「あこがれの、君」





 俺は鈴木健二。英都大学2回生だ。
 ここ、「King's Bench」というイタリアンレストランでバイトしている。
 美味しいものを食べることはとても幸せだ。
 その点この店は自分で食べても大層美味しくて合格点だ。なおかつそこまで高くない。
 貧乏な大学生の自分がいつも食べるには高いが、社会人や奥様方にとってはとても美味しいのにリーズナブルということになるらしい。
 まあ、言ってみれば俺は自分の舌にあったこの店で、まかない食べたさにバイトすることにしたのだ。
 食べ物屋のバイトで最大のメリットがまかないだ。
 貧乏学生にとって、食べ物が付いてくるということは家に帰ってご飯を作らなければならないという心配もないし、コンビニで弁当を2個も買わずにすむという、便利さがある。どうせなら、美味しい店が一番だ!
 店のウエイターの制服は白いシャツに黒いパンツ。それに深い緑のエプロンで紐は背中で交差して前できゅっとしばるタイプだ。我ながらこれがなかなか似合って入ると思う。
 俺は長身でがたいがいい。
 おかげで、子供なんて俺の顔を見ると、泣きだす始末だ。
 これでも無愛想ではないし、友達付きあいもいいと思う。けれど、小学生教諭の勉強をしているなんて、たいてい信じてもらえない。
 自分でも、向いてないないと思う。両親が教師でなければ教育学部には来ていなかった。本当はひそかに調理師の免許を取りたいと思っている。
 この店に勤めだして、ますますそう思うようになった。
 落ち着いた雰囲気で内装も上品。店長のサービスに対する態度も素晴らしく、シェフは美味しいもの作るという姿勢がこれまた惚れ惚れするほどだ。まさしく天職かと思う。



