「めまい」





 めまいがする。
 頭がくらくらして平行感覚おかしくなっているのが自分で理解できる。
 体が発熱しているのか?否、頭の芯に熱がこもっているようだ。
 これはどうした事だろう?
 初めて彼を目にした時、人間ではなく桜の精かと思った。
 4月の入学シーズンはちょうど大学が世間に誇る桜並木が満開の時期だ。
 今年は少し寒かったようで、少し遅れ今が見頃のため入学式に向かう学生達がキャンパスの桜並木を振り仰いでいた。その並木から一歩外れた場所に一本の大木があった。
 この大学にあって、どれだけの生徒達を見守って来たのか、力強く大地に根付し空に向かって伸びる枝。きっと夏には葉が覆い茂り日差しから守ってくれる木陰を作るだろう、けれど今は見る者を圧倒させる程の存在感を与える桜花だ。
 桜色というより紅色に近い彩色。
 「エドヒガン」だ。
 この桜が咲くには少し早い。まだ一、ニ分咲きだ。
 その桜の下に彼は立っていた。
 正確にはぼんやりと見上げていると言った方がいいだろう。
 遠目にも彼がとても綺麗な顔埒立ちであることがわかった。
 なんと表現したらいいのだろうか、自分の語彙の少なさがもどかしい。
 まず、まとう雰囲気がとても不思議だ。ふんわりと暖かく、色を付けるなら暖色系。けれど、きらきらと光をまき散らし常に変化しそうだ。
 そのまま彼は桜に同化してしまうのかもしれない、と思うほど身動きしなかった。さらりと流れる風が唯一彼の薄い茶色の髪を揺らしていた。
 俺は見惚れて、視線をそこから外せなかった。





「森田君、今日空いてない?みんなで飲みに行きましょうよ」
 大学生活2日目から、既にコンパのお誘いだ。まるで受験戦争時代を払拭するが如く、これからは自由を満喫するらしい、クラスメイト。
 なんのための大学だと思う。自分も人のことはとやかく言えないが。
 特別夢を求めて進学した訳ではないし、なんとなく親もまわりもそうすることが当然のように接していたし、自分も特別やりたいこともなく、惰性なのだ。両親はなんとなく俺が後を継ぐと思っているし、俺もそのつもりだ。
 だから、ここ英都大学法学部を選んだ理由もさしてあったわけではない。家から通えて私立の一流大学として有名だったからだ。当然法学部もあるし。
「ごめん、今日はだめなんだ。今度誘ってくれるかな?」
 森田敏樹はにっこり笑い、これ以上の追求を防ぐ。
 長身でハンサムで何でも器用にこなして来た敏樹は昔から女性にもてていた。
 それを不満に思ったことなどないけれど、執着したこともない。基本的に愛想もいいし、人付きあいもいいけれど、今はそれどころでないのだ。
 実際今日は遅くもなれない。
「残念だわ。今度、絶対付きあってね」
 とてもこの間まで高校生だったとは思えない、気合の入った化粧をした女性はちょっと不満そうに目を吊り上げ、次には可愛らしく心底残念という表情を作る。そして、だめだってと高い声を出して友達のところへ戻っていった。
(女って、ちょっと化け物だよなあ……)
 敏樹はつくづくそう思う。
 敏樹の心を占めているもの、それは自分の席から少し離れた所に座り、これまた人に囲まれている人物だった。
 昨日の入学式で法学部の一番前の席に座り、皆の注目を集めていた。
 薄い茶色の髪に、宝石のような瞳。生命力に溢れ、きらきらと輝いている琥珀。小さいが形のいい鼻に、桜色の唇。
 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、という言葉があるが、正しくそれだ。先人の言葉があるってことは現実にあてはまる人物が本当にいるんだな、と実感した。今まで信じていなかったのだ。
 美眉秀麗、痩身優美。彼のまわりの空気はとても澄んでいて、透明だ。
 今まで見たどんな人間より綺麗で、可憐で、美しい。
 有栖川有栖、それが彼の名前。
 なんて、ぴったりの名前だろう。
 「有栖」と何度も口の中で呼んでみる。
 彼と話をしてみたい。
 近付いてみたい。
 間近にその綺麗な顔を見てみたい。
 こんなに、他人に興味を持ったのは生まれて初めてだ。


