「森田君、ありがとう。助かっちゃった」 「いえいえ、どういたしまして。がんばって」 「今度、美味しいご飯おごるから!じゃあね」 セミロングの似合う清楚系の女の子は、可愛らしく手を振って去っていった。 森田はふうと一つ息を吐く。 今日の依頼はわりと簡単だったな、と思う。 大学の食堂の出入り口へと消えた女の子を見送り、脇に設置されている自動販売機でカップのコーヒーを買う。いつも通り、ミルク多めの砂糖なし。 大学内はカップコーヒーも安くていい。これが一歩外に出れば一気に150円だ。70円コーヒーもそう思うと美味しく感じる。 カップの熱さを避け上の部分をそっと持つようにして、食堂の固い椅子に腰かける。 手帳に先ほどの依頼内容を書きこみ、今日の予定の確認をする。 (ふむ……) 森田は少し温くなったコーヒーをすすった。 「失礼します」 森田は軽く二度ノックして、ドアを開けた。 ここは法学部、佐伯教授の研究室だ。森田は佐伯教授のゼミを取っている。 「やあ」 森田の姿を認めて佐伯は穏やかに微笑む。部屋には彼一人のようだ。 「こんにちは、教授。お一人みたいですね。何か飲みますか?」 勝手知ったる、研究室だ。返事を聞く前に簡単なキッチンスペースに移動して、戸棚から教授の好きな紅茶を物色する。 「ありがとう。お願いするよ」 佐伯の返事を背中で聞き、森田は戸棚に並ぶ缶に視線をやり、一つに定めた。 今日の気分は、香りのいいフレーバーだ。有名なブランドの缶を手に取りポットを用意し熱湯で暖めてから、葉を入れ湯を注ぎ丁寧にいれた。 この空間は穏やかに時間が過ぎる。森田の好きな空間の一つだ。もちろん、佐伯教授がいてこそだが。 「はい。どうぞ教授」 デスクの上で書物に熱中する佐伯に声をかけ、隅に湯気を立てているカップを置く。 自分用にいれた専用のマグカップを手に持って、横から佐伯が熱心に書いている書類を覗きこむ。 「ごめん、呼びだしておいて。もうちょっと、待っててくれるかい?」 「かまいませんよ。どうぞ、ごゆっくり」 目に入った文字から、今度発表する論文だろうかと推測できる。 書きだすと途中で止められなくなる気持ちは、理解できる。自分は特別急いでいる訳でもなく時間もあるから、本でも読むか? 森田は専門書が詰め込まれている本棚を見まわし、おもしろそうなものを一冊抜き取り椅子に座ると目を落とした。 自分が指でページをペラペラとめくる音が静かな部屋に響く。 時間が許せば、研究室にある本は目を通すことにしている。法学に関する専門書がまんべんなく揃っているためだ。他大学に比べ蔵書を誇る図書館よりも、やはり佐伯の趣味によって集められた本は森田の好みにあった。選んだ本は、森田の興味を引いて夢中で読み進む。 どれくらい経っただろうか?時間を忘れて読んでいると。 「森田君、お待たせ」 いつの間にか佐伯が目の前に立っていた。 (気がつかなかった……。どうして、こう気配がないかな。この教授) 「すいません。気づきませんでした」 森田は謝る。 「いやあ。こっちこそ悪いことをしたね。たいした用事じゃないんだけど」 佐伯は森田の向かいに座った。肩が凝ったのか首をまわすと、ゴキっと音がして眉をひそめた。そして、年かね、なんて呟く。 「明日なんだけど、空いてないかな?森田君」 「明日ですか?大丈夫ですけど……」 森田は首をひねりつつ、答えた。明日は何もないはずだ。 「実はね、外国からお客様がみえるんだ。だから通訳をお願いしたいんだけど?」 「通訳ですか……?英文科の生徒にでも頼んだほうがいいんじゃないですか?」 佐伯の頼みに、森田はわずかに顔をゆがめた。 「君、英語ペラペラじゃないか。2年間も留学してただろう?英文科の生徒よりよっぽど頼りになるんだから、これより適任はいないね」 佐伯教授はにっこりと笑って断言する。 いつも穏やかに微笑んでいて、怒ったところを見たことがない。それでいて、学問に対する姿勢は厳しい。仕事に忙しい父親よりよほど森田は佐伯を理想だと尊敬していた。こんな父親だったら、いいだろうなと思う。 そんなこともあり、この人には逆らえないと思う。 はあ……。森田は内心ため息を付いて肩をすくめた。 「わかりました。引き受けますよ」 森田は佐伯の視線に屈するように、両手をあげて了承の意を示した。 「良かった!引き受けてくれなかったら、どうしようかと思ったよ」 「教授……。絶対引き受けさせるつもりだったくせに、そんなこと言わないで下さい」 佐伯はそんな森田を面白そうに観察し悪戯っ子のように目を細めた。 「探偵を目指しているのなら、何でもするべきだよ、森田君!」 よりによって、佐伯はそんなことを言う。 本当に、やれやれである。この教授にばれているのは仕方ないか。 自分の副業、情報屋。 大学生活中に情報収集の技でも磨くかと、始めたのだが案外好評でやめられない。 もちろん、学問が疎かになるつもりはないから、副業として割り切っている。小学生からの夢、「探偵」になるために森田は日夜修行の真っ最中だ。法学、経済学、果ては社会学の火村の犯罪学も聴講している。 「君はそんなに優秀なのに、なぜ目立たないようにするかな?」 佐伯がふと声音と表情を変えて、森田を真摯に見つめた。 「……。