 カラ〜ン。
 
 玄関のドアにかかっているベルが鳴る。
「いらっしゃいませ!」
 お客様がいらしたようで、急いで声をかける。
 あいさつは大切だ。
 もちろん知っていたがここではちゃんと心を込めるように、言われている。
 店長の方針なのだ。マニュアルのようにあいさつするな、という。
 俺はその意見に大賛成で実行している訳だ。
 振り向くと、そこには男性の二人連れ。けれど俺はそこから一瞬目が離せなくなった。
 片方は俺の知ってる人物だった。俺の通う英都大学の社会学部助教授、名前は火村。俺は教育学部なので関係ないが、彼は大学内では有名で俺でも顔くらいはわかるのだ。
 若くして、……それでも30を超えてる……助教授になった上、社会学部の友達が言うには授業も面白いらしい。けれど、そんなことが彼をここまで有名にしたのではない。要は顔がいいのだ、背も高い、声もいい、女子生徒から「いい男よね〜」とユニゾンされ、俺でも詳しく知っているくらいだ。
 俺は別に羨ましくなんてないけどな!
 今日は彼にしては珍しく背広にきっちりネクタイをしめていた。以前食堂などで見かけた時は着崩していて、だらしがない印象があったが(いつもそうだ、と友達にも聞いてた)今日は妙にきっちりしていて、俺から見ても嫌味なほどにいい男だ。
 でも、だからといって特別興味もない。
 俺の心をぎゅーとつかみ、持っていった人は火村助教授の横に並ぶ人。
 一言でいうなら、とても綺麗な人。彼のまわりの空気は澄んでいると思う。
 さらさらの茶色の髪に、日本人にしては珍しい琥珀の瞳。形のいい鼻に桜色の唇。小さな顔の中に絶妙のバランスで配置されている。「痩身優美」という言葉がこれほど似合う人に逢ったのは始めてだ。
 彼は真っ白のAラインのスプリングコートを入り口で脱ぐと、マフラーと一緒に店長に預けた。
 どうでもいいが、この時助教授もトレンチコートを一緒に預けている。
 話は戻り、彼のインナーは薄い春色のシャツにブラックのスリムパンツだ。とても、とても可憐な姿だ……。
 常連らしくて店長が応対していた。バイトを始めて1ヶ月経ち、お客様の対応もまかされるようになってきたが常連の人達には店長がすばやく寄って行ってお礼をいいながら、楽しそうに会話する。
 二人を窓際の奥から2番目の席に案内しながら、よくいらして下さいましたと話している。
 暖かい光が灯ったランプをテーブルに置き、「いつものでよろしいですか?」とか「今日はこれがお勧めです」といった会話が聞こえてくる。
 ハウスワインの白をアペリティフに選び、当店お勧めのペアセット。
 季節のサラダにマッシュルームとハムのピッツア、本日のパスタ、ペスカトーレに食後のコーヒーとデザート。これが二人が頼んだメニューだ。
 すぐに運ばれた白ワインの入ったグラスをカチリ、と合わせて乾杯している。
 この二人ってどういう関係なんだろう?
 友達にしては年が離れ過ぎていると思う。
 大学生くらいだから、教え子か?でもこれくらい人目を引く人物を校内で見過ごすはずはないから、英都大生ではないのだろう。卒業生だろうか?そうすると俺より年上ってことになる。そうは見えないんだよな……。
 じゃあ、どこかの大学生ということになる。とても働いているようには見えないから社会人ではないし。いったい二人はどこで知りあったんだ?共通点が見えない。
 会話は聞こえないが、いかにも仲良さそうに会話している二人……。
 気になる。
 けれど、店長がワインも運んだし、これからも接客するつもりらしくて、近づけない。
 遠目だが、火村助教授が優しそうに笑っているのがわかる。
 無表情で愛想のない人物としてしか認識していなかったが、あんな顔もできるんだな。
 いつも女子生徒達をそっけなくあしらっているやつと同一人物とは信じられないほどだ。 まったく、大学の連中にもその顔を見せてやりたいぜ。
 ちょっと顔がにやけ過ぎじゃんねえのか?おい。
 まあ、でもそれくらい大切な存在なのだろう。
 気持ちはわかるさ。
 残念なことにまだ名前もわからないから、彼としか言えないが、綺麗な彼が傍にいたらとても幸せだろう。あの可憐な人に微笑まれたらそれだけで何もいらなくなる。
 ちっ、火村が羨ましい。すでに呼び捨てでかまうものか!
 今まで羨ましいなんて思わなかったが、この人に関してだけはとてつもなく羨ましいぞ。
 どうにかして、近づく方法はないものか?
 さりげなく、水でも持っていくか?それとも店長がちょっとでも手があかなかった時を待つかだな。

 カラ〜ン!