 新一年生というのは、カモなのだろうか?としか思えない。サークル勧誘のため先輩達が、大学生にとても見えない人物もいるが、手当たりしだいに声をかける。少し強引なんでは?と思うものもある。
 それも仕方がないか、とも敏樹は思う。けれど、所詮本人の興味や希望の問題だ。放って置いて欲しい、干渉して欲しくない。
 適当にあしらって、早く帰ろう。
 ふと目の前に「有栖」がいるのがわかった。空気でわかるのだ。彼の周りには色が付いているように見える。
 危なっかしいなあと思ったら、案の定捕まっている。
 それも、彼よりずっと体格のいい男に囲まれて、腕まで捕まれて!
 敏樹は考えるより先に体が動いていた。
「失礼します。有栖川、早く行こう、皆待ってるよ!」
 敏樹は有栖の背後から自分の腕の中に体ごと引き寄せ、勧誘の男達から離す。
「何だ?お前」
「これから、飲み会があるんです。約束の時間がありますので、申し訳ありませんが、失礼します」
 瞳を大きく見開いて、有栖は敏樹を見上げた。その瞳はどういうことだと聞いている。
 敏樹は、俺に合わせろよと目で合図を送る。
 有栖の瞳が理解したように瞬く。そして、
「約束の時間がありますから。ごめんなさい」
 有栖はぺこりと頭を下げて、にっこり微笑んだ。
「……」
「……」
 それは、強烈な攻撃だった。微笑むだけで、どうしてこんなに破壊力があるのだろう?
敏樹は思う。
 しかし、すぐに立ち直ると「それじゃあ」と言い捨ててその場を後にする。
 まだ、しつこく勧誘されると厄介だ。
 勧誘の群れをどうにかやり過ごし、正門を出る。
 隣の有栖はふう、と一息。
「困っているように見えたんだけど……。でも俺の出る幕じゃなかった?」
「そんなことあらへん。ありがとう、助かったわ」
 桜色の唇からもれるのは柔らかいテノール。有栖が話すと関西弁もとても柔らかくて優しい。
「ほんまに、ほんまに、ありがとう!」
 にっこり、と極上の笑顔に敏樹は見惚れた。
 可愛いなあ……というのが素直な気持ち。
「勧誘はしつこいから、ああいう時はさっさと逃げろよ。それともどこかに入ってしまえば話はすむけど」
 内心、でも有栖だったらどこかに所属しても誘うだろうなとも思う。
「ところで、何で俺の名前知ってるん?」
「ああ、俺も法学部だしね。昨日入学式で一番前に座っていただろう。だから、覚えている」
 本当は有栖だから、覚えているのだけど。それはとても言えない。
「そうなんや。ところで、名前教えてくれる?お礼もできんわ」
「森田敏樹。同じ法学部だよ」
「森田くん?そうなんや。俺は知ってる見たいやけど、有栖川有栖いうんや。よろしくな」
「敏樹でいいよ。俺も有栖って、呼んでいい?有栖」
 敏樹はにっこりと、今まで寄って来た女性が素敵と誉め称えた笑顔を浮かべる。
 有栖は少しぽかんとすると、くすりと笑う。そして、
「うん。敏樹」
 と返した。
 敏樹は有栖に「敏樹」と名前を呼ばれたことに今までにない満足感を覚えた。
「笑わないんやな、敏樹は」
「何を?」
「名前」
「ああ、ぴったりだな。有栖に。これ以上ないくらい似合っている」
「ほんまに?ありがとう」
 くすぐったそうにして、細い首を傾げながら有栖は敏樹を見上げる。その拍子に茶色の髪がさらりと揺れた。
 敏樹はなんだか負けたと思った。心臓一突きされた気分だ。
「それじゃあ、ごめん。本当に急いでるんや」
 有栖は思い出したように、急いで駅に向かって走ろうとしていた。
「ああ、俺も急いでたんだ」
 行こう、と言って誘い駅まで一緒に帰る。
 そして、じゃあ、また明日。と言って二人は別れた。
 予感を残して。