さあ、面相なんですよ」 対する森田は、とても本心とは思えない理由を答えた。佐伯は微笑を浮かべたまま森田の返答を特別追求をせず、話を変えた。 「ところで、お兄さんは元気かな?」 「元気じゃないんですか?時々メールが来ますよ。便利ですね、今は」 昔は電話しかなかったけれど、さすがに時差と料金が気になったものだ。メールなら安価だし、いつでもどこでも送ることができ相手にも負担にならない。 「私のところにはカードをくれるよ。年賀状やクリスマスとかね」 「兄貴らしい。めったに逢いませんから、兄貴の中でいつまでも俺は小学生らしいですよ」 大学を卒業してすぐに仕事とはいえ、各国を転々としているおかげで、逢う機会は少ない。当時俺は小学生だったから、と森田は過去を振り返る。 「今はドイツだったっけ?いつ帰ってくるんだろうね」 「さあ。わかりませんね」 森田のそっけない返事にも佐伯はかまわないようだ。いい機会かな?なんて呟きながら、森田に問う。 「なぜ、森田君はここに来たのかな?兄弟そろって同じ大学、学部、ゼミ担当まで一緒とは意味があるんだろう?……まあ、私は嬉しいがね」 「意味なんて、あるんだかないんだか。でも、自分のスタートラインがここでなければいけないのかもしれません」 森田は佐伯だからこそ、やっと本心に近い言葉を言う。 それも佐伯にはわかっていた。 「スタートラインか……」 「ええ」 二人とも窓から見える景色を見つめる。 どこからか、微かな話し声や物音が聞こえる。 のどかな、午後だ。 佐伯は何気なく話し出した。昔話のように。 「お兄さんはとても優秀で有名人だったね。あの時代はユニークな人材が豊富だったなあ。この研究室にも面白くて優秀で綺麗な学生がいて、果ては友達まで連れて来て、私もとても楽しかったよ。毎日顔を出してくれて、話題に事欠かない。今でもそのうちの二人にはすぐに逢えるけどね。だからよけいに、隣にいた彼を思い出してしまうのかもしれないね。君は彼の弟ということをあまり公表したくないみたいだが、どうしてだね?」 そう、今でも兄貴のことを知っている人は多い。 昔からこの大学にいる人達にとってあの3人はいくら年月が過ぎても色褪せないのだ。一人がそのまま大学に残り、もう一人が頻繁に大学に顔を出せば、そうもなるだろう。 「時期を待っているんですよ、教授」 ここから、逃げた兄貴。いつ戻ってくるのだろう? あの時から、どんなに身体は成長しても時間を止めているのかもしれない。 きっと兄貴の時間も止まったままだ。 もういい加減、この呪縛から解き放たれないといけないのだ。 森田は研究棟から桜並木を通って食堂へ向かう。 まだ、春には少し早いため満開の桜並木というわけにはいかないが、僅かに蕾がほころび始めている。森田は空を見上げた。 見上げた青い空にはぽっかり浮かぶ白い雲がある。 この間はかなり無謀な男がいたな、と空を見ていて思い出した。 あいつは、火村のライバルになるつもりらしい。 鈴木という、有栖さんに一目惚れした悲しい男だ。 彼に語った事は実は自分の体験だった。 兄貴の友達の有栖さんは時々家に遊びに来てくれた。 初めて逢った時は子供心に「これが初恋なんだ」と自覚した。 ミステリが大好きで、その頃俺も江戸川乱歩やルパンのシリーズなど読んでいて、探偵に憧れていたからいっぱい話をした。有栖さんも自分を子供扱いせず一緒に無中になって話してくれた。 まったく、その頃から俺は「探偵」になるって決めていたのかと思うと、我ながらに可愛いなあと思う。 有栖さんとの「約束」だ。 だって、有栖さんは約束通り「作家」になったのだから。 例え、忘れられていても俺は覚えている。 そして、子供は素直が取り得だから何かの拍子に「好き」と言ってしまったのだ。けれど、小学生の自分がどんなに「好き」と言ってもまともに取り合ってもらえなかった。別に子供だからという理由ではなく誰に対してもだから、と兄貴は笑って慰めてくれたが。 後に、大学祭に連れて来てもらった時、そのような現場も目撃した。 にっこり笑って、ありがとうという有栖さんを。 それもこれも、懐かしく遠い思い出だ。 食堂ではすでに人気もなくて、安心して鞄から仕事道具のノートパソコンを取り出す。そして、電源をいれた。 まず、メールの受信をする。これでいろんなやり取りをしているため、パソコンが手元から離せない。このマシンもそろそろ型遅れかねと思いつつ長く使っている。 (新しいマシンは欲しいが、先立つものがなあ……) いろいろな情報や、ダイレクトメールの中で森田の目を引いたメールが一つあった。急いで、そのメールをクリックする。 「毅史、元気か? そろそろ、日本は桜の時期がやってきているだろうか。 学生時代に見た、京都の桜は格別だったことを、今でも思いだす。 急だが、一時帰国することとなった。 お前に逢うのも何年ぶりだろう。 楽しみにしている。 敏樹」 「兄貴、帰ってくるんだ……」 まだ、1、2分咲きの桜たち。 森田の横を風が通りぬける。春一番だろうか。 嵐が来る、森田はそう思った。 「火村、お前の最大のライバルが帰ってくるぞ。どうする?」 笑っているのだろうか、風は落ちた花びらを巻き上げながら、運んでいった。 森田はふわりと立ちあがる風の中を歩いていた。 END |