 その時玄関のドアが開いた。
「いらっしゃいませ!」
 反射的にあいさつをする。
 男女の二人組だ。コートなどを預かって席へ案内する。
 そうだ、あの二人の傍にすれば俺が応対しても会話くらいは聞こえるじゃないか!
 俺は二人の席から二つほど離れた席に新しい客を座らせた。テーブルの上に一緒に持ってきたメニューとランプを置く。
「お決まりになりましたら、お呼び下さい」
 そう言っていったん戻る。
 ちらりと横目に見えたのは彼がサラダを取り分けている所。聞こえてきた声は柔らかい関西弁だった。ということは、このあたりに元から住んでいる人間ということになる。二人の会話はたいして聞き取れなかったが、どうやら火村の大学での話のようだ。学会がどうだ、論文がどうだ、というセリフが耳に入った。
 俺は料理を運ぶわずかの時間に、後にあたる二人の動作や会話に神経を集中させた。
「今度旅行に行きたいわ!」
「旅行?4月に入ると新学期でちょっと時間が取れないから、3月中だな、行けるとしたら……」
「近場でええんやけど?花見でもええで!」
 おいおい、二人で旅行に行くつもりか?っていうか旅行にいくほど仲がいいのか?火村!く〜、羨ましい。そんなおやじと旅行になんて行っても楽しくないですよ、俺と行きましょう。ああ、そう言えたらどんなにいいか。
 カップルのテーブルに料理を運ぶ時に聞こえた会話だ。
 よし、今度は店長にさりげなくリサーチしてみよう。
 俺は店長がちょうど体があいた時を狙って、聞いてみた。
「今日の常連さんはよく見えるんですか?」
「ああ、月に一度くらい来て下さるよ。いつもお二人でね。とても美味しいって言って下さって、シェフも喜んでいるし、私も嬉しいね」
「そうなんですか」
 俺は少し声をひそめる。
「実は店長。あのお客様の一人なんですが俺の大学の助教授なんですよ。学部が違うのであまり知りませんし、マンモス大学なので向こうも俺は知らないと思いますが」
「へえ、そうなんですか……。落ち着いた方だとは思いましたがね。じゃあ、それが火村様ですね」
 そう、どちらが俺が言っている人物かなんてわかりきったことだ。名も知らぬ彼が大学助教授である訳がない。
「常連のお客様の名前はやっぱり覚えているんですよね、店長は」
「そうですね。知らずに覚えてしまいますね」
 接客が本当に好きなのだろう店長は楽しげだ。
 俺はこの店長があこがれの形だ。こんなお店をもてたらいいだろうと思う。
 そして、今日出会ってしまったもう一人のあこがれ、いやもう好きになってしまった彼……。
「火村先生と一緒にいる方はどなたなんですか?ひょっとしたら、うちの学生かと思ったんですが」
 俺は何げなく切りだす。
「ああ、有栖川様ですね。さあ、そこまではわかりませんね。でも学生さんではないと思うんですがね」
「学生じゃない?でも俺からはそう見えたんですが」
「うん。学生にしか見えない方ですけど。何度もいらしていただくとなんとなくわかるものなんですよ。君にもわかるようになりますよ」
 穏やかに教えてくれる。
「はい」
 俺は素直に頷いた。
 内心は「有栖川」という名前を入手してやった〜という思いと、学生にしか見えない彼が学生ではないだろう、という事実に驚いていた。
 ああ、「有栖川さん」という名前は彼にぴったりだ。俺は何度もその名前をかみしめる。そして、学生でないとしたら、何だろうと思う。あの20歳くらいの年齢で社会人?見えないなあ。店長の人を見る目というのはさすがこの商売をしているだけあって信用に値するし。謎だ……。
 有栖川さん、貴方はとても謎めいています!
 そして何度かカップルに料理を運ぶ時に耳をすませて知ったことは、有栖川さんが助教授のことを「火村」と呼んでいることだ。
 友達だか、どんな関係か知らないが年上の人間に対して「火村」と呼び捨てるのか?
 それほど親しいってだけなのか?
 わからない……。
 そりゃあ、下の名前で呼んでいたら、それはそれでムカつくが。
 ああ、許せないな。絶対。
 確か助教授の名前は「英生」だったか……。
 「英生」って有栖川さんが呼ぶところを想像したら、吐きそうになった。
 気持ち悪い。とてつもなく。
 俺が自分の想像にくらりと来ていると、店長がコーヒーとデザートを持っていって、と合図してきた。何か店長に電話がかかってきたらしい。
 これは絶好の機会だ!!
 出来上がった、カプチーノとエスプレッソ、デザートはティラミスといちごのシャーベットを持って彼らのテーブルへ向かう。
 カプチーノにはハートが浮かんでいる。これは熟練した技がないとできないのだ。シェフはイタリアで修行しただけのことはあって、いつも遊び心を取り入れてサービスするのだ。このカプチーノが火村だったら、嫌だなと素朴に思う。