「おはよう!有栖」
「おはよう、敏樹!」
 翌日から二人は行動を共にするようになる。
 まわりの反応は、見目麗しい二人が一緒にいることで、少し近付きにくくなったようだ。
 あからさまに、取り囲むこともなくなった。
 挨拶を交わすと、敏樹は有栖の隣に座る。
 大阪からここ京都に通う有栖は家を出る時間が一定のようで、敏樹よりいつも早く来て席を取っていてくれる。有栖が今日取っていてくれた場所は大教室の一番後だ。
 この席に意味があるのだろうかと敏樹は疑問に思う。
 どうも講義によって席が違うらしい。興味のある講義は一番前だし、そうでないと今日のように一番後になる。けれど、これから始まる講義は結構面白いよなと有栖は言っていたはずだが。
「有栖?」
「え?何、敏樹」
「ひょっとして、眠いの?目が赤い。昨日また徹夜で本でも読んでたんだろう」
「そんなに、赤い?」
 有栖は子供のように目をこする。
「こすると、余計赤くなる。1限目は眠るつもりなんだろう。もう、寝てな」
「うん」
 有栖は素直にうなずくと、我慢できないように机に腕を組みその上に頭を乗せた。
 すぐに、スー、スーと寝息が聞こえてくる。
 よほど、眠かったのだろう。
 有栖はかなりの読書家のようで、こういうことも時々あるのだ。
 隣でこんなに安心して眠られるとは、自分は信用されてるんだろうなと思うと嬉しい。
 一緒に初めて帰った時のこと。
「どうして急いでるんだい?有栖」
「今日は入学祝いをしてくれるんや、家族が。昨日は都合が悪くて、だめやったから」
「そうか、それは急がないとな。場所は?間に合いそう?」
「うん、大阪なんやけど。どうにかなると思う」
 有栖は嬉しそうに敏樹を見る。
「大学生にもなって、家族と一緒にお祝いだって言っても、敏樹笑わないんやな」
「笑う訳ないよ。家族仲がよくて、いいことだろう。うちは両親が忙しいからそれどころじゃないけどね」
「そうなんや?」
「ああ。弟がいるんだけど、まだ小学生なんだ。今日が始業式だから、早く帰ってやりたいし。だから、俺も急いでるんだ」
「そうなんや。弟さん思いやね。可愛い?俺一人っ子やから、うらやましいなあ」
「そうだなあ。可愛いよ。有栖は兄弟欲しかったんだ?」
「うん。敏樹みたいな格好いいお兄さんやったら、いいなあ。背高くって、ハンサムで優しくって!」
 そう、敏樹を喜ばせることを簡単に言う。
 まったく計算ではない有栖の素直な賞賛は、敏樹をかなりいい気分にさせた。
 今までどんな可愛い娘に誉められても、どんなに異性にもてて告白されてもこんなに胸踊ったことはない。出逢ってまだ日が浅いというのに、もうこんなに有栖は敏樹の心の中に入り込んでいる。
 敏樹はさらりと有栖の頭を撫でると、わずかに微笑む。
 さて、有栖のためにもしっかりノートでも取るかな。
 敏樹は授業に集中することにした。


 有栖が目を覚まし復活したのはお昼を過ぎた頃だった。
 食堂で今日のランチでも取ろうと席に有栖を座らせ、敏樹は食券を購入してランチが出来上がるまで列に並んで待っていた。
 食堂のおばさんは、時々おまけをしてくれる。少しご飯が多めであったり、おかずが多めによそってあったりする。有栖の場合はおまけも少し違う。デザートにといってプリンやヨーグルトが付いてくる。それでは、明らかにばれるのではと思うのだが、彼女達にとってはいいらしい。そう、おまけしてくれるおばさんは複数なのだ、恐ろしいことに。
 敏樹も知らなかったのが、実は食堂のおばさんの間では二人が並んでいる姿にうっとりとして、目の保養をしていたのだ。二人のファンだった訳だ、つまり。
 敏樹が戻ってくると、ぼんやりした有栖の横に同じ学部の男がいた。何かにつけて、有栖に近付いてくる男だ。
 またか、と敏樹は思った。
 ちょっと目を離すとすぐに誰かが有栖に寄ってくる。
 花に群がる虫のように、追い払っても追い払っても切りがない。
 敏樹は心中で舌打ちしたい気分だったが、外見上はにこやかな笑顔で歩いていった。
「有栖。お待ちかねのランチだよ」
 隣の男には目もくれず、有栖の目の前にトレーを置く。
「敏樹?ありがとう」
 有栖はふんわり夢見心地で微笑む。まだ、本格的に目覚めてはいないようだ。
 やっぱりこんな有栖を一人で置いておいたのまずかったようだ……。こんなに無防備だと、この男もどうにか付け込もうと必死だったに違いない。
「岡部、何か用?」
 敏樹はさりげなく、でも冷たい声で問う。
「別に。森田には関係ないけど」
 岡部は嫌そうに敏樹から視線を外す。
 視線一つで怖じ気づくような情けない男だ。
 そんな度胸で有栖に近寄るんじゃない、と心の中だけで思う。まったく出直して来い、だ。
「ほら、有栖。食べて。岡部はもう食事済んだんだろう。次の一般の英語は岡部当たると思うよ。あの教授は日付で当てるから。予習はしてあるのかい?」
 敏樹は表面はとても新切に言う。言葉だけ聞いているとなんていい奴なんだろう、と思うが目は笑っていなかった。
 そして、もう興味はなくなったように有栖に向き直りランチのメインであるカツを口に運んだ。
 岡部は悔しそうに唇を噛むと、どうにか表情を押し隠し、
「じゃあ、有栖川」
 と言うと去っていった。
 岡部の後ろ姿を見送って、ふうと一度敏樹はため息を付く。そして、目の前で美味しそうにご飯を食べる有栖を見つめる。
「有栖、岡部に何か言われたの?」
「え?う〜ん、今週の金曜日にあるコンパに行こうって、言ってた」
 有栖は素直に答える。そこには何も思うことはない。
「それで?どう答えたの、有栖は」
「うん、金曜日は敏樹と映画見に行く予定だから、行けないって断ったんや」
「……。そしたら、何か言ってた?」
「そんなに敏樹が好きかって、聞かれた」
 有栖は箸を一端置き、お茶をこくりと飲む。
「それで?」
「好きやって答えたで。好きに決まっとるやんなあ、友達やもん!」
 …………。あ、有栖〜〜〜。
 敏樹はあまりのことに我慢できずに笑い出した。
 あはははははは!
 おかし過ぎる。
 岡部も気の毒に。少しだけ同情するなあ。
「敏樹?どうしたんや」
「有栖には、わからないことだよ。気にすることない。ちょっとツボにはまっただけだから」
「……?敏樹、笑い上戸やなあ」
 有栖の検討違いの会話に余計に笑いがこみ上げる。
 まあ、いいか。また敵を作ってしまったようだけど。岡部如き、それほど害もないだろう。
 敏樹はさっさと岡部の事を忘れると、
「俺も、有栖のことは好きだよ」
 と言った。
「俺もやで!」
 有栖はにっこりと満面の笑みで答えた。
 その場に遭遇していた知り合い達は一瞬声を失ったらしい……。




