこり、小首まで傾げて可愛らしい。
 岡部はなんと表現していいのか、複雑な表情を浮かべた。
「だから、好きなんだけど……」
「うん。俺も好きやよ。だって、友達やん」
「そうじゃなくて……」
 どうしたことだろう……。全く自分の真意は伝わっていない。岡部の心情は可哀想なくらい混乱していた。
 こうなったら、と岡部が思っても不思議ではなかった。誰もその行為を許せないだろうが。
「有栖川!」
 そう言うと、岡部は有栖の背中に両手をまわし引き寄せる。
 え……?何が起こったのか、と思う間もなく有栖は床に押し倒されていた。
「何、するんや!」
 有栖の叫び声が部屋に響く。
「嫌や!」



 翌日、どんなに敏樹が聞いても有栖は口を割らなかった。にっこりと笑って可愛くご魔化すのだ。
 何かあったのでは、と余計に敏樹は心配になる。
 岡部は講義に現れない。
 結局何もわからないまま昼食の時間となった。
「火村!」
 すでに食堂にいた火村の傍に有栖は寄る。その後を複雑そうに敏樹は歩く。
 敏樹は火村の姿を見ると肩をすくめてみせた。
 それだけで、火村には有栖が何も語っていないことが理解できた。
 目の前にはにこにこしながら、海老フライを食べる有栖。今日はちゃんと買えたランチだ。
「昨日は、どうなったんだ?」
 火村がそれとなく切り出す。
「うん?何にも」
 有栖は火村の問いにもにっこりと答える。
 こうなると、絶対にだめだ。短い付き合いの火村でさえわかった。
 はあ……。火村と敏樹は一瞬目を合わせ、疲れたように反らした。
 しかたなく、食事を再開させる。
 火村はまたもやカレーで敏樹は有栖と同じランチだ。
 男子学生、量を食べない訳がない。その点カレーは安くて量が多い。正に貧乏学生には人気メニューだ。ランチも同じように安くてお特だ。
 その時、有栖がいきなり立ち上がった。
 どうしたんだ、と声をかける暇もない。そのまま有栖を二人は見送る。
 すたすたと淀みなく有栖は歩いて行き、食堂に現れた岡部の前で止まる。
 岡部は顔面蒼白だ。有栖を見て何も言えないで身体を硬直させている。そんな岡部をじっと見つめると、有栖はおもむろに平手で、
「パチ〜ン!」
 とひっぱたいた。
 一瞬にして食堂から音が消えた。まわりは何事かと固唾を飲み岡部と有栖を注目する。
 叩かれた左頬に手を置いたまま呆然とする岡部に有栖はにっこりと微笑むと、
「これで、忘れてやる!」
 と宣言した。
 ……。
 ……。
 ……。
 食堂は音どころか、動きさえも失った。
 時間にすると、3秒もなかったのだろうが、再び時間が流れるようになるまで随分かかったような気がした。
 有栖はさっさと、岡部を後にして二人の所に戻ってくる。
「有栖!」
「アリス!」
 二人の慌てた声にもにっこりと笑みを浮かべて取り合わない。
「なんやの?そんな声出して」
 そして、デザートのプリンのふたをあけながら、美味しそうなんて言う。
 火村と敏樹は脱力した。
 けれど、どうしても確かめたいことがあった。
「それで、何もされなかった?有栖」
 敏樹が率直に聞いた。
「なんや、そんなこと気にしてたんか」
 プリンをスプーンですくい一口食べてから答える。
「俺、これでも護身術できるんやで!」
 安心させるように聞き流せない台詞を宣う。
「アリス、確認してもいいか?護身術ってお前、いつ習ったんだ?」
 今度は火村が聞いた。
「うん。小さい時。おばちゃんが自分の身は自分で守れなあかんって、道場に入れられたんや」
 有栖は事もなげに言う。
「あ〜、美味しかった」
 そして、ぱくぱくとプリンを食べ終え有栖は満足そうに微笑んだ。
 唯々、見守る二人だった。


 この事件はあまりのインパクトに人の記憶に残り、長く長く語り継がれることとなる。


 その後。
 3人でいることは当たり前として受け止められるようになる。
 ちなみに。
 有栖は「天使」どころか、「大天使」と呼ばれるようになったとか。




                                                    END


 


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