 是非、有栖川さんに渡したいところだ。
「失礼します」
 俺はどきどきしながら、二人の前に立った。
「カプチーノのお客様は?」
「俺!」
 と有栖川さんが答えた。
 果たして、カプチーノは俺の希望通り有栖川さんに渡った!俺は残ったエスプレッソを火村の前に置く。
「シャーベットのお客様は?」
「私だ」
 火村が無表情に言う。
 俺は彼の前にシャーベットを置くと、有栖川さんの前にティラミスを置いた。すると有栖川さんは「ありがとう」と言ってにっこりと微笑んでくれたのだ!
 その笑顔が可愛らしいことと言ったら!
 まるで花が咲いたようだ。俺の心臓は動悸が激しくなった。
「失礼します」
 俺は表面は冷静を装って、どうにかその場を後にした。本当ならスキップしたいくらいなのだが、この体のでかい俺がスキップ!きっと友達は笑うだろう……。
 でもそのくらい嬉しかったのだ。
 やはり有栖川さんは素敵な人だ。
 ああ、謎があろうがどうでもよくなる。
 けれど、反対に火村との関係が余計に気になるのだ。
 遠目に有栖川さんが美味しいそうにティラミスを頬張る姿が見える。
 それを優しげに見つめる火村!なんでそんなにいい雰囲気なんだよ。けっ!
 ここのデザートもまた旨いんですよね、有栖川さん。気持ちわかりますよ!
 ティラミスは甘味とほろ苦さが絶妙だし、火村が食べているいちごのシャーベットだって、中に入っているいちごの果肉が柔らかいという素晴らしいものだ。俺はショコラもお勧めだが……。
 ああ、もうすぐ食事が終わる。
 俺なんてここで別れたら、今度いつ逢えるかわからないんだよな。
 有栖川さんがこのお店に来てくれるのを待つしかないのか……?
 それとも火村に聞くとか……、火村が教えるとは思えないが。絶対教えないだろうな、あの男は。見るからに、独占欲が強いタイプだ。
 二人は席を立った。
 そのタイミングを計っていたように、店長は二人に近づき「ありがとうございます」と頭を下げた。
 それに有栖川さんはにっこりと微笑んで応える。
 ああ、可愛いなあ。
 そのまま、俺が立っている会計に有栖川さんが来て、伝票を出す。
 え?有栖川さんが払うのか?そのつもりのようで、財布を出している。
「ご一緒、ですか?」
 どうゆうことだよ、火村!普通、お前が払うのが妥当だろうが。
 一応は大学の助教授だから、収入もあるんじゃねえか!
 何で有栖川さんが払わなくちゃならないんだよ。
 俺はその感情が顔に現れていたようだ。
「そうやけど……」
 有栖川さんの綺麗な顔がとたんに曇る。そして悲しげに瞳を揺らす。
 どうしたっていうんですか?
 俺が何かしましたか?
 有栖川さんは無言でお金をトレーに乗せる。
 俺は内心はどうしよう、と思いつつおつりを指し出した。
「アリス?」
 火村が呼ぶ。
 そのまま有栖川さんは振り向くと、火村が先に店長から受け取っていたコートとマフラーを受け取り、足早やに店を後にした。
 火村はぎろりっと俺をにらみ、舌打ちするとさっさと有栖川さんの後を追った。
 俺は何もできず二人が去った方向を見つめていた……。
 俺は気づかないうちに、あの人を悲しませることをしてしまったのだろうか?
 あの人に、あんな寂しげな顔は似合わない。
 ああ、どうしよう。
 俺は顔には現れないが苦悩していた……。
 そして、大切なことを思いだす。
 火村は有栖川さんのことを「アリス」と呼んでいた。
 アリス、素敵な呼び方だ……。
 火村が呼んでいるのが気に入らないが、あの綺麗で可憐な人にはぴったりだ。
 きっと有栖川を縮めたのだろう、その名前。
 ああ、アリス、アリス、アリス……。
 俺の心の天使。
 きっと見つけてみせる。
 いつ来るかわからないこの店で待ちつづけるなんて絶えられない。
 どんな手段を使っても「アリス」を見つける。
 俺は心に決めた。
 見ていろ、火村!
 きっと、お前から「アリス」を奪ってみせる!
 

 この時まだ俺は知らなかった。
 火村を徹底的に調査してやる、と思っていると案外簡単に「アリス」について知ることができること。彼が「有栖川有栖」という小説家であり火村の同級生であること。
 そして、二人が恋人同士であるという、うわさを。
 俺が事実を目の当たりにしたのはそれから1週間後だった……。
 それはまた、別の話だ。ちくしょ〜〜〜!




                                                    END


 


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