 どこに、行ったのだろうか?
 有栖の行く場所を考える。最近では、だいたい検討が付くようになって来た。
 今日は天気もいいし、屋外の可能性が高い。
 有栖はどこだ?
 こうしていると、まるで不思議の国に落ちたアリスを探している気分になる。
 きょろきょろと見まわしながら、有栖の好きな木々を探す。
 すると、桜の木の下で有栖を見つけた。
 なんと、眠っている。
 ちょっと、まずいのではないだろうか。一人でこんな所で寝ていたら危険だ。襲ってくれと言ってるようなものだ。
 敏樹は焦る。
「有栖?」
「う、ん……?」
 瞼がわずかに動く拍子に、長いまつ毛が揺れた。そしてゆっくりと瞼が開き瞳が覗く。
「敏樹……?」
 寝ぼけているのか?
 声が少しかすれている。
「風邪引く、有栖」
 声をかけたが、再び目を閉じて穏やかな寝息が聞こえてきた。
 だめらしい……。こうなると起きないし、無理に起こしたくもない。
 敏樹は仕方なさそうに笑うと、上着を脱ぎ有栖の身体の上にかける。
 目を閉じていると大きな瞳が見えなくて、整った顔立ちが余計に人形めいて見える。白くて柔らかそうな頬に手を伸ばす。触れると、少し冷たい。
 いつから、ここにいたんだろう?
 ふと見ると、髪に桜の花びらが落ちていた。
 アリスの髪に絡まっている花びらを払うように、柔らかい茶色の髪を梳く。何度も。
 触り心地の良い髪質は、何度梳いても飽きない。ずっと触れていたいと思う。
 
 有栖は、綺麗で、危っかしくって、目が離せなくて、ついつい構ってしまう人間だ。
 自分がこんなにも彼に構うのは、ひょっとして人に世話を焼くことが癖になっているからなのだろうか?
 やっと小学生になった弟の面倒をずっと見てきた。両親が忙しいため、高校時代は保育園の送り迎えもしていた。それと同じようなものなのだろうか?自分の態度は。
 けれど、こんなに可愛い寝顔を晒されては溜まらない……。心がざわめく。
 弟には当然こんな感情は起こらない。
 この気持ちは何々だろう……?
 自問する。
 でも、そんなに簡単に結論を出す必要もない。
 これから時間はたっぷりあるのだから。
 はっきりしている事は、隣にいて、ずっと守っていきたい。
 有栖の笑顔を見ていたい。
 それだけだ。


 敏樹は有栖の隣で大木に背中を預け、澄んだ青い空を見上げた。





 その後。
 有栖は、桜の下で気持ち良さそうに可愛い顔をして眠るため、「眠り姫」と言われるようになる。その横には必ず敏樹の姿も見かけられた。そのため、姫君を守る騎士のようだと噂され「眠り姫と騎士」と陰で呼ばれることとなる。
 もちろん、彼らはまだそんなことは知らない。



                                                    END


 


ブラウザでお戻り